第5話

「やあ」


 彼はいつもの調子で言う。椅子に座っていた私は、何も答えなかった。


「何か、あった?」


 彼は続ける。目は閉じたままだ。私は俯いていた顔を上げ、意を決して言った。


「桜場 海人」


 眠り人の表情が少し動く。驚いたようだった。それから、彼は諦めたように笑い、言う。


「初めまして、かな?」




 眠り人は私が座っていた椅子を横に引き伸ばし、隣に座った。


「事故に遭ったことだけは、憶えてるんだ」


 膝の上に肘を立て、組んだ手の上に顎を乗せる。


「交差点で、いいタイミングを待ってる時に、急に横が明るくなってね」


 淡々としゃべる彼の言葉には、諦めた者の潔さが含まれている。


「気づいたら、ここに居た」

「もしかして、その時の車が……」

「そう、あの赤いヤツ」


 小さく笑い、彼は私の方を向く。


「ごめんね、事故車になんて乗っけちゃって」


 そんな彼を前にして、私は何も言えなかった。彼が無理をして笑っているのが明らかだったからだ。


「容態は? 悪いの?」


 やっと動いた口から出たのは、そんな思慮の無い言葉だけだった。


「多分ね」


 彼は先程と同じ調子で言う。


「どうして、わかるの?」

「音が、だんだん聞こえなくなって来てるんだ」

「音……?」

「アラームを覚えてる?」

「うん……あっ、もしかして」


 私が声を上げると、彼は優しく笑う。


「そう、夢の中でも、現実で大きな音が立てば聞こえる。でも、少し前から、それがもう僕には聞こえなくなってる」


 私が何も言えないでいると、彼が続けた。


「ここに来た直後は、良く聞こえてたんだけどね。最後にハッキリと聞いたのは、母さんの鳴き声と、父さんが誰かに怒鳴ってる声。それからは、段々と聞こえなくなって行った」


 彼が話すのをやめた。暫く二人とも何も言わない時間が流れ、沈黙に耐え切れなくなった私が口を開く。


「怖く……無いの?」

「怖いさ」


 眠り人が言った。少し声が震えているような気がした。


「でも、どうしようもない」

「違うッ!」


 私は叫ぶ。それから、その言葉が私のわがままだという事に気づく。


「そんなこと無い! どうしようもなく無い!」


 何の根拠も無く、私はただ声を張り上げる。


「そうだったら、いいね」


 眠り人が弱弱しく呟いた。彼の前には、どうしようも無く非常な現実が広がっていて、彼もそれを解っていて、彼はそれを必死で受け入れようとしている。


 そんなことは分かってる。


 それでも。


「諦めないで! 生きて! 生きようとして!」


 いつの間にか、私は椅子から立ちあがり、彼に怒鳴りつけていた。


「どうして、そこまで?」


 彼が私に問う。


 分からない。どうしてかは良く分からない。


 だけど。


「私は、貴方に生きていてほしい」


 それだけは、確かに言える事。


 彼は、ふっと笑い、ゆっくりと立ち上がった。


「そっか、ありがとう」

「こんな、単純な事しか言えないけど……」

「いいさ、それで十分だよ」


 そう言った彼の横顔は、少し晴れやかに見えた。


「もし……もし、僕が起き上がる事が出来たら」


 彼が私の方を向き、言った。


「会いに来て、くれるかな?」

「うん、いいよ。挨拶しに行ってあげる。起きて一人じゃ寂しいもん」

「ありがとう。それじゃ、君の名前は……」

「夢子さん」


 私は言った。


「私は夢子さん。ホントの名前は、会ってから教えてあげる」

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