第3話

 授業が終わる。私は部室に行ってユニフォームに着替え、グラウンドでクラウチングスタートの姿勢をとった。


 スターターピストルの音が鳴り、私は走り出す。風が気持ちいい。


 百メートルを一気に走り切る。私の少し後ろで、琴音が息を切らしていた。


「千鶴、ホント速いよね」


 膝に手を付き、肩で呼吸しながら、琴音が言った。


「うん。走るの好きだから」


 私は言う。そのすぐ後に、大量の砂が私の靴元に降り注いだ。


「ごめ~ん、掛かった?」


 香菜だ。彼女は走り幅跳びの選手だ。


「ううん、大丈夫」


 私は言った。放課後はいつも通り過ぎて行く。




「やぁ」


 眠り人は、初めて会った時と同じ調子で言った。私は少し揺れるイスに座っている。前に伸びた彼の右手がハンドルを掴んでいる。


 どうやら車の助手席に座っているようだ、と私は思う。


「これ、昨日の?」


 私は言う。彼は今日も目を閉じたままだ。


「そう。あの、赤いヤツ」


 車の床から伸びたレバーを下に動かして、彼が言った。


「ここ、高速道路だよね?」


 私が言う。窓ガラスの外にはビル群が広がっている。そのビルは、まるで近未来を描いたSF映画で出てくるビルみたいに、宙に浮いている。空は夜に染まっていた。暗い闇の中、ビルの窓から漏れる光が、まばらな点々模様を描いている。


 中央分離帯に立つ道路照明灯が道路を照らしている。片側二車線。現実にでもありそうな道路だ。


「何処に向かってるの?」


 私が言った。彼は口元を綻ばせる。


「分からない。どこにも向かっていないのかも」

「なにそれ」


 私も笑いながら言う。眠り人がレバーを上へ動かした。


「何処にでも行けるし、何処にも行けない」

「変なの」

「夢の中だから、全てが曖昧なんだ」

 

 私はドアを開けて手を伸ばす。風は感じなかった。


「風が無い」

「作ってないからね。やってみる?」


 閉じた目をこちらに向けて彼は言った。私はうん、と答える。


「風の感覚を思い出して」


 私は、放課後に部活で走った時の風の感覚を思い出す。すると、手に弱い感覚が走った。


「出来た! でも、なんか弱い気がする」


 眠り人が、ふふっと小さく笑う。


「夢っていうのは記憶の集合体って聞いたことがあるんだ」

「それかも。私、走ってた時の記憶思い出してたから」


 私がそう言うと、何処か哀しさを含ませて、彼が笑う。


「いいね、走れるんだ」

「うん、走るの好きだから。眠り人さんもやってみなよ」


 彼が小さく笑う。やはり何処か哀し気だ。


「そうだね。僕も、いつかやってみるよ」


 朝、今私たちが乗っているのと同じ車を見たことを、私は思いだした。


「そう言えば、この車朝見かけたよ。校舎の前走ってた」


 私が言う。そして続ける。


「学校の前通ったのかもね」


 彼は口を小さく開き、顔をこちらに向けた。目の形は変わらないが、眉の形から驚いているのだろう、と私は予想する。


「そう」


 彼が言った。


「そうだったら、いいね」

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