EDEN
朝食ダンゴ
EDEN
コロニー・トライピースの外縁部に、純白の巨人が佇んでいる。
十メートルを超えるその金属の塊は、朝日をその身に浴びて半身を赤く染めていた。
巨人を囲むキャットウォークの上に、膝を抱えて座り込む一人の女性の姿がある。巨人の胸の高さから頭部を見上げる彼女の全身は、空気中の汚染物質から身を守るための防護スーツで包まれていた。
「今日で百日目、か」
彼女の蒼い瞳は、恐怖と不安と、そして希望を湛えていた。
楽園への道を開く巨人と、年若き女性。
巨大人型兵器アセイルタイタンと、そのパイロット。
彼女らを照らす朝日は分厚い雲に覆われ、その光は二度と届くことはなかった。
空はどこまでも灰色だった。汚染物質を含む大気は地上の生物を生かすという元の性質を失い、いまや吸い込む者を死へといざなう毒物へと変わっている。
トライピースの外縁部に位置する広大なハンガーでは、防護スーツに身を包んだ多くの作業員がアセイルタイタン発進の準備を進めていた。
シエル・ロングソミーヴは、その様子を詰所から眺める。歳の頃は十九。蒼い髪と同色の瞳が特徴的な長身の女性だ。
百平米ほどの部屋には彼女一人しかいない。壁の一部がガラス張りになっており、ハンガーを一望できるようになっている。
ガラス窓に手を当て思いつめた顔で外を見つめる彼女の背後で、自動扉の開く音がした。
「シエル」
背にかかる男の声に、彼女は振り返らない。
「シノザキか」
視線をアセイルタイタンに固定したまま、シエルは答える。
「随分早い帰りだな」
鋭く、それでいて澄んだ声。
シノザキと呼ばれた三十歳前後の男は、自分に目もくれないシエルに苦笑しつつ、
「休憩だよ。なんだ、見てたんじゃねえのか?」
見ていた。否、視界に入れていただけだ。細かな光景など憶えていない。
「それに、今話しとかねぇともう機会が無くなっちまうしな」
そこでやっとシエルが振り返った。
「何を言われようと、私の心は変わらん」
切れ長の瞳をシノザキに向け、うんざりしたようにショートカットの髪をかきあげる。
「ったく。少しは柔らかい頭を持てっての。そりゃ俺だってエデンに移住するのは大賛成さ。汚染物質から完全に隔離された世界。教えられた通りの場所ならな」
タオルで汗を拭きとりながら、シノザキはベンチに腰を落とす。
「だがなシエル。楽園は存在しねぇから楽園なのさ。そんなものは最初からどこにもありゃしねぇ」
「マスター・エグザウィルは、エデンへ辿り着けば私達は再び繁栄できると、汚染の苦しみから解放されると仰っている」
きっぱりと言い放つシエルに、シノザキは溜息を吐いた。
「どうしても、あの耄碌じじいの言うことを信じるのか」
「……口を慎め。彼を侮辱することは許さん」
彼女の切れ長の目が、さらに鋭利になる。
幾度となく繰り返したやり取り。痛みを伴うようなその視線を受けて、シノザキは憐れむような表情に変わった。
「お前はやっぱり子供だよ。盲信も結構だが、もっと現実に目を向けるこった」
シノザキはそう残して、扉の向こうへ去っていった。
遠のいていく硬い足音。彼には何度も同じ話をされた。彼がそう主張する理由も幾度となく聞かされた。そのどれもが理に適い、マスター・エグザウィルの矛盾を正しく指摘する正当なものであった。
だが、シエルは考えを変えなかった。幼少の頃より信じてきたマスターの教えを捨てることはできなかった。
頭ではシノザキの言葉が正しいと理解していても、彼女の根底にはマスターの教えが根付いている。
衰退し消えゆく運命にあるコロニー・トライピース。そこに住む人々は救われるかもしれない。彼の教えは、それ自体が生存への希望であるのだ。
「どのみち、私には他に信じられるものがない」
シエルは口惜しげに拳を握りしめ、唸るようにうそぶいた。
マスター・エグザウィル曰く。
巨大なドームに保護された都市。内部に溢れるのは清浄な空気と澄んだ水。
過去に〝クレイドル〟と呼ばれたコロニー。今では世界中の資源を独占し、排他的な姿勢を崩さない要塞。
内部の人間にとっては名が表す通りの楽園。それは楽園と地獄を明確に弁別する象徴。
故に神であり、あるいは悪魔であり、選ばれし者を選別する支配の都である。
声を大にして言おう。
それがEDENであると。
辺りに熱風が吹いている。
カタパルト上のアセイルタイタンが吹かす背部ブースタがその原因だ。巨人の両手には二挺のライフルが握られ、背部には砲身を折りたたんだ二門のレールキャノンが装着されている。
周囲の作業員が最後の仕上げに取り掛かり、せわしく動き回っている。シエルはその光景を機体のコクピットから見つめていた。
午前十時三十分。
シエルとアセイルタイタンの、エデン攻略任務の開始時刻。
『聞こえるか?』
機体の肩口から伸びるユニットが左右に広がるように展開していく。細かく区分けされたハッチが開放され、そこから十数ものエンジンノズルが露出する。同じ部位に大型のウイングバインダーがクレーンで装着された。
「シノザキ」
カタパルトのレール上をシャトルが走り、機体の足部に接続。同時に、背後の壁が斜めに傾き、ブースタの爆風を逸らすジェットブラストディフレクターとなる。
『シエル。死ぬんじゃねぇぞ』
それだけを残して、通信は途切れる。
シエルはコントロールレバーを握り、三百六十度全周囲モニターに映る遥か前方を見据えた。
下方の作業員が、射出準備のサインを出すのを視界の端で確認。周囲の作業員全員が腰を落とし、対ブラスト姿勢をとる。
アセイルタイタンが腰を沈みこませた。
高所にいる作業員が挙げていた腕を振り下ろす。
シエルの体を強烈なGが襲った。凄まじい力でシートに押し付けられ、歯を食いしばる。
白い巨人はカタパルト上で滑走。数秒で時速六百キロまで到達し、そのまま離陸する。展開していたブースタユニットのエンジンノズルが一斉に青い炎を吐き、機体をさらなる速度域へと押し上げた。圧倒的な推力を受け、左右に伸びるウイングバインダーが揚力を生む。
高度数百メートルで安定したアセイルタイタンは、爆煙の軌跡を残し、風を切り裂いて灰色の空を翔けた。
「死なんさ。トライピースを救うまでは」
まだ見ぬ楽園への道。
それは、荒れ果てた大地と汚された空との狭間にあった。
※
恋人の姿を見つけたエリカは、自然に浮かんでくる笑みのまま彼の許へと駆け寄った。
「お待たせ」
公園の広場のベンチに所在なさげに座っていた彼は、顔を上げてエリカの微笑みに応える。
「ごめん、ちょっと遅れちゃった」
両手を合わせて舌を出すエリカ。
彼、アルフは立ち上がりながら柔らかい表情で首を振った。
「大丈夫、待ってる間も楽しかったから」
エリカは安堵の息を吐く。といっても、彼が僅かな遅刻で機嫌を損ねるような人間でないことはよく解っている。
「じゃあ行こうか」
アルフはエリカの手を取り、広場の中を歩きだす。
空が青い。久々の快晴で、降り注ぐ日光が心地よい。もう新緑の季節だ。公園内は木々で満ちており、芝生は青々と茂っている。休日ということもあってか、楽しそうに弁当を広げる家族連れや、エリカ達と同じような仲睦まじい男女の姿がちらほらと見られる。
東洋人の特徴である黒髪と白いワンピースの裾を揺らして、エリカはやはり自ずと浮かんでくる笑顔のままアルフの横顔を見つめた。
アルフは魅力的な少年だ。手足は長く長身で、どこぞの雑誌のモデルでもしてそうな容姿。どうして自分なんかに交際を申し込んできたのか。恋人同士になって一週間が経つが、未だその理由を聞けないでいる。
「なに?」
エリカの視線に気付いたアルフ。
「ううん。なんでもないよ。へへ」
そう言いながら、エリカは内心はっとした。思わず誤魔化してしまったが、今が質問のチャンスだったのではないか。
「そっか。ならいいけど」
せっかくのチャンスを無下にしてしまい、エリカはぐったりと肩を落とした。無論アルフの前でそんな仕草は出来ないので、やったのは心の中である。
他愛もない雑談を交わしながら、二人は街へと出た。ここは最も栄えた地区であり、休日ということも相まって多くの人でごった返している。二人はウィンドウショッピングをして回ったり、食べ歩きで甘いものを食べたり、アルフの好きなロボットアニメのプラモデルを物色したり、道端にアクセサリなどを広げる胡乱な露天商をひやかしたり、いかにも学生のデートらしいことをして過ごした。
歩き疲れたと言うエリカの提案で喫茶店に入った頃には、すでに日が傾きかけていた。
特に何を買ったわけでもなく、ただひたすら街をうろついていただけだが、エリカにとっては至福の時であった。それはアルフも同じなようで、それがエリカの喜びをより大きなものに変える。
休憩がてら、何とはなしにテーブルに設置された小型テレビに映るニュース番組を見ていると、対面に座るアルフがぽつりと呟いた。
「また、消えたのか」
興味深げな、それでいて悲しげな声だった。
ニュースでは最近話題になっている不可思議な事件を取り上げていた。人がまるで消滅したかのように忽然と姿を消す、しかもあらゆる地区で何人もの人間がその被害にあっているという内容である。
「こわいね」
弱々しい声で言うエリカの手を、アルフの大きな手が握り締める。
「大丈夫。エリカは僕が守るから」
安心させるように微笑んでくれるアルフを見て、エリカは頬を染めて頷いた。
「頼りにしてるね、アルフ」
彼の手は暖かかった。こうして手を握られているだけで、言いようのない安心感が心に満ちていく。
今がずっと続けばいい。
西園寺エリカは、恋人の手を握り返しながらそう思った。
※
恐ろしいまでの勢いで流れていく眼下の景色。
純白の巨人は長い黒煙の尾を引いて猛進する。それは音に追いつかんばかりの速度だった。
それに比べ、最高速に乗った機体の中はいやに穏やかだった。炎を吐き続けるブースタの爆音が耳に染み付き、それは既に無いものとして知覚されている。シエルにとって、コクピットの中は静寂だった。彼女がそう感じるのは、過ぎ去っていく光景にも原因の一端がある。
コロニーからここまで離れたのは生涯初めてのことだ。死が待っているだけの荒野にわざわざ出ていく輩はいない。人は自らを狭いシェルターの中に押し込み、そこで生を全うする。
故に、シエルの存在は異端だった。人型の巨大兵器を駆り、荒野を疾駆する彼女は、百年以上続いたコロニーに新たな歴史を作りだす先駆の光だ。
巡行を続けておよそ一時間。シエルは遥か前方に広大な廃墟群を確認した。エデンを同心円状に囲む自律防衛基地の跡だ。数日前、トライピースが行ったミサイル攻撃によって破壊された。砲台や障壁の残骸が地に埋まっている。
機体背部のブースタユニットを停止させ、腰部を中心に機体各所に取り付けられた通常推力に切り替える。高度を落としながら減速し、機体は基地跡の上空に達してホバリングに移行。そしてゆっくりと地に降り立った。展開していたブースタユニットとウイングバインダーが折りたたまれる。
レーダーに敵影は確認できない。シエルは眼前に投影された立体モニターで機体の状態をチェックする。戦闘を行ったわけではないので機体に損傷はない。内部機構もオールグリーン。長時間使用したブースタユニットには多少の損耗が見られるが、蓄積した熱を排せば問題ないだろう。
シエルはコントロールレバーを傾け、ブーストペダルを踏み込んだ。
機体は地を滑走し、破壊された障壁跡の影に隠れる。
いくら最新鋭の兵器でも、エデンへの道程を休息なしに走破することは出来ない。マスター・エグザウィルの立案した作戦では、エデンへの到達までに数回の休息を取る予定である。その作戦を遂行する上で進路上にある防衛基地は大きな障害であり、ここ一カ月で数回のミサイル攻撃が行われた。しかし言わずもがな、資源の不足したコロニーの攻撃では最低限の基地を壊滅させるのみに止まり、エデンへの道を完全に開くには至らなかった。閉ざされた道はシエルが開くしかなく、単機で遂行するには余りにも過酷な任務であることは言を俟たない。そのため休息は不可欠な任務の一つとも言える。
休んでいる間にエデン側から何か動きがあるのではないかと危惧した者もいたが、エグザウィルはそれについては何の心配もいらないと断言した。シエルを含む関係者は彼の言葉に何の疑問も抱かなかった。ただ一人、シノザキだけは納得のいかない表情をしていたが。
シエルは機体の姿勢を低くして、稼働状態をスリープモードに移行させた。彼女自身も長く続けていた集中を解く。
疲労か、解放感からか、ふと溜息が漏れた。輝度の低下したモニターに視線を漂わせ、シエルは全身の力を抜いた。
シエルは幼くして両親を失った。
母は彼女を産んだ直後に他界し、顔すら憶えていない。父はコロニーの外壁破損事故による汚染で死亡した。
十歳で、彼女は天涯孤独の身になった。
それでも彼女は悲しまなかった。汚染された世界において、人が短命なのは当然であったし、それがおかしいことだとも思わなかった。両親を亡くした後はマスター・エグザウィルが我が子のように蝶よ花よと育てたことで、孤独の涙を流すこともなかった。
マスター・エグザウィルをはじめとするコロニーの仲間達も彼女を可愛がり世話を焼いた。その理由の一つに、彼女がコロニーで最も若いという事実があった。
彼女にとってそれは喜ばしいことであったが、同時に言いようのない恐怖をもたらす絶滅への兆候でもあった。
自分より若いものがいない。それは即ち、トライピースの終焉を意味する。体内に蓄積した汚染物質によって身体に悪影響があるのは当たり前のことだったが、それが生殖不全を起こすに至ったのはシエルの生まれた後だ。
そして、最も若く汚染の軽いであろうシエルに子孫を残させようとする動きが民衆の中で起こったのはすべからく必然であった。
『子を産みなさい』
十六の誕生日に、マスター・エグザウィルからそう言い渡された。
拒否権はなかったが、たとえあったところで首を横に振るつもりはなかった。
マスター・エグザウィルの言葉は絶対。それはコロニーに住む民の共通認識であり、常に彼と共にいたシエルはその気持ちが人一倍に強かった。
シエルの性交の相手として、トライピースで最も若く健康な男子が選ばれた。初めてその男と会った時、彼は眉と唇を歪めて呟いた。
『癪だ』
彼がどのような意図でそう言ったのかは定かではないが、少なくとも不快に感じていることは間違いなかった。
『私では不満ですか?』
気の強い、悪く言えば我が儘なシエルは、男を見上げて強く睨みつけた。
『そういう意味じゃねぇよ』
シエルは更に問い詰めたが、結局彼は理由を口にしなかった。
それから数カ月後、シエルの懐妊が明らかとなった時、コロニーの人々は歓喜に震えた。シエルの腹は順調に膨らんでいき、それにつれて民の期待も大きくなっていった。
生まれてくる子の父となる男も、子供を作ることに否定的だった割にはシエルのことを気にかけていた。望んで作ったのではないとはいえ自分の子だ。
十月十日が過ぎた頃、シエルの体を陣痛が襲った。
難産だった。分娩は丸二日に及び、母子ともに危険な状態であったが、それでも無事出産は終わった。
が、そこまでだった。
助産婦が嬰児を取り上げた瞬間、医師達の間で悲鳴があがった。
疲弊したシエルにはその理由が解らなかったが、医師達の慌てふためいた声だけははっきりと聞きとることが出来た。
『だめだ! 見せるな!』
『でも……!』
『ショック死させる気か! 早くどこかに持って行け!』
その声を聞いた時、朦朧としていた意識が覚醒した。顔を上げると、布で包まれた何かを抱えた助産婦が分娩室の外へ駆けていくのが見える。
『あ……ま、待て!』
体を起こそうとするも、分娩台に手足を縛りつけられて動けない。
『待って、待ってくれ! 私の子供なんだ! 私の! 待てって言ってるだろッ!』
狂ったように叫び暴れるシエルを、医師達は慌てて押さえつける。
『私の子供なんだ、私の! 連れていかないでくれ! 私の――』
彼女の絶叫ともとれる悲痛な叫びは、コロニー中に響き渡った。
彼女の産んだ子は、奇形だった。それも見る者によっては嘔吐を催してしまうほどに。
産声もあげず、異形の幼子は間もなくこの世から去った。
コクピットの中で、シエルは拳を握りしめる。
自分の体が汚染されていたのか、あるいは父の体がそうであったのか。どちらにしろ、子を失った母の苦しみは、親を亡くしたそれの比ではなかった。
エデンへの道が開かれれば、あのような思いをすることはなくなる。自分も。誰も。
悲しみを知り、痛みを知った今だからこそ進むことが出来る。それが自分の出来る最大で、唯一の恩返しだ。
※
終業のチャイムが響く。
HRを終えたクラスに放課後の喧騒が訪れ、エリカは帰り支度を済ませて立ち上がった。
(よしっ、今日こそは)
友人に別れの挨拶を済まし、彼女は軽い足取りで教室を後にした。
セーラーカラーとプリーツスカートの裾を揺らして、リノリウムの廊下を蹴る。階段を駆け下り昇降口に辿り着くと、そこで所在なさげに佇んでいるアルフに駆け寄った。
「お待たせ」
エリカの到着に気付いたアルフは、学生服の詰襟を整えながら顔を綻ばせた。
二人は手を握り合って黄昏の帰路を歩く。交わす言葉は他愛もない世間話にもならないようなことばかりだったが、それでも二人にとっては何よりも大切な時間だった。
エリカの家の前で帰路を終えた時、アルフはいつもすぐに彼の家へと帰る。交際を始めて二週間が経つが、エリカは自分の部屋に彼を招くことに対して名状しがたい気恥かしさを抱いていた。アルフも同じようで、毎日家の前までは来るものの、その門をくぐろうとはしない。ただ、別れる時に、お互いにどこか煮え切らない態度をとっていることが、今よりもっと近づきたいという二人の想いを表していた。
今日、エリカはとある決意をしていた。部屋に招くということは出来なくても、次の一歩を踏み出す覚悟はあった。
伝えないと。そう思えば思うほど、鼓動は速くなり、何も考えられなくなる。
そんなエリカをよそに、アルフは繋いでいた手を解く。
「じゃあ。また、明日」
人懐こい笑みでそう言い、無言で数秒向かい合った後、彼はエリカに背を向ける。
「あ……」
と思った時には手が伸びていた。エリカの指が、アルフの学生服の裾を掴む。
彼にかかったのは柔らかな抵抗だっただろう。アルフは出しかけた足を止めて振り返る。
引きとめたはいいものの、何も言葉にできないエリカ。
(言うぞ! 言うんだ!)
そう思うだけで、口が言うことを聞かない。
「どうしたの?」
アルフの訝しげな笑顔を見て、エリカは顔を伏せる。きっと頬は林檎のように染まっていることだろう。
「その、ね」
俯いたまま、窺うようにアルフを見上げた。
胸が痛いほどの鼓動。薄く開いた唇からは荒い息が漏れる。裾を掴んだ指に力がこもる。
「キス、して……」
今にも消え入りそうな声で、エリカはそう口にした。
顔から火が出そうだ。言葉にしたことでさらに鼓動は激しくなる。羞恥の念で、後のことは何も考えられなくなっていた。
だから、アルフが屈みこみ、唇に柔らかいものが触れたことは、自分が求めた結果であるにも拘らず全くの不意打ちであった。
見開いてしまった瞳を閉じる。彼の背に手を回すと、それに答えるように腰に手が回される。
心を満たす感情が溢れ出るかのように、エリカの頬を涙が伝う。神様に、そしてこの世界の全てに感謝したい。きっと、この世の全ては楽園なのだから。
真っ赤な夕空の下、二つの影が重なっていた。
今日よりも、ずっと素晴らしい明日を想いながら。
そして彼は、彼女の前から姿を消した。
※
トライピースを発って十時間余り。
シエルは遠方に巨大な白いドーム状の建設物を視認した。コクピットから見える光景は、何とも信じがたいものだった。
エデンに保護されているのは、そのドームの内部だけだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。澄んだ湖がドームを囲むように広がっている。それだけでなく、周辺の大地に緑さえ見える。
汚染された空間と、エデン周囲の清浄な空間。その境界そのものは目に見えないものの、まるで線を引いたように緑と灰色の大地が区切られている。
どのような技術で汚染物質を遮断しているのかは定かではないが、あの中に汚染の苦しみがないということだけは確信できる。
みるみるうちに近づいてくる緑の境界、そして巨大なドーム。
「楽園……か」
その呟きに重なるように、コクピット内にコール音が鳴り響いた。モニターに通信要請の文字が浮かぶ。コンソールを操作し、回線を開く。
『こちらコロニー・クレイドル。管制官です』
若い女性の声だった。
『あなたは、我々の主権領域を侵犯しています。速やかに退去してください』
ノイズ混じりの意思の強そうな声が、シエルの耳に届く。
「こちらコロニー・トライピース所属。シエル・ロングソミーヴだ。そちらの管理者と交渉をしに来た」
『内容の是非を問わず、交渉には応じられません。速やかに退去してください』
淡々と語る管制官の口調に、シエルは苛立ちを覚え始める。
「なるほど。やはりマスターの仰る通りか」
解っていたことだ。外部から接触に取り合わないことは、マスター・エグザウィルの口から何度も聞かされている。だからこそアセイルタイタンをここまで飛ばしてきたのだ。
力を背景にした交渉も、仲間を救うためならやむを得ないというもの。
『これが最後の警告です。速やかに退去してください。さもなくば、実力で排除します』
その言葉にも、シエルは眉一つ動かさない。もとよりそのつもりで来たのだ。
「警告には応じない。こちらの要請を受け入れるまでは」
アセイルタイタンが、緑の境界を越えた。
ドームの頂点にそびえる長大な砲塔がこちらに狙いをつけている。砲身の口径だけでアセイルタイタンの全高ほどの大きさがあるだろう。あんなものを喰らえば、一撃で跡形もなく消し飛んでしまう。
轟音とともに、砲弾が撃ち出された。
シエルは目を見開き、迫る漆黒を捉える。ブーストペダルを踏み込み、右へと平行移動。ブースタによって圧倒的な瞬発力を得た機体は、十分なマージンを残して砲弾を回避した。通過した砲弾の余波が、轟音と振動という形でコクピットに伝わってくる。が、それに構っている暇はない。次弾が撃ち出される。
砲弾はほんの四半秒で眼前まで到達する。砲弾そのものの速度もさることながら、アセイルタイタンが亜音速で接近しているのだ。。
回避機動を続け、エデンへの距離が近づいていくにつれ、回避の際に生じるマージンは小さくなっていく。ある程度近付くと、弾を見て避けることなどできない。撃ち出される直前に、射線上から逃げるしかない。機体の傍を過ぎる砲弾の衝撃だけで、シエルの肉体と精神は徐々に疲労を蓄積させていく。十数秒の高速戦闘。神経をすり減らしながら、湖の上を駆け抜け、巨大なドームが目の前まで迫った。
シエルは最後の砲弾を紙一重で避けると、ドームの上を通過し、ブースタユニットの機能を停止させた。慣性によって前へ進む機体を反転させ、ブースタユニットとウイングバインダーを折りたたみながら、背部のレールキャノン二門を展開させる。推力と揚力を失った機体は急減速し高度を下げ、後ろ向きに着地。足の裏で地を削りながら後方へ滑りつつ、レールキャノンの砲身をドーム頂上の砲台へ向けた。
機体が停止する。同時に、肩の上を伸びる砲身が、青白く閃いた。音速を優に超える二条の閃光が、空へと伸びた。その光はエデンの砲台を貫き、見事に爆散させる。
黒煙を上げる残骸を尻目に、ドームの外装が開き、無数のミサイルサイロが露出する。
舌を鳴らすシエル。あれだけのミサイルを撃たれれば、避けることは不可能だ。撃たせるわけにいかない。
「させん!」
アセイルタイタンが、両手二挺のライフルを構え、前方の空に飛びだす。ミサイルサイロに照準を当て、とにかく撃ちまくった。一発でも当たれば、ミサイルの誘爆を利用してサイロを無力化できる。
弾丸は数基のミサイルを破壊する。が、たった数基だった。ドームの表面を覆うかのように、ハニカムのようにも見える無数のサイロから、数え切れないほどのミサイルが射出される。
視界がミサイルに支配された。聴覚がミサイルアラートに蹂躙される。
「くそ――」
ブースタを吹かして後退。ライフルを乱射し、ミサイルを撃ち落とすことを試みるも、全てを破壊できるわけもない。
シエルはコンソールを操作し、背部ブースタユニットをパージした。ユニットは長時間の使用で高熱を帯びている。アセイルタイタンを狙っていたミサイル達は、機体から切り離され自由落下していくユニットに頭を向けた。ブースタユニットをデコイにミサイルの雨を逃れたシエルは、ライフルの連射によってサイロの破壊を再開する。ドーム上空からの攻撃で、サイロへの再装填が終わる前に無力化を目指す。
「でかい的だ」
次々に撃ちこまれる弾丸。フルオートで連射していても、無駄弾はほとんどない。ドームのどこを狙っても、そこにはサイロが覗いているからだ。いや、無駄弾を撃ったところで時間のロス以外の被害はない。どんな構造なのか、アセイルタイタンのライフルには多すぎるほどの弾丸が積み込まれている。無力化は時間の問題だ。
とは言え、敵が待ってくれる訳もない。生きたサイロからミサイルの第二波が射出される。その数は先程の半分ほどに減っているが、容易く対処できるものではない。逆に言えば、対処できる数にまでは減ったということだ。シエルは最大出力で上昇しつつ、真下から詰め寄せるミサイルに弾丸の雨を降らせた。ミサイルはその数を減らしながらも瞬く間に距離を詰めてくる。先頭のミサイルを最大限引き寄せてから、瞬間的な加速で左へと逃げた。
ミサイルの速度はアセイルタイタンのそれを遥かに上回るが、急激な方向転換にはついてこられない。曲線軌道を描いて旋回するミサイルを撃ち落とし、機体は地へと落下していく。迎撃を止めないまま、地面スレスレで逆噴射。ドームに向かって直進すると、旋回しきれなかったミサイルが草原の大地に墜落し、幾数もの派手な爆発と土煙をあげた。
ミサイルとの攻防が片手で数えられる限界の数まで達した時、既にサイロの数は一桁にまで減っていた。たかが数基のミサイルに追いかけられたところで、アセイルタイタンの瞬発機動の前では脅威にはならない。
最後のサイロに銃弾が叩きこまれた。装填されていたミサイルが爆発し、サイロの内壁が破砕。
ドームの表面には幾つもの爆発の傷跡が刻まれることとなった。
機体を滞空させ、シエルはレールキャノンを展開。ドームに狙いをつける。
「管制官、聞こえるか」
通信回線。
『こちら管制官。聞こえています』
「結果は出た。交渉に応じろ」
『できません』
ロックオンアラート。
「なに――」
シエルは反射的にペダルを踏み込み、回避機動を取る。斜め上から飛来した光芒が、機体の左腕を攫っていった。
「くっ――」
衝撃で崩れた体勢を立て直し、攻撃の来た方向を見上げる。サイロ殲滅による油断と、姿勢がドームを見下ろす形になっていたことが相まって、上方への注意が散漫になっていた。
残った右腕のライフルを敵に向ける。
「あれは……」
灰色の空を背に、ゆっくりと降下してくる敵影。流線形の生物的な輪郭を浮かばせる、巨大な人型の機体だった。アセイルタイタンと同じほどの全高。胴体と四肢は細く、装甲の重厚感は感じられない。長大な重火器を両手に抱え、それはブースタを吹かすこともなくゆっくりと高度を下げている。顔面には、赤い一つ目。
遅い。あれでは的だ。アセイルタイタンのレールキャノンが光を纏う。
「墜ちろ」
一条の閃光が天へ伸びた。反動で機体が下がる。
急激な加速。敵は紙一重でそれを避ける。シエルが回避を確認した瞬間には、敵の持つ重火器の砲口がこちらに向けられていた。
ロックオンアラート。先程と同じ砲撃が来ると直感したシエルは、帯電させていたもう一門のレールキャノンを、敵の砲撃と共に発射した。
攻撃と同時に、反動から得た加速とブーストで敵の射線から逃れる。傍を通過する光芒の余波を感じつつ、シエルは命中の手ごたえを認めた。
が、敵は健在。シエルと同じ手段で回避を成功させていた。砲を構えたまま彼我の距離を詰めてくる。
近距離で射線上に位置取るのは危険だ。シエルはライフルを撃ちつつ敵の右側に回り込む。相手がこちらに狙いをつける暇を与えてはならない。あんな大きな重火器を持っているのだ。旋回性能はこちらに及ばないはず。死角を取り続け、何もさせないことが肝要だ。
両者が高速で飛び回る。間断なく放たれるアセイルタイタンのライフル弾が敵の装甲を削っていくが、敵の動きは変わらない。決定的なダメージを与えるには威力不足か。
レールキャノンが帯電する。三次元機動の中、確実に命中させるため一気に敵への距離を詰める。
それと同時に敵も同じく軌道を変え、こちらに接近してきた。
予期せぬ敵の動きにタイミングを見失う。だが、既に彼我の距離は数メートル。
閃光が放たれた。敵の長大な砲を貫き、大爆発を轟かせる。シエルの眼前が爆煙に覆われ、爆発の衝撃で機体が軋む。爆風で吹きとぶ機体を制御して着地。
「やったか?」
頭上を見上げる。
そこには、肉薄する敵の姿。
「ッ――」
右腕と胸部の一部を失った状態で、左腕から光の剣を伸ばす敵の姿。
シエルは咄嗟にライフルを構える。回避も射撃も間に合う距離ではなかったが、その行動が結果的に幸運を招いた。アセイルタイタンの振り上げた右腕のライフルが、敵の左腕を弾いてブレードの軌道を逸らしたのだ。アセイルタイタンの胴体を切り裂くべきブレードは、頭部とレールキャノンの砲身を斬り落とすのみに止まった。
その後は無意識だった。シエルの獣のような叫び。役立たずとなったレールキャノンとライフルを捨て、最大推力で前進。
強烈な体当たりで地面に組み伏せ、腰から伸びた柄を握る。
「これで――どうだッ!」
鈍色のビームブレードを抜刀し、敵の胸部に突き立てた。火花が派手に飛び散り、漏電の様子が眼前に見える。赤い一つ目が明滅し、やがて消えた。敵は、完全に活動を停止した。
荒い息遣い。アセイルタイタンは柄から手を離し、立ち上がる。
ドームの入り口を探さなければ。どこかにあるはずだ。
『こちらコロニー・クレイドル。管制官です』
相変わらずノイズが混じっている。
『ドームのハッチを解放します。どうぞ、中へ』
答える気力は無かった。シエルはペダルを踏み込むと、楽園と呼ばれる場所へと機体を差し向けた。
コロニー・トライピース。
敷地の中心には、管理局と呼ばれる建物がある。建物といっても所詮は周りより少し大きいシェルターだ。汚染物質から身を守るため、コロニーの全ての建築物は外気との接触を遮断するように造られている。
シエルがここを発って一時間が経過した。遮られた太陽は既に天頂に差しかかりつつある。住民達が最も盛んに活動する時間帯であり、コロニーの管理一切を司る管理局にも勤務の人々が集まっている。
管理局の一室、コンピュータが並ぶ席の一つに、シノザキの姿があった。十数人の職員と共に、気だるい様子を装い、キーボードを叩いている。
「シノザキさん」
「あ?」
「シノザキさんまで、気が抜けてますね」
隣に座る中年の男性職員が疲れを覗かせる笑みを向けてくる。
「アレが出た後は皆そうだろ。整備だとか修理だとか、そういう仕事が一気に無くなっちまったんだからよ。しかも、休暇も無くいきなりデスクワークだぜ? そりゃ気が滅入るのも道理ってもんよ。俺にとっちゃ、あんたがなんでそんなに張り切れるのかが不思議でならん」
「気持ちは解りますけどね。マスター・エグザウィルに申し訳ないですから」
職員の邪気の無い笑顔を見て、シノザキは視線をディスプレイに戻した。
「そいつはご立派なこって」
そして再び指を動かし始める。
シノザキの職務は、大気や土壌など外界の環境に関するデータ処理だが、並行してもう一つの作業を行っていた。トライピースの管理するメインコンピュータにアクセスし、〝エデン〟に関するデータを探し出すことだ。職員の閲覧できるデータには限りがあるが、それだけでも膨大なデータがあるのだ。仕事中に機を見計らってはデータの検索をするということを、数か月に渡って続けてきた。が、未だ核心的な情報は見つかっていない。
シノザキは、溜息を吐く。やはり職員が閲覧できるデータに重要な情報があるはずもないか。マスター・エグザウィルがエデンのことを住民に伝えたのが数ヶ月前。それまで隠していたということは、それなりの訳があるに違いない。
(クラッキングでもするしかねぇんだろうが)
秘匿されたデータならば通常の検索手段は無意味だ。メインコンピュータから直接アクセスすれば暗号解読も可能だろうが、シノザキにはメインコンピュータのある管理局中枢部に立ち入る権限がない。
「やってられねぇな……」
呟くと、シノザキは席を立った。
「わりぃけど、早めに昼飯頂くぜ」
同僚にそう伝えて、彼は部屋を出た。
疲労が溜まっているのも事実である。アセイルタイタンがトライピースに運び込まれて三カ月余り。エデン攻略作戦に携わった者に休日はなかった。アセイルタイタンがここを発ち、すぐに元の仕事が再開するというのも全く酷な話だ。
昼食に行くとは言ったもののそれほど食欲があるというわけではない。なんとはなく、彼はエデン攻略組の詰所に足を運んだ。
ガラスの壁から、アセイルタイタンの立っていたハンガーを見据える。今は機体も整備兵もいない。キャットウォークやケーブル、カタパルトが後処理もされずに放置されている。シエルが出撃した時のままだ。
シエルはこの詰所で何を思ったのか。アセイルタイタンのコクピットで何を思っているのか。
ひねくれた自分では、まっすぐな彼女の心は理解できない。唯一共有できたのが、子を失った悲しみだけか。
いや、男と女では、父と母ではその悲しみの大きさも違うのだろう。流産ならばなおさらのこと。
自らが異端者であるのは承知の上だが、彼女を理解できず、彼女に理解してもらえないのはいささか寂しいものだ。
自嘲気味な溜息を漏らす。
「驚いたな。まだここに人がいるとは」
背後からの声。シノザキは眉を寄せる。聞き慣れた声だった。
「その屈強な後ろ姿。レンだな」
名を呼ばれ、首を回して声の主を見る。
扉の前に、一人の男性が佇んでいた。白く髭が顎を覆い、長く垂れさがっている。黒いローブを纏った長身の老人。
マスター・エグザウィル。
「あんたが一人とはな。警護の連中はどうした」
「感傷に耽るには、少々無粋な者達だ」
エグザウィルはシノザキの隣まで来ると、ハンガーに視線を向ける。皺に囲まれた瞳には、どこか悲愴の色があった。
「エデンなんてものが、本当にあるのか?」
シノザキの口を衝いて出たのは、そんな言葉だった。
「本当にあるかと聞かれれば、そんなものは無いと答えるしかない」
「なんだと!」
驚愕が叫びとなる。あれだけトライピースの民を扇動し、希望を与えておきながら、簡単にそれが偽りであると認めるとは。
「ふざけんな、どういうことだ!」
激しい剣幕でエグザウィルに詰め寄るシノザキ。
だが、老人の目に変化は無い。
「実在はせんよ。だが、我々はそこに移り住むことができる。昔の私がそうであったように」
「意味が解らねぇ」
「考えすぎるな。君らにとっては実在しているのと同義だ」
エグザウィルに胸を押され、シノザキは数歩後ずさった。大柄な自分の体が老人の枯れ木のような腕の力で押し出されたことに、彼は困惑した。
エグザウィルは部屋の中央に進んでいる。
「人がいない場所を探していたのだがね」
広い袖口から小型の装置を取りだし、机の上におく。拳大の、台座のついた球体のような形状をしたものだ。
「君なら同席することを許してもいいかもしれん。ウィルスでも紛れているのか、君だけは私を盲信していないようだからな」
エグザウィルが何を言いたいのか、シノザキには解せない。やはり耄碌しているのか。
エグザウィルが装置に手をかざす。装置からは仄かな光が漏れ、ゆっくりと立ち昇る。天井に達する光の柱が出来た頃、光の中から声がやってきた。
ノイズの混じった若い女性の声だ。
『こちらコロニー・クレイドル。管制官です』
「こちらコロニー・トライピース。マスター・エグザウィルだ」
『首尾はいかがですか?』
「一時間前にここを出た。あと三時間もすればそちらでも捕捉出来るだろう」
『攻略。できると思いますか?』
「解らんな。だが、できなければ我々はまた衰退への道を辿らなくてはならなくなる」
『残滓に過ぎない我々が、人類のために幸福と苦悩を創る――』
「人類など、どこにもいないというのに――か?」
『…………』
「それを皮肉と思うのなら、我々は消え去るべきだよ」
『あなたの先代も同じことを仰っていました』
「そういうものだ。自らの存在意義を否定するということは」
『成就したら、あなたはどうなさるのです?』
「無論帰るさ。元々そのための世界だ」
『あなたを待っている人もいます』
「それはどうだろうな。如何せん私は歳を取り過ぎた」
『ならそれは、帰ってきてからのお楽しみということで』
「なんだ、それは。まだ私の知らぬ真実があるのか?」
『安心してください。それは、あなたにとって嬉しい誤算となるでしょう』
「相変わらず掴めんな」
『褒め言葉と受け取っておきます』
「ふん。ならば共に祈ろうではないか、マザー。その嬉しい誤算とやらが起きることを」
『もちろんです。マスター・エグザウィル』
光の柱が消え入り、装置が稼働を停止する。
エグザウィルは袖口に装置をしまうと、扉に足を進めた。
「往々にして真実とは残酷だ。仮初の存在でも例外ではないさ」
そう言い残し、彼は詰所から去った。
シノザキは呆気にとられたまま、椅子に座りこんだ。
「訳が解らねぇ」
結局、エグザウィルの言葉を理解することはできなかった。
「なんだ……これは……」
ドーム内部。そこには清浄な空間と幸せに暮らす人々が居るはずだった。汚染から逃れた人々が住む楽園のはずだった。
そんなものはなかった。
目の前の暗がりに広がるのは、液体の満ちた無数のカプセルと、その中で息絶えた人間達だった。
ここは楽園などではない。墓場だ。
「マスター・エグザウィルは、私達を欺いたのか」
歯を食いしばり、拳を握りしめる。
『それは違います』
どこからともなく、声が響く。
管制官の声だった。
『ここは人々にとっての楽園です。いえ。楽園だった、と言った方が正しいでしょうか』
シエルは足を進める。何列も何層もカプセルの並びが続いている。全部でどれほどの数があるのだろうか。
「教えてくれ。エデンとは、コロニー・クレイドルとは、一体何なんだ」
一瞬の沈黙。
『そのカプセルは延命装置であると共に、電脳世界へのインターフェースなのです』
シエルは眉を顰める。
『クレイドルの人々は、汚染を浄化するのではなく、コンピュータの中に理想の世界を作り、そこに精神を送り込むことによって楽園へ辿り着こうとした。諦めたのです、現実に生きることを』
管制官は続ける。致命的な汚染物質に覆われた世界で、人類は滅亡を逃れられない。そうなって初めて気付いたのだ。解決の機会は遥か昔に失われていると。
人類は絶滅を受け入れた。が、その存在の痕跡が消えてしまうことを拒絶した。そして、人体の構造と人類の歴史を記録したメモリを残した後、あらゆる技術を駆使して電子世界への道を築いた。
機械の中に創り出した仮想世界に入り、そこで生活することによって、人類とは如何な生物であるかを記憶させる。仮想世界で生まれた新たな命は、コンピュータによって創られた疑似人格を持つデータの集合体であり、世代交代を重ねることによって、人類はやがて絶え、限りなく人に近い人格と文明、生活様式を持つデータのみが暮らす世界が生まれた。
絶対なる平和と幸福が存在する世界。現実の人類が為し得なかったことを、データに過ぎない疑似人類が実現した。
この施設を発見した何者かに、太古に住んでいた人類の存在を訴えるために。人類がこの惑星の頂点に君臨していたということを知らしめるために。
管制官の声が途切れる。
「それでクレイドルか。なるほど、言い得て妙というわけだ。くそったれ!」
シエルはカプセルに拳を叩きつける。
「楽園だと? 笑わせる! 目の前の悲劇から逃げた臆病者が!」
『そうするしかなかったのです。存外、人は弱い』
憤懣やる方ないとはこのことだ。
信じていたものも、使命も失った。今日まで、一体何のために戦っていたというのか。
「こんな所に、私の求めるものなどない」
シエルは踵を返す。
『あなたが守護者を撃破してから、もうすぐ一時間』
巨大なだけの墓標に用などない。トライピースに戻り、また一からやり直しだ。
『タイムリミットです』
「なに?」
シエルがドームの外へ踏み出した時。
世界は、消滅した。
※
外に出たシエルは、自分がここに何をしに来たのか失念してしまった。すぐに思い出したが、何か釈然としない心地だった。
「どうした? 腹が痛むのか?」
隣の夫が案ずるような目を向けてくる。
「いや、大丈夫だ」
膨らんだお腹をさする。男の子だそうだ。
「無理すんなよ。大事な体だぜ?」
「ああ、わかってる。ありがとう」
もうすぐ日が暮れる。
スーパーの袋を持つ夫に寄り添い、シエルは帰路についた。その顔には微笑みが浮かんでいる。
彼女は、間違いなく幸福だった。
だしぬけに目の前が真っ白になった。
そう思った瞬間に、彼は自分の体が作りかえられていくのを感じ。
次の瞬間には、周囲の景色が現れていた。
夕焼けの空。懐かしい街並み。忘れかけていた家の門。
そして、腕の中で微笑む一人の少女。
戻ってきたのだ。
望んだ苦境を乗り越えて。
再び、この安寧へ。
「ね? 言った通りになったでしょう」
マスター・エグザウィルは、世界と共にその意味を失った。
※※※
こちらコロニー・クレイドル。管制官です。
エデン内部に発生した第二仮想世界の消滅を確認。
派生したデータは全てエデン内部に転送されました。
それによって発生した歪みの修正も完了。
問題ありません。
引き続き、エデンの管制を続行します。
…………
この世に神が存在するのなら。
今一度、人類に黄金の時代を――
EDEN 朝食ダンゴ @breakfast_dango
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