HAGE

朝食ダンゴ

HAGE

   HAGE

                  式最盛




 この世にハゲは存在しない。

 いや、そもそもハゲという概念自体がない。それは過去の遺物に過ぎない。言葉面で認識していても、それがどんなものか理解できないのだ。

 ハゲの存在を信じるのは余程の物好きか偏執な考古学者のみ。

 それが通念だった。

 この百年で人類の常識が覆された。覆されたという事実さえも飲みこんで、ハゲの存在は歴史の闇に消えていった。

 偏った政治が民衆を困窮させ、人々は常に監視され管理される。

 希望を見出す希望もない。

 彼が生まれたのは、そんな時代だった。


        1


 守房恭介を襲ったのは〝髪無し〟と呼ばれるテロリスト達だ。

 長く続いた不景気によって稼働停止に追い込まれ、そのままスラムと化した廃工場密集地帯。自身の住処であるその場所で、恭介は数人の男に囲まれていた。工場の分厚い壁に背を預け、スキンヘッドの大男たちの接近に眉を寄せる。

 噴き出す汗を拭う余裕もない。〝髪無し〟達のスキンヘッドに反射する月光がやたらと鬱陶しい。

(くそ……バレちまったのかよ)

 なぜ自分がテロリストに狙われるのか、その理由は解っている。だからこそ捕まるわけにはいかない。

 だが今の恭介には逃れる術も抗う力もない。反抗的な視線で虚勢を張ることが精一杯だ。

「そろそろ大人しくしたらどうだ」

 正面の男が口を開いた。このグループのリーダー格だろう。まるで芸術作品のように美しいスキンヘッドに、男らしい顎髭。

「……ごめんだな」

 恭介の息は絶え絶えだ。ここに追いつめられるまでにどれだけ走ったことか。にも拘らず〝髪無し〟達はまったく息切れを起こしていない。

(体力には自信があったんだけどな)

 心の片隅に悔しさを感じながらも、努めて冷静を保つ。

「腐った世の中だ。君だって今の暮らしから抜け出したいんじゃないのか?」

「それで悪化したら見られたもんじゃない」

 恭介の言葉に、男は小さく笑いを漏らす。

「我々は君を求めているんだ。君が、君だけが今の社会を矯正する力を持っている。そんな貴重な少年に粗末な生活をさせると思うか?」

 恭介は話を耳に入れながらも逃げ出すための隙を窺っていた。如何せん男達に油断はなく、一歩でも動こうものならたちまちに捕らえられてしまうだろう。

「あんたらはテロリストだろ。ご立派な思想を掲げたところで、所詮は力ずくの人攫いをするような連中だ。信用できると思うか?」

「我々もこんな野蛮なことはしたくないんだよ。君が逃げるものだから仕方なく、ね」

 恭介は舌を打った。話ができる相手ではない。

 ゆっくりと歯を食いしばった。一か八か、突破を試みる。

 そう決意した刹那。

 銃声。

 瞬く暇も無かった。〝髪無し〟の数だけ銃声が連続し、彼らはその場に崩れ落ちる。

 一瞬、何が起きたのか解らなかった。恭介は呆然と立ち尽くしたまま、広がっていく血だまりに目を落とす。かろうじて残っていた一片の冷静さが、近づく足音に気付かせてくれた。

 硬い靴音と共に闇夜から現れたのは、少女だった。

 小柄な体躯。吸い込まれそうな黒い瞳。膝まで伸びた麗しい銀髪は、月光に照らされ幻想的な魅力を放っている。

 その右手には白銀の大口径リボルバーが握られていた。

「やっと、見つけた」

 純白のロングコートを夜風になびかせて、少女は恭介に左手を差し伸べる。

「守房恭介、あなたはボクが保護する」

 息を呑むほどの美しさに、恭介は半ば無意識にその小さな手を握っていた。

 無邪気な笑みを浮かべる少女。

 常町恋との出会いだった。


         2


 百年前のことだ。

 治療不可能な感染病〝AHSDS〈アスドス〉【後天性頭髪組織不全症候群】《acquired hair structure deficiency syndrome》〟によりわずか数年で全人類の頭髪が消滅した。

 事態を重くみた統轄機構〝アーディランス〟は完璧な人工頭髪を開発し、頭髪を管理のための目印に変えてしまった。人々は各々異なったナンバーの人工頭髪を装着し、身分を証明するものとして利用する。

 人口頭髪には戸籍や遺伝子情報、財産、資格、学歴や職歴など、人物のあらゆる情報が内包された。

 頭髪の消滅が皮肉にもその存在を絶対のものにしてしまったのだ。

 まったく異なる形に作り変えられた頭髪の概念は人々の常識をも変え、もはや頭皮を露出することは人類最大の禁忌となっていた。

 〝髪無し〟と呼称されるスキンヘッドは存在するものの、頭髪が薄いなどということはありえない。

 頭髪の薄い人間がいるとしたら、その人物は世界にとっての異端児だ。社会の中で生きることは確実に不可能である。

 だから、この世にハゲは存在しない。

 ハゲという概念は、世界から抜け落ちてしまったのだ。


         3


 恭介が案内されたのは、豪奢な高級マンションの一室だった。

 少女は白いコートを脱ぐ。下には細身のブラウスとショートパンツ。二十畳の部屋の中央に鎮座するソファにコートを投げると、「座ってくれ」の一言だけを投げ、キッチンに入っていった。

 仕方なく恭介は長いソファの端に腰を降ろす。それだけでソファの高級感が伝わってきた。汚れた服で座ってしまったのが申し訳ない。

 所在なく部屋を見渡してみる。価値のありそうな照明や家具が置かれている。赤を基調とした部屋。生まれてからの十七年間をスラムで育った恭介にとってはまるで夢の中の世界である。

 そんなことを考えていると、トレーにティーカップを載せた少女がキッチンから出てきた。

「どうぞ」

 高く、透き通るような声。

 テーブルに置かれたカップの中には、濁った緑色の液体が入っていた。

 少女はトレーを置くと、対面のソファに腰を落ち着かせる。銀の髪がふわりと揺れた。

 恭介はカップには手を付けず、少女に視線を返す。

 十二、三歳あたりだろうか。成長過程の矮躯。その美貌には幼さが抜けていない。

「あのさ」

 口を開いたものの、すぐに言葉が出てこなかった。

 流れに身を任せてここまで来てしまったものの、彼女が信用に値する人物なのかどうかもわからない。

「助けてくれた事に関しては礼を言っておく」

 考えながらその言葉を捻り出した。

「かまわないよ。それがボクの仕事だ」

 微笑んで言う少女。恭介は訝しげに片眉を上げた。

「その、仕事ってのは?」

 恭介の問いに、少女は躊躇するように目を伏せる。それも一瞬、すぐに目線を上げて、

「保護対象のあなたには教えておく。他言はしないで欲しい。いい?」

 少女の深刻な様子を見て、恭介も真面目な様相で頷いた。

「ボクは常町恋。統轄機構〝アーディランス〟の特殊工作員だ」

 いきなりすごいことを言い出した。

「ボクの任務は、守房恭介、あなたの身柄を保護し、危険が及ばないよう護衛すること」

 恭介はぼりぼりと頭を掻く。

「アーディランスの人間か」

 噂には聞いたことがある。今や政界を牛耳るまでに成長拡大した〝アーディランス〟は、裏で汚れ仕事をする掃除屋を飼っていると。

 まさかこのような少女だとは思わなかった。

「しかし、どうして俺が保護されるんだ?」

 察しはつくが、一応尋ねてみる。

「理由は聞かされていない」

 決まりが悪そうに答える恋。嘘を吐いているようには見えない。どうやら恋は恭介の特異な体質を知らないようだ。

「あなたには今日からここで生活してもらうことになる」

「おおう」

 目を輝かせる恭介。

 スラムのホームレス暮らしから一転。こんなセレブリティ溢れる一室で暮らせるとは、人生何が起こるか解らないものだ。

「けど、ここはボクの家だから好き勝手はしないでくれ」

「はい?」

 恭介は固まった。

「一人で暮らすんじゃないのか?」

「それでどうやって護衛するんだい? 一緒に暮らすに決まっているだろう」

 恭介はこめかみを押さえるべきか迷ってから、やはり押さえることにした。

 恋は事もなげに口にしているが、

「それってまずくないか?」

「なにが?」

「若い男女が一つ屋根の下って状況がだよ」

 恋は首を傾げる。本当に何とも思っていないようである。

 あー、と天井と見上げる恭介。

「純粋というかなんというか……無知なだけか」

 まあいい。恋と同棲するとしても、恭介にはメリットしかない。守ってくれるというのなら、ありがたくお言葉に甘えさせてもらうとしよう。

 夜も更けてきたようだ。

 そこで恭介は、死ぬほど眠たかったことを思い出す。

 結局、恋の淹れた抹茶――後で解った――は口にしなかった。


         4


 目覚めた時、現在進行形で恭介の服が脱がされているところであった。

 寝ぼけ眼で状況を確認する。

 恋が恭介の薄汚れたTシャツを脱がし、ところどころ擦り切れたジーンズのホックに手をかけたところで。

 眠気がぶっ飛んだ。

「待てえぇぇぇぇええぇぇえ!」

 恭介はウインドミルの要領でソファから跳び上がった。恋がソファから転がり落ちる。

「いてて……なんなんだよもう」

「そりゃこっちの台詞だ!」

 なぜ朝っぱらから襲われなければならないのか。まったく理解が及ばない。

「なに勝手に脱がしてくれてんだ」

「心外だね。そんな汚い服じゃ気持ちが悪いだろうから、新しい服に着替えさせてあげようとしていたんじゃないか」

「起こせばいいだろ」

「ぐっすりと眠っているところを起こすのも悪いだろう?」

「気の遣いどころが百八十度違うんだよ」

 不満そうに唇を尖らせる恋を尻目に、恭介はテーブルの上に畳んである新品の服に目をやった。グレーの綿パンツと半袖Tシャツ、薄手の赤いジャケット。スラムで育った恭介に今の流行などは解らないが、適当に選んできた感だけはひしひしは感じられる。それでも真っ当な衣服を身につけられるだけで贅沢だと思う恭介にとっては、流行やおしゃれなどどうでもいいことだ。内心わくわくしながら服を手に取ろうとして、はたと気付いた。

「先に風呂入らせてくれ」

 当然の如く、スラムに風呂はない。スラムに住む人々は、わざわざ川の上流まで登って水浴びをするくらいしか体を洗う術がないのだ。距離があるため毎日行くのは億劫であるし、事実恭介も数日は洗っていないままだ。

 慣れていることだが、新しい家で新しい服を着て生活するのなら風呂には入っておくべきだろう。文化人は毎日風呂に入るらしいという知識くらいある。

「確かに、かなり臭うね。傷つくと思って言わなかったけど」

「永遠に言わなければよかったのにな」

 恋に案内されてバスルーム前の更衣室に入る。

 おもむろに恋が脱衣を始めた。

「はい待て」

 細い両手首をがっちりホールド。恋の手はブラウスのボタンの上で止まった。

「なぜお前が脱ぐ」

「一緒に入るからだけど?」

 恋は心底不思議そうに首を傾げる。

 恭介の顔が引きつった。

「一緒に入る必要があるのか?」

「言っただろ? 護衛するってさ。一人にすることはできない。もし数分でも目を離して、その間に襲われでもしたらボクの責任だ」

「俺はお前に襲われそうで怖い」

 恋は両手を掴まれたままにっこりとほほ笑む。

「ボクが? 何言ってるのさ。ボクはあなたを守るためにいるんだよ」

 羞恥心のない単なる無知なのか、それとも何かの企みがあるのか。

 どちらにしろここで脱がせるわけにはいかない。第二次性徴が始まったばかりのあどけない少女だとしても、裸を見れば最後、理性を保つ自信がない。

 スラムでは当然のことであった強姦も、ここではれっきとした犯罪だ。罪を犯せば逮捕に繋がる。恭介の秘密を考慮すると、迂闊に人前に出ることは避けなければならない。

「俺は大丈夫だから、お前は外に出てろ」

「けど」

「ちょっと買ってきてほしい物もあるんだ」

 苛立ちながら言う恭介に、恋は柳眉を曲げる。

「離れるわけにはいかないって言ってるだろう?」

 手首を掴んでいる恭介の手が振りほどかれた。その力は余りにも強く、よろめいた恭介は驚愕する。

 だが、それが我慢の限界を告げる合図だった。恭介は怒鳴るべく息を深く吸い込み―― それを溜息に変えて吐き出した。

 自分は居候だ。わがままを言える立場ではないし、年下の女を怒鳴りつけるのも大人げない。生き抜くために培った冷静さと状況判断能力がここで発揮された。

「好きにしろ」

 力なく呟いて、恭介はジーンズを脱いだ。トランクスに手をかけて、なんとなく横を見てみると、悄然と俯いて佇む恋の姿。

 上目遣いで窺うように見上げてくる。

「ねぇ……ボクとお風呂に入ることが、そんなにイヤなのか?」

 その一撃で、恭介の機能は停止した。

 トランクスを脱ごうした姿勢のまま一切の動作をしなくなる。

 素晴らしい破壊力だった。

 思考だけが、恭介に許された唯一の行為。

 イヤじゃないけど……。

 全然イヤじゃないけど……。

「イヤじゃないけど! 絶対無理だぁぁぁぁ!」

 最後の一枚を刹那に脱ぎ捨て、恭介はバスルームへと逃走した。


         5


 〝髪無し〟はテロリストだ。しかし、それは政府から見た場合での話。彼らは自身のことをレジスタンスと呼ぶ。〝アーディランス〟の支配に抗うため民間組織〝アートナチュラル〟を結成し、日々不当な弾圧と戦っているのだ。

 元々は一企業に過ぎなかった〝アーディランス〟は、この百年間で急激に勢力を伸ばし、今や世界の政治、経済、教育、宗教など様々な分野を席巻するまでになっていた。

 〝アーディランス〟は頭髪を失った人類に人工頭髪を植え付け、それによって社会を管理するという方法で力をつけてきた。故に、人工頭髪を装着していない〝髪無し〟はそれだけで社会不適応者。〝アーディランス〟に対する反逆者と見なされる。全てが人工頭髪によって管理される社会において、髪を持たないという事実は死と同義だ。世間はその人物の存在さえ把握しない。

 つまり世の中の人間は、完全なる頭髪を持つ者と、完全に頭髪を持たない者に区別される。

 そう、だからこそ、この世にハゲは存在しない。

 存在しない、はずだった。


         6


 熱いシャワーを浴びながら、恭介は姿見を眺める。

 全身の汚れは落ちた。痛んでいた髪も幾分はマシになったと思う。

 結局恋は入ってこなかった。恭介がバスルームに入った後、小声で「買ってきてほしいものってなに?」と聞かれ「ニット帽」とだけ答える。それっきり気配が消えてしまった。買いに行ってくれているのなら、後で礼を言わなければ。

「女子どもってのは、解らん」

 強情と従順。恋の持つ二面性を垣間見た恭介は些かならず混乱していた。

 風呂から上がり、恋の用意してくれた服を纏う。新品の衣類を身につけるなど生まれて初めてだ。部屋の鏡に映る自分の姿に興奮を覚える。

 玄関の方向から扉の開く音が聞こえた。

 恋が帰ってきたのかと思ったが、響く足音の数と重さがそうでないと教えた。

 考える時間は要らなかった。開け放たれた部屋のドア目がけ、ソファを投げつける。

 現れた二人の〝髪無し〟は巨大なソファに押しつぶされて転倒。恭介はその隙にキッチンへと駆け込み、二振りの果物ナイフを両手に構えた。

(尾行されていたのか)

 今の状況から大体の情報は読み取れる。恋が恭介を連れてこの部屋に帰るのを何者かが目撃していた。そして監視。恭介が一人になったタイミングを狙って襲撃を仕掛けてきた。そういうことだろう。

 〝髪無し〟達の組織力は侮れない。恭介はたったいま学習した。

 起き上った〝髪無し〟はソファを押しのけて室内に乱入してきた。

「仲間がお世話になったようだ」

 彼らの手にはハンドガンが握られている。個人に対する抵抗の抑止力としては最高の道具だろう。

「こんどこそ我々と共に来てもらうよ」

 銃を持つ人間が二人いれば、一介の少年である恭介をかどわかすことなど容易い。

「抵抗すれば、撃つ」

 それが、誤算だった。

 銃口を向けられた恭介は、鋭利な眼光で男らを射抜き、

「やってみな」

 一歩を踏み出す。

 その行動が想定外だったのだ。〝髪無し〟達は発砲を躊躇した。時間にしてみればコンマ数秒ほどだったが、恭介相手ではそのわずかなタイムラグが命取りとなった。

 男が引き金を引こうと指に力を込めたのと同時に、太い首に果物ナイフが突き刺さった。放たれたのは一発のみ、空しく壁に穴を空けた。一人は引き金を引くこともかなわなかった。男達の首に刺さった二本のナイフは恭介が投擲したものだ。二人の男は頸部から大量の鮮血を吹き出し、その場に倒れ沈黙した。

 武器を持った恭介を侮ったツケだ。

 略奪、暴行、殺人までもが日常茶飯事のスラムにおいて、十七年間をたった一人で生き抜く困難は筆舌に尽くし難い。そして、それを成し遂げた恭介の実力は言語に絶するものだった。

 〝髪無し〟達にとっては、相手が悪かったとしか言いようがない。

 恭介は床に落ちた二挺のハンドガンを拾い上げる。ドアが開放されたままの状態なら、キッチンから玄関の様子が窺える。よもや二人だけでここに来るとは思えない。近くに後援や増援のための部隊が潜んでいるはず。先程の銃声が外まで聞こえていたなら、数人の増援がここに向かっているに違いない。

 不穏な気配を感じ逃さぬよう、慎重に玄関へと進み、玄関の扉を開く。十一階の通路には誰もいない。階段を上る人影もまったく見当たらない。

 幸い、銃声は漏れていなかったようだ。彼らが不審に思いここにやってくるまではまだ少し時間がある。

 さて、どうするか。

 恋のいない現在の状況でここから逃走したとして、合流できるかは疑問である。

 こちらから探したほうが安全か。瞬時に判断し、恭介はエレベーターへと向かった。


         7


 レジスタンス〝アートナチュラル〟のアジトは都心部の一角、高層ビルが立ち並ぶ区画の地下に位置している。

 名は〝アヴァロン〟。地下深く作られた広大な空間では、総勢数万の〝髪無し〟達が生活している。〝アーディランス〟の頭髪支配を良しとしない彼らは、ここで子を産み、死んでいった。

 〝アヴァロン〟の中心には〝アートナチュラル〟の幹部らが集まる議事室がある。幾つものモニターが設置されており、二十四時間地上の様子を確認できるシステムが施され、幹部らが交代で監視を続けている。

 現在、一人の男がその任に就いていた。

 ただの男ではない。

 二十歳半ばであるその男には、あるはずのないものがある。

「ついに現われたのだな」

 有るか無いかのこの世界で、ただ一人、その中間に位置する男。

「人類が前進するための、最初の一人」

 彼の頭髪は頭部すべてを覆っているわけではない。少ない髪の隙間から、肌白い頭皮が覗いている。

「特性だけではない」

 彼は、存在するはずのない存在。

「芯を持ち、思慮深く」

 社会の理の外に属す、狭間に生きる者。

「そして、強い」

 碓氷神夜。

「百年の進化、ここに極まれり」

 その男は、はっきりと、ハゲていた。


         8


 南中する太陽の下、恭介はひたすらに街を駆け抜ける。

 休日でもないのに都市は混雑している。あまり人目には触れたくない。自由に髪を着色できる今、黒い髪は珍しく、周囲からは奇異な視線を送られる。

 早く恋を見つけなければ。

 恋の長い銀髪もまた違う意味で目立つ。街に出ればすぐに遭遇できると踏んでいたが、この交通量では視界のほとんどが人間で埋まり遠くを見ることができない。

 立ち止まる恭介。これからどうすべきかを考えてみる。〝アーディランス〟に向かうのが最善の選択だ。

 高層ビル街において一際強い存在感を放つ巨大な摩天楼。〝アーディランス〟本社。徒歩で十数分程度の距離だ。

 そこに向かわんと足を踏み出そうとして、全身に痺れにも似た激痛が走った。体が傾いていく。意識は残ったまま、恭介は自分が運ばれていく光景を見た。

 気がつけば見知らぬ個室にいた。

 意識はずっとはっきりしていたはずだが、直前までの記憶がない。腰のあたりがピリピリと痺れている。

(スタンガンか)

 ベットの上で見上げる天井には青空の絵が描かれている。それが閉鎖された空間で開放感を出すための措置ということは恭介も知っている。

 高電圧のスタンガンを食らったせいか、ひどい脱力感が恭介を襲っている。起き上がる気にもならない。銃も無くなっている。

 扉の開く音。首を回すと、一人の女性が入室するのを捉えた。

「どう? 少しは回復したかしら?」

 二十歳過ぎ、金髪のショートヘアを揺らす女性は、細い眼鏡のつるをあげて第一声を発した。

 記憶にある姿だ。恭介にスタンガンを打ち込み、連れ去った張本人がこの女性。

 回復したも何もない。

「ここはどこだ」

 憮然とした恭介の態度に、女性は困ったように頬を掻いた。

「そう怒んないでよ。バチバチやっちゃったことは謝るから、ね?」

「怒ってないから質問に答えろ」

 女性は溜息を吐く。

「街の地下よ。〝アヴァロン〟って聞いたことあるでしょ?」

 懐疑の念と共に上半身を上げた恭介は、眉を潜めて女性を見た。

「噂は本当だったのか」

 〝アヴァロン〟の存在は裏社会で大きな噂として扱われていた。その類の情報はスラムにも流れてくるため、恭介も頭の片隅にその名を刻んでいた。真偽のほどは不明確だったが、

(なるほど……都心の地下か。人の目を欺くには恰好の場所というわけだ)

 女性はベッドに腰を下ろす。

「私、八重樫美佳子っていうの。よろしくね、恭介クン」

 その美貌からのウインク。

「やけに友好的だな」

「そりゃ、待望の救世主が来てくれたんだから当然よね。みんな喜んでるわ」

 自分には到底不釣り合いな単語に、恭介は虚を衝かれた。

「あなたは、〝アートナチュラル〟の革命に欠かせない切り札よ」

 この言い振りから、恭介は自らの秘密が知られていることを悟った。

「俺に何をしろと?」

「んふ、そんなに警戒しなくてもいいじゃない。取って食おうってわけじゃないんだから」

 色っぽい微笑を浮かべる美佳子。

 恭介の眉は寄ったままだ。

「そうねぇ。恭介クンの体をちょこっと調べさせてもらえば、それでいいかな」

「解剖でもする気か? 全力で抵抗するぞ」

 恭介の言葉に美佳子はポカンと口を開けてから、数秒後に哄笑した。

「解剖って……恭介クン趣味悪すぎ。そんな酷いことするわけないでしょ? 数分間機械に入るだけよ。外傷も後遺症もなし。〝アヴァロン〟は安全第一がモットーなんだか――」

 美佳子が言いきる前に、けたたましい警報がその声を遮った。次いで、天井のスピーカーから響くのは不審者が侵入したとの報。

 美佳子の面持ちが険しくなる。

「恭介クンが呼んだの?」

 厳しい目つきの美佳子に、恭介は片眉を上げて見上げる。

「知らないね」

 しばらく見極めるように恭介を凝視していた美佳子だったが「ここにいてちょうだい」とだけ言い残して急ぎ足で退室した。

 恭介は彼女が出て行った扉を見、電子ロックがかかっているのを認めて嘆息した。

 侵入者は誰だろうか。真っ先に脳裏をよぎったのは恋の姿だ。しかし〝アーディランス〟にこの場所が知られているとも思えない。それならばとうの昔に攻撃を受けているはずだ。

「安全第一、ね」

 いまだに痺れている腰を気にしながら、恭介はベッドに寝転んだ。


         9


 轟く銃声。

 風を切る弾丸。

 硝煙の匂い。

 全ては、前に進むために。

 恋の小さな体が狭い通路を駆け抜ける。何十人もの〝髪無し〟が阻止せんと立ちふさがるが、恋を止めることは叶わない。人間離れしたスピードで壁から壁へと移り行く彼女には、無数の弾丸が放たれようと当たりはしない。彼女の、銀のリボルバーから撃ち出される弾丸のみが目標を捉える。

 彼女が通った後に残されるのは、点在する壁の銃痕と〝髪無し〟達の死体だけ。

 恋は施設を駆け抜ける。自分の任務を全うしなければならない。恭介を助けることができなければ、自分の存在価値は無いも同然だ。

 通路に現れる三人の敵。

 後悔、不甲斐ない自分への怒り。感情が身体を動かしている。歯を食いしばり、瞳を見開き、床を蹴りつける。

「……邪魔だ!」

 一人目は後頭部をぶったたかれ、二人目は首筋に足刀をくらい、三人目は眉間に風穴を空けられる。

 〝髪無し〟達が反応する間も無い。

 恋の踏み台となって、彼らはその場に倒れた。

 そんなやり取りが幾度も続き、恋の銃が撃ち出すものを失った頃、彼女はとある部屋に辿り着いた。

 複数のモニターが壁に設置された会議室のような部屋だ。照明は消えているらしく、部屋を照らす灯りはディスプレイが放つ光のみ。

 そこには一人の男がモニターの前、恋に背を向けるように佇んでいた。

 恋は絶句した。

 男は、普通ではなかったのだ。

 彼の頭髪は、薄いのだ。ハゲ散らかしているという表現がこれほどぴったりと当てはまるものはないだろう。

「来たようだね」

 甘ったるい声。二十代半ばの男は、ゆっくりと振り返る。

 見間違いではない。確固たる現実として、彼はそこに在る。

「ハゲ……! 実在してたのか……!」

 恋は愕然とする。世の理を否定する存在が、目の前にいるのだ。これが驚かずにいられるだろうか。

 だが今は任務中だ。ここで脚を止めるわけにはいかない。

「ここだよ」

 恋が口を開くのを制するかのように、男は一つのディスプレイを指した。

「君が探している彼だ」

 映っているのは、ベッドの上の恭介。ぼんやりと天井を見つめている。

「……解っているなら話は早い。その人を返してもらう」

「それは聞けない相談だね。彼は私達にとっての希望なんだ。〝アーディランス〟に渡して殺されてしまうのはどうしても避けたい事態だからね」

 目を細める恋。

「何を言ってる。恭介の命を狙ってるのはあなた達の方じゃないのか」

「なるほどね、そういう記憶が入っているのか」

 男が浮かべるのは柔和な笑み。のはずであるにも拘らず、恋は奇妙な圧迫感を感じていた。男の内から滲み出るような貫禄と威厳は、恋の初動を完全に封じている。この圧迫感が男の強さから発せられるものなのか、それともまた別の要素からのものなのか。後者ならば力でねじ伏せることもできるが、前者ならば立場は逆になる。

(でも、ここで退くわけにはいかない)

 恋はどこまでも任務に忠実だ。恭介を救いだすためにはここを突破する必要がある。

「いいよ、彼をここに呼ぼう。その方が手間が省けていいだろう」

 今まさに跳び出そうとした恋の足が止まる。予想だにしない男の言動が、混乱を運んできた。

「美佳子、彼を連れてきてくれ」

 男は扉に話しかける。恋が入っってきた方とは別の扉だ。

 扉の向こう側から離れていく足音が聞こえる。

 恋は男を見据える。その瞳は男の意図を聞き質している。

「〝アーディランス〟と〝アートナチュラル〟。どちら側に付くのか、彼自身に決めてもらうんだよ」

 そんなことをして何の意味があるのか。恭介が〝アートナチュラル〟側を選ぶという絶対の自信があるとでもいうのか。

(なんなんだ、この違和感は)

 不愉快な空気の中、恋は恭介を待つ。


         10


 初めて碓氷神夜を目にした時、恭介は存外にも驚愕の念を抱くことはなかった。

 それよりも、視界の端に映る恋の存在に驚かざるを得なかった。

「はじめましてだね、恭介君」

 耳朶に粘り付くような甘ったるい声。その音があまりにも不快で、恭介は半ば本能的に眉を寄せた。

 碓氷は柔和な微笑を浮かべている。髪の薄い頭がモニターの光で輝く。

「……あんたは?」

 恭介の問いに、碓氷は恭しく一礼した。

「私は碓氷神夜。〝アートナチュラル〟のリーダーをやらせてもらっている」

 なるほど、と恭介は思った。

 碓氷の頭を見た瞬間から何となく見当はついていた。普通とは明らかに違う特異な頭髪を持つこの男には、普通とは明らかに違う鋭利な狂気を感じる。

 ある意味、限りなく恭介に近い男だ。

「そのリーダー様が俺に何の用だ」

 横目で恋を確認する。

 恋は追いつめられたような面持ちで碓氷を睨みつけている。時折こちらに目線を寄越すが、心中を読み取れるほどの目を合わしているわけではないため、恋が自分にどのような行動を望んでいるのか解らない。どのようにしてここまで来たのかまで察することはできないが、恋にはアイコンタクトを送る余裕もないのだろう。

「〝アートナチュラル〟に協力してほしいと言ったら……どうする?」

「まずは詳しい話を聞く」

 真顔で答えた恭介がそんなにおもしろかったのか、碓氷は押し殺したような笑いを漏らした。

 訝しげに口元を歪める恭介。

「いや、失敬。その通りだと思ってね。とても賢明な判断だと思うよ。さすがは守房恭介、とでも言っておこうか」

「嬉しくない。あんたの声は不愉快だ」

「よく言われるよ」

 恭介の傍らには美佳子が控えている。これではやりにくい。別に話も聞かずに逃げるつもりはないが、プレッシャーをかけられるのは気持ち良くない。できるだけ手短にというニュアンスを含ませつつ、話を促すように碓氷を睨む。

「では……私が言いたいのは、〝アーディランス〟は駆逐されるべきだの一言に尽きる」

 碓氷は笑みを消した。

「恭介君。人類が髪を失ったから〝アーディランス〟が幅を利かすような世界が出来たと、本当にそう思っているかい?」

「違うと言いたいのか」

「逆なんだよ、髪が消えたから〝アーディランス〟が強くなったんじゃない。自らの勢力を拡大するために人類の頭髪を奪ったのは、〝アーディランス〟の方だ」

 断言する碓氷を、恭介は胡乱な目で見据えた。

 静寂の部屋で、碓氷の舌足らずな声だけが空気を震わせる。




 百年前、時の代表取締役だった美濃部箕面は、人工頭髪を開発するという表の事業と並行して秘密裏に最先端科学の研究を行っていた。

 本来は医療目的で進めていた研究だったが、研究の過程で偶然生まれた人工細菌が美濃部の高尚な研究目的を覆した。

 HSV《ヒト頭髪組織不全ウィルス》。

 人類の頭髪を奪った感染症〝AHSDS〟を引き起こす悪魔の病原である。

 HSVは凄まじい感染力を持ち、あらゆる感染経路で人から人へ伝播する。感染後、HSVが増殖して毛母細胞の破壊が進むと、毛根組織が崩壊して全ての頭髪が抜け落ちてしまう。そして、根治的な治療法がない。

 美濃部は全てを知った上で、HSVを世界へと散布した。

 人々が気付いた時には既に手遅れだった。人類の頭髪は、瞬く間に毛根から抜け去ってしまったのだ。




「彼は〝アーディランス〟本来の事業を上手く利用し、人工頭髪によって社会を管理するという途方もない計画を、HSVの存在を知った瞬間から練っていたのだと思う。そしてそれは現実となった。文字通り、世界は美濃部に支配されたんだ」

 計画は美濃部の子、孫、そして曾孫が引き継いだ。最終的に社会体系を完成させたのは曾孫である現総帥。名は美濃部蓑紋太。

 碓氷の話はそこで一旦途切れた。

 恭介は腕を組み、二の腕を指で叩いている。

「……一万歩譲ってあんたの言うことが本当だとして、だからどうしたって話だ。そういう社会体系ができたんなら、それはそれでいいんじゃないのか。出来たばかりのシステムをわざわざ壊す必要もないだろう」

 うんざりしたように言う恭介の反応に対し、碓氷は意外そうに眉間を上げた。

「これは異なことを言うね。スラムで生まれスラムで育った君ならば、私の思想に同調してくれると思ったのだけど」

 恭介は鼻で笑った。

 興味がない風を装っているが、その実恭介は今の社会体系を快く思っていない。

 人工頭髪は高額なのだ。戸籍をもつのに最低限必要なものであるにも拘らず、自腹で大金をはたいて購入しなければならない。初期に比べればコストダウンは進んでいるものの、一定水準以上の収入がなければ家族全員の人工頭髪を用意することは困難なのである。さらに年に二度の内容更新、不正を検査する頭髪洗浄などの定期検閲の費用までも当人のポケットマネーから支払わなければならない。

 昨今、爆発的な勢いでスラムに居着く人間が増える原因はまさにこれである。過去に例のない極端な格差社会に陥っている。勝ち組と負け組がこれほど明確に分別された時代もそうないだろう。

 スラムの悲惨さを身を以て知る恭介だ。現状を打破したいという気持ちはある。

 だが、変えられる気がしない。

 どうすれば変えられるのか、想像もつかない。

 下手に動いて被害を被るより、多少辛くても現状を維持する方が頭の良いやり方だ。

「どうしても協力したくないというのなら仕方がないね。まあ、君の体の検査はさせてもらうけど」

「何のために?」

「決まっている」

 碓氷はにっこりと微笑む。

「ワクチンを作るためさ」

 その一言で、恭介の顔色が変わった。

「作れるのか?」

「恭介君の協力があれば可能だと考えている」

 顎に手を当てて考え込む恭介。

 〝アートナチュラル〟の技術力が〝AHSDS〟のワクチンを精製できるほどに高度なものならば、確かに今の社会体系を覆すことは可能かもしれない。

 表だった行動さえ起こしてないが〝アーディランス〟の支配に不満を持つ人間はなにも〝アートナチュラル〟だけではない。人工頭髪を持つ者の中にも快く思っていない人間はいくらでもいる。小規模ながら支配に抵抗するための団体もいくつかある。

 きっかけがないだけだ。皆〝アーディランス〟の弾圧を恐れているから行動に移さない。

 しかし、もしワクチンが完成すれば。

 それは火種となり、瞬く間に革命の炎を広げていくに相違ない。

「一つ条件がある」

 恭介は恋を横目に言った。

 話の間、ずっと動く気配のない恋。額に汗を浮かべて碓氷の様子を窺っている。

「その条件を呑めば、協力してくれるのかい?」

「ああ」

「聞こう」

 恭介は足を動かした。恋の傍まで歩き、その肩に手を載せる。

「この子を、無事に地上まで帰すんだ」

 できるだけ芯のある低い声を出したつもりだが、碓氷の笑みに変わりはない。

「なんですって?」

 反応したのは美佳子だった。

「そんなこと、許されるわけないでしょ!」

 彼女が激昂するのも当然だ。恋は〝アートナチュラル〟のメンバーを何人も手に掛けているのだ。仲間を殺されて仇を逃がすなど考えられない。

 しかし、指導者である碓氷は美佳子の言葉を無視した。

「その子はいずれ君を殺すよ。美濃部にそう命じられるだろうからね。それでも彼女を守るつもりなのかい?」

 頷く恭介。

「恭介君がいいのなら、いいよ。その子はお咎めなしにしよう」

「リーダー!」

 美佳子が叫ぶ。

「抗弁は後で聞くよ。美佳子の話は長いからね」

 さらりと受け流し、碓氷は部屋の扉を開く。奥には長い通路が続いている。

「行こうか恭介君。共に世界を救おうじゃないか」

 碓氷は柔和な笑みのまま部屋を出た。納得のいかない表情でその後に続く美佳子。

 恭介と恋だけが部屋に残された。

 話すこともなく、恭介は扉へと向かう。

 その途中で立ち止まり、恋を一瞥して、

「これで貸し借りはチャラ、ってことにしておいてくれ」

 再び歩を進めた。

 通路を行く恭介の耳に恋の返事は聞こえなかった。


         11


 地上に戻った恋は失意に沈んでいた。

 陽が落ちて間も無い夜の雑踏。ネオンが恋の銀髪を照らす。〝アーディランス〟へと帰還する道中、足取りは重たい。

 彼は〝アーディランス〟ではなく〝アートナチュラル〟を選んだ。その事実は、恋に圧しかかるには余りにも重すぎる。

 〝アーディランス〟のため。総帥である美濃部のため。恋はどんな死地においても与えられた使命を全うしてきた。完遂できない任務などなかった。

 しかし、どうだ。今の自分は、たった一人の少年さえ守ることも出来ない。それどころか、守るべき対象に見捨てられてしまった。

 任務の失敗。

 その時点で常町恋という存在に価値はない。役立たずのレッテルを貼られ、処分されるだけだ。

 アスファルトを眺めながら歩く恋。

 甲高い響きが聞こえた。

 音の方向を見ると、眩い光が迫っていた。

 それが大型トラックのヘッドライトで、自分が横断歩道の上にいることに気付いた時――

 天地がひっくり返るような衝撃を感じ、恋の体は宙に舞っていた。


         12


 デスクに置かれたコンピュータがアラームを鳴らした。ディスプレイには〝OVER DAMAGE〟の赤い文字。

 豪奢なチェアに腰かけて煙草をくゆらせていた美濃部蓑紋太は眉を曇らせた。深い溜息と共に煙を吐き出しながら、デスク上の内線を開いた。

『はい』

 一度目のコールで繋がった。スピーカーからは透き通るような少女の声。

「弐番機にオーバーダメージが発生した。直ちに回収しろ。回収後は弐番機の任務を引き継げ」

『了解』

 それだけの会話で通話を閉じる美濃部。チェアに体重を預けて高い天井を見つめる。

 どのような経緯で弐番機がオーバーダメージを負ったのかは想像できない。それほど危険な任務を言い渡したつもりはなかったのだが。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 重要なのは、過度の損傷によって弐番機が暴走する可能性があるということだ。暴走すれば街が悲惨な状態になるのは目に見えている。

 それに、早急に始末をつけなければ〝アーディランス〟の技術が漏洩してしまう。

「フン……役立たずが世話ばかりかけさせてくれる」

 灰皿に煙草を押しつけて、美濃部は立ち上がった。

 桃色が眩しいボニーテールが揺れる。五十代も半ば。にも拘らず、彼の肉体は二十代のそれを維持していた。それもまた、〝アーディランス〟の秘密技術の賜物である。

「さて、行くか」

 美濃部は自らの体内に溜まった老廃物を排出するために、陶器の林へと向かった。

「フフフフ……ハーハッハッハッハッハ!」


        13


 検査は恭介の予想に反して短かった。

 血液と細胞の採取と、内臓や筋肉などの体組織の構造を記録するだけで検査は終了した。数日かけて行うものと予想していた恭介はその呆気なさに髪が抜ける思いだ。

 恭介の身体の情報は万全を期すために碓氷が管理することとなった。恭介本人を除いて、碓氷以外の人間がその情報を扱うことはできない。

 ただし検査自体は短時間で終わっても、ワクチンを精製するまでは時間が必要だ。少なくとも一両日の間は〝アヴァロン〟で暮らすように碓氷に言われている。

 暇を持て余した恭介は所在なく〝アヴァロン〟の内部を散策することにした。通路を歩いていると、すれ違うスキンヘッドの連中から度々挨拶を貰う。中には話をしようとついてくる者もいた。

 彼らにとって恭介は救世主だ。この堕落した世界を変えうる唯一の存在なのだ。

(ちょっと鬱陶しいが、悪い気分じゃないな)

 目を輝かせて追跡してくるメンバーがやっといなくなった頃、通路の隅に設置された休憩区域でベンチにもたれる美佳子を見つけた。

 その表情はなんとも寂しげで、眼鏡の奥の瞳にはやるせなさが滲んでいた。

 恭介の気配に気付いたのか、俯いていた美香子は顔を上げる。

「浮かない様子だな」

 美香子の隣に腰を落ち着かせながら恭介はそう口にした。

「まあ……ね」

 笑みを漏らしたのも一瞬、またすぐ元の表情に戻る。

「恋のことならすまなかったと思っている。でも、俺にはあいつに借りがあった」

「うん、解ってるつもりよ。頭では納得してるはずなんだけどね」

 感情が追い付いていないのだろう。長らく共に戦ってきた仲間を殺した相手を助けるのは、たとえ必要なことであったとしても辛苦でしかない。仇を取れない悔しさと無力感。なにより散っていった仲間に申し訳が立たない。

 悄然と前の壁を見つめる美佳子を見て、恭介は目を細めた。

「俺だってあんたの仲間を殺してる」

「そうね。でも恭介クンは特別。彼らの任務はあなたを引き込むことで、彼らの命はそのためにあった。恭介クンがここにいて私たちに協力してくれている。それだけで、彼らは報われると思うから」

「……だといいけどな」

 恭介は溜息を吐く。人を殺すこと自体は何とも思っていない。生き延びるために必要な行為だったから、上手くなっただけだ。

 しかし、こうも気を落とす美佳子の姿に、恭介の胸はチクリと痛んだ。

 不愉快な感情だ。他人を気の毒に思い、自らの行動に罪悪感を抱くなど。

 後頭部を掻きながら立ち上がる恭介。

「収まらないなら、あんたの手で仇を討てばいい。あいつが地上に出てから起きたことには、俺は口を挟まない」

 そう言い捨てて、恭介はその場を後にした。

 美佳子がどんな反応をしたのか、背を向けた恭介には解らなかった。


        14


 交差点は騒然としていた。

 信号無視をした少女がトラックに轢かれた。野次馬が集まり、しかし少女に助けの手は伸びない。

 トラックは少女を轢いた後、逃げるように走り去っていった。今は誰かが呼んだであろう救急車の到着を待つしかない。

 衝突の衝撃で、意識も体も飛ばされてしまった。赤い液体の上に伏せる少女の体。

 あの子大丈夫なの? すげえ血ぃ出てるぜ。救急車はまだなのかしら。死んでるんじゃないのか? 警察に連絡は――。

 むくり。

 ゆっくりと少女は立ちあがった。それを目にした周囲の野次馬らがさらに騒ぎ立てる。

 ねえ見て! おい、立ったぞ! 信じられない。死んでなかったな。 救急車はまだか――

 それらの声を振り払うように、少女は駆け出した。ほとんど跳躍するように、尋常ではない歩幅で。

 一瞬にして交差点から少女の姿が消えた。

 その光景を見ていた野次馬達はただ呆然と少女の消えた方向を見つめるしかなかった。

 逃げ去ったトラックと、同じ方向を。


        15


 主との通信を終えた少女は一度深い息を吐いた。

 超高層ビル群の最も高い場所で、夜の街を見下ろす。膝まで伸びた麗しい金髪が、突風に煽られてなびく。漆黒のコートの裾も、風をうけて暴れる。彼女自身は微動だにもしない。

 常町愛。バトルヒューマノイド壱番機。

 小型通信機器をコートの中にしまう。ついで、凄まじい速度で道路を駆け抜ける白い影をその目に捉えた。

 弐番機の発見、完了。

 こちらの方角に向かって移動している。好都合だ。

 彼女は一両歩の助走をつけ、ビルの屋上から舞い降りた。


        16


「ははは! やってやったぜ!」

 スキンヘッドの男は、トラックの運転席で哄笑した。

 〝アーディランス〟の手先の少女を襲ったのは彼の独断だ。彼は許せなかった。たとえ少女とはいえ、仲間を殺した敵を無事に帰すなど。

 男の顔は歓喜に満ちていた。仇を討った達成感と高揚感。笑いが止まらなかった。

 高ぶった気に誘われ、彼は独りのドライブを楽しむことにした。

 高速道路に乗った。その数分後。

 トラックに激しい衝撃を感じた。

 運転席で感じる浮遊感。トラックは空中で回転しさらなる衝撃を感じる。男はシートベルトを締めるのを忘れていたため、その出来事で命を落とすこととなった。

 男は最期まで、なぜこんなことが起きたのか解らずじまいであった。



        17


 屋上からの落下中。

 愛は直下で起きた惨事をその目に捉えていた。

 白いコートの影が疾走するトラックを殴り、持ち上げて放り投げた。結果、トラックは軽々と宙を舞い、アスファルトに激突して道路を転がった。地面を削りながら転がり、やっと静止した時にはトラックの所々がへしゃげていた。

 その光景を悠然と見つめる白いコート。

 回収目標。弐番機、常町恋。

 恋はまだこちらに気付いていないようだ。

 高速道路が近付いてくる。重力に引かれて、愛の落下速度はどんどん速くなっていく。

 ついに地面に到達した。身を翻し、膝と手を着いて道路に着地する。着地地点に亀裂が入った。しかし、落下の衝撃は愛に痛みひとつ感じさせない。

 恋がようやく気付き、振り返る。その瞳に感情は無い。

 愛は漆黒のコートの中から二挺の拳銃を抜く。黒塗りのシグ・ザウエル。一瞬で十の銃声が鳴った。放たれる十発の九ミリパラベラム。

 恋は銃声とほぼ同時に動いていた。迫る銃弾を縫うようにかわし、愛の眼前に来たところで拳を振りかぶる。

 力負けを確信した愛は足を上げ、恋の拳を靴底で受け止めた。勢いにのって後方に跳ぶ。そして着地。

 距離を取った。次の攻撃は来ない。

 空には満月が漂う。

 流れる雲さえ無い。

 すぐ傍を自動車が過ぎて行く高速道路で、二人の少女は対峙する。

「暴走に陥っていますね」

 片や漆黒のコートを纏う金髪の少女。

「…………」

 片や純白のコートを纏う銀髪の少女。

 二人の少女の顔は、まったく同じだった。双方無表情というところも同様に。

「早急に回収作業を済ませます。手間は取らせないでください」

 長引けば警察やマスコミが来てしまう。面倒なことになる前に任務を遂行する。

 愛の二挺拳銃が咆哮した。次々と弾丸を吐き出す銃口。

 しかし、恋には当たらない。当たる気配など微塵もない。最小限の動きで弾を避けている。暴走状態の恋には弾丸が見えているのだ。

 マガジンの中身が切れた。少女はリロードに移行する。

 その瞬間を恋が見逃すはずがない。恋が右の拳を振りかぶる。

「――ブーストナックル」

 抑揚のない機械的な声。同時に、拳を打つように、恋の前膊の半ばから先が発射された。撃ち出された腕の断面から噴き出る炎。推進剤の燃焼が腕を推し進める。白い腕が、亜音速で迫る。

 リロードの途中であった愛はその動作を諦め、マガジンの抜かれた二挺の銃を重ねて飛来する拳を受け止めた。

 だが、止まらない。

 いまだ衰えない推進力に押され、愛の体は後方へと滑る。ブーツの底がアスファルトを噛む。生じる白煙。受け流すにはパワーがありすぎる。

 押し流されるだけの愛は、後方から走行してきた乗用車と衝突した。衝撃で愛は上へと跳ね飛ばされる。

 それが幸いだった。今の衝撃で拳がそれた。軌道のそれた拳は遥か遠くを走る自動車に直撃、次いで爆発。

 あの拳のせいでかなりの距離が空いてしまった。銃も変型してしまっている。それでもなお無表情で、愛は恋を見据える。

 恋は二発目を放とうとしていた。残った左腕までも撃ち出すつもりか。大ぶりなパンチを打つように、恋の左腕は発射された。

 使い物にならなくなった両手の銃は潔く投げ捨てる。漆黒のコートの中から日本刀を抜いた。刀身は吸い込まれそうなほどの純粋な黒。構えなど取らない。

 そして、前進。地を蹴って飛び出す。

 恋の拳が迫る。なんということはない。ある程度の距離さえあれば、避けるのは容易い。

 接触の直前で体を回転させて拳を避ける。すれ違いざまに斬撃を浴びせ、拳を破壊する。その爆風に乗って加速。一直線に間合いを詰める。

 両腕を失った恋が、少女を見つめる。

「――アイソリッドレーザー」

 恋の双眸から熱光線が放たれた。光速で接近するそれを、見てから避けることは不可能。

 しかし、

「ああ、残念でしたね」

 愛はたっぷりと余裕を持ってかわす。

 そして、恋の眼前で刀を引き、

「それは読めました」

 漆黒の刃が、恋の胸を貫いた。

 その瞬間、恋の瞳から光が消えた。文字通り、発光が止んだのだ。胸に刃が埋まったまま、その場に崩れ落ちる。

 愛はそれを無感動な目で見下ろす。

 と、タイミングを見計らったかのように、ヘリのローター音が聞こえてきた。黒塗りのヘリが愛のそばに着陸。ドアが開き、黒スーツ姿の数人の男女が出てくる。

「コアを破壊しました。自動再生が始まっていますが、数時間はこのままでしょう」

 恋の胸から刃を抜きながら、愛は淡々と言葉を紡ぐ。

「早急に持ち帰ってください。私は、次の任務に移行します」

 愛はそう言うと、返事を待たずにフェンスを飛び越えて高速道路から飛び降りた。

 周辺は、大規模な交通渋滞に陥っていた。


        18


 恭介の眠りを妨げたのは、〝アヴァロン〟に響く警報であった。

 恋がやってきた時に鳴ったものと同じである。ということは、また侵入者だろうか。

 もしかしたら恋かもしれない。いまさら何をしに来たというのだろうか。

 じっとしているわけにもいかない。恭介はベッドから跳ね起き、慎重に外の様子を窺いながら部屋を出た。

「恭介君。こっちだ」

 通路の奥に碓氷がいた。彼の許へと走る。

「何が起こったんだ?」

「どうやら、また君に恋い焦がれる女の子のおでましのようだ」

「なに?」

「ほら」

 碓氷が指差した先。長い通路の突き当たりに、一人の少女が佇んでいた。恋のようにも見えるが、違う。服装はいいとしても、この短期間で髪の色を変える暇などなかったはずだ。なにより、雰囲気が違う。

「〝アヴァロン〟はもうだめだね。場所が割れてる」

 唐突に駆け出す少女。

「逃げさせてはくれないようだ。仕方ないか」

 少女は刀身の黒い日本刀を握っていた。

「恭介君はそこにいてくれ」

 空気が破裂するような音と共に碓氷が前方へ跳躍し、少女を迎え撃った。

 激突。それに伴う金属音。

 一度の打ち合いで、二人は再び距離を取る。

「あなた、碓氷神夜ですね」

「そうだよ」

「やはり。この違和感はあなたのせいでしたか」

 少女は空いている手で肩にかかる髪を払う。

「噂にはきいているよ。バトルヒューマノイドだっけ? まったく……勝手に使ってもらっちゃ困るよ。遺伝子情報は最大の個人情報だろう?」

「私に言われましても。クレーム対応は専門の課がありますので、そちらにお問い合わせください」

 数秒のち。

 二人はほぼ同時に飛び出した。

 接近する両者。碓氷は次で決めるつもりだった。

 だが、碓氷と少女はすれ違う。少女が碓氷の蹴りをよけるように軌道を変えたのだ。

「何……だと……!」

 碓氷は跳躍の勢いがついたまま通路のつきあたりまで行ってしまう。同時に、少女が恭介の目の前に迫る。恭介が反応できる速度ではない。

「峰です」

 透明感のある声。その声を最後に、恭介の意識は途切れた。


        18


 美佳子は〝アヴァロン〟内部の異変に気づき、急いで部屋を出た。

 連絡はあった。碓氷は例の人形に気を取られているはずだ。この機に乗じて碓氷が管理している機密情報を本部に持ち帰る。

 美佳子はくすりとほくそ笑んだ。

 〝アートナチュラル〟のメンバーであるにも拘らず美佳子が人口頭髪を装着しているのは、一般人と同じように生活して外の情報を集めてくる役割を担っているからである。彼女は社員として〝アーディランス〟に潜入し、内部の情報を〝アートナチュラル〟にリークしていた。

 彼女は〝アートナチュラル〟が誇る有能なスパイである。

 少なくとも〝アートナチュラル〟の中では、そういうことになっていた。


       19


 〝アーディランス〟本部。総帥室。

 美濃部がデスクのパソコンで暇つぶしにブロック崩しをやっていた時、開かれた天窓から影が降ってきた。

 少年を担いだ、長い金髪の少女。愛だ。

「任務、完了しました」

「御苦労」

 美濃部は床に寝かされた少年の頭を見た。デスクを離れ、少年の黒い髪を掴み、目を細める。

「なるほど……確かに天然の頭髪だ。まさか、ここまで完璧な免疫を持つ者が現れようとはな」

 あの碓氷でさえ完全な免疫を持ってはいない。不完全な免疫のせいで中途半端に頭髪が残り、結果として頭部の砂漠化が進んだ。

 しかしこの少年、守房恭介は妬ましいまでの完璧な頭髪を備えている。

「ふん」

 美濃部は恭介から手を放し、デスクの引き出しから拳銃を取り出した。銃口を恭介の頭に向ける。

「よろしいのですか?」

 愛が平坦な声で尋ねる。

「先ほど美佳子から連絡があった。情報は入手したそうだ。もうこの少年に利用価値はあるまい」

 愛は答えない。沈黙は肯定だ。造られた存在は、ただ主の命令に従うだけ。

「それにな、胸が苦しいのだよ。正真正銘の自分の頭髪を持てる者を見ているとな」

 引き金にかけた指に、力が入る。

「こんな羨ましい奴は、死ねばいいのだ」

 美濃部の顔が歪む。

 ――銃声。

 放たれた銃弾は、どこからともなく飛来したもう一発の銃弾に弾かれ、壁に突き刺さった。

 美濃部が視線を移す。銃弾を弾いた銃弾は、部屋の出入り口から飛来したらしい。

「何の真似だ」

 扉の前では、恋が銀のリボルバーを構えていた。

 肉体の修復は完了している。暴走状態も収まり、恋の瞳には明確な感情が浮き出ていた。

「恭介を護衛することが、ボクの任務だ」

 恋の言葉に、美濃部は眉を吊り上げる。

「バカが! そんなものはとうの昔に無効だ! 自らの無能さを棚に上げ、主に銃を向けるか!」

「ボクが撃ったのはあなたじゃない。あなたの撃った弾だ」

「同じことだ。役立たずだけでは飽き足らず、私の邪魔までするとはな。どうやら貴様は処分すべきであるようだ」

 美濃部は恋に銃を向ける。が、思いついたようにその手を下げ横目で愛を見た。

「壱番機、貴様の妹だ。貴様の手で葬るというのも一興だと思うが……どうかね?」

 愛は相変わらずの無表情で美濃部を見上げ、恋に視線を移した。

「特に感慨はありません」

「ならば、やれ」

 空気が破裂するような音と共に、双子の姉妹は激突した。


        20


 バトルヒューマノイド。

 それは〝アーディランス〟の行っている裏研究の副産物として生まれた新技術によって造られた人体兵器のことだ。

 ある人物の遺伝子をベースに人工的に造られた精子と卵子を受精させ、人工子宮での発生過程で干渉を続ける。その結果、常識外れの身体能力を持った人間が生まれる。

 二回の試みで、成功例は一つのみ。

 成功した個体は、その時の研究グループの主任の名を取って常町愛と名付けられた。

 失敗した個体は、体の一部が欠損した状態で生まれてきた。

 処分するかしないか、長らくの間議論が行われたが、常町博士の熱望により欠損部分を人工物で補うという方法で採用が決定された。

 失敗作の彼女は、常町恋と名付けられた。


        21


 二人の少女は戦闘中。美濃部は観戦に夢中になっている。

(チャンスはこれしかない!)

 気絶した演技をしていた恭介は、機を見計らって跳び起きた。

「なに?」

 美濃部の反応は遅かった。恭介の放ったアッパーカットは、美濃部の顎を正確に捉えた。

 美濃部の体は高く舞い上がり、天井に頭が突き刺さった状態で静止した。

 二人の少女が恭介の行動に気付いたのはその時だ。

「ボス!」

「恭介!」

 ――刹那。

 天窓から碓氷が飛び込んできた。

「よっ、と」

 床に着地した碓氷は、恭介をかばうように二人の少女と対峙した。

「恭介君、ここは僕に任せて。君は逃げるんだ」

 恭介の勘は当たった。碓氷がここに来る予感はなんとなくだがあった。

「逃げる? どこに?」

「今ここにうちの部隊が向かっている。部屋の外で合流して、なるべく早くこの建物からでるんだ」

「あんたは?」

「大丈夫だ。私は強い、死にはしないさ」

 碓氷は柔和な笑みを見せる。

「この戦いが終わったら、一杯奢らせてもらうよ、救世主くん」

 直後に、黒い日本刀が碓氷の胸を貫いた――

「ッ!」

 ――かのように見えた。

 紙一重でかわした碓氷は黒コートの少女の腕を手刀で打ち、日本刀を弾き落とす。

 その隙に、恭介は部屋の出口へと走った。

 途中で恋が何が言ったような気がしたが、恭介に興味は無かった。

 部屋から出て、廊下を走る。一つ目の曲がり角を過ぎたところで数人の〝髪無し〟と鉢合わす。

「恭介さん! こっちです!」

 全身を武装した精鋭部隊はまだ年若い少年達であった。十四、五歳くらいか。恭介よりも年下である。

 彼らに先導され、恭介は走る。

「この建物には既に爆弾が仕掛けられています」

 走りながら〝髪無し〟の一人が言った。

「どういうことだ?」

「本部を破壊して一時的に〝アーディランス〟の機能を停止させます。その間にワクチンを散布して〝AHSDS〟の脅威を取り除き、同時に〝アーディランス〟の各支部を急襲し、支配体制を崩壊させるという計画です」

 彼の言葉に、恭介は口角を吊り上げて小さな笑いを漏らした。

「ずいぶんと大胆な作戦だな」

「今が絶好の機です。これを逃せば後はありませんから」

 恭介は愉快な気分だった。

 短い間だったが〝アーディランス〟の天下はこれで終わり。明日への希望が湧きあがってくる。

 足が軽い。

 恭介は今、最高にハイであった。


        22


「どういうつもりですか?」

 碓氷との格闘を繰り広げながら、愛は恋を問い質す。

 排除対象である少年をみすみす逃がすなどあり得ない話だ。

「ボクは……」

 恋の表情は暗い。

 自らのアイデンティティが崩壊した矢先の出来事だ。頭が混乱し、整理がつかない状態になっている。

「よそ見は厳禁だよ」

 碓氷の貫手が愛の腹に突き刺さる。肉に埋まった四本の指。傷口から血が滴る。

 愛は碓氷の腕を払い、後方に跳ぶ。

 しかし――

 碓氷は既に眼前にいた。

「くっ!」

 さらに迫る碓氷の攻撃。またもや貫手が愛の腹を捉えた。

 だが――

「なん……だと……!」

 碓氷の指は四本とも全て折れていた。

「残念でした。私が本気で腹筋を固めたら、銃弾も通さないんです」

 碓氷の驚愕の顔に、愛の鉄拳がめり込んだ。

 凄まじいパワー。人間では到底及ばない、バトルヒューマノイドならではの圧倒的な膂力。

 その一撃で、碓氷の顔面はばらばらに飛び散った。肉片、血液、脳漿、頭蓋が床に散らばる。それらを体に浴びた愛の表情は無い。

「あっけないですね。あらゆる武術を習得したと聞いていましたが……所詮は護身技の域を出ていません」

 崩れ落ちる碓氷の死骸には興味を無くし、愛は天井に突き刺さって揺れている美濃部の下へと歩いた。

「さて」

 足を掴んで引きずり降ろす。

 その途中で美濃部は意識を取り戻し、華麗に着地した。

「くそっ! あのフサガキめ!」

 美濃部はあたりを見渡す。

「守房恭介は逃げました」

「なに!」

 わなわなと震える美濃部。

「追え! お前ら二人であのガキを殺せ!」

 美濃部はデスクへと向かい、コンピュータを操作する。

 ディスプレイに浮きあがる赤い文字。

 〝OVER DRIVE MODE〟。

 愛と恋の動きが一瞬だけ停止した。

 次の瞬間、二人の双眸は白い光を放ち始める。そのまま、何も言わずに、二人の少女は部屋を飛び出した。

 旋風が巻き起こるほどの速度。

「生かしておけるか! あんなクソガキはな!」

 美濃部は桃色のポニーテールを揺らしながら、デスクを叩いた。叩いて叩いて叩く。

「そんなに怒ることもないだろう、蓑紋太」

「だれだ!」

 美濃部は部屋を見渡すが、誰もいない。何者かの死骸があるだけだ。

「私だよ」

 美濃部は愕然とした。死体が喋っている。顔も口もない死体が、喋っている。

「貴様、神夜か!」

「ご名答」

 碓氷の死体はするりと立ち上がり、美濃部へと歩み寄る。

 頭の炸裂した体が、近づいてくる。

「貴様、何なのだ……頭部を破壊されて死なない人間など……」

「さてね。この遺伝子を持つ者の宿命だろうさ」

「ゴキブリ並の生命力があるというのか」

「スリッパの一撃で即死するような奴らと比べないで欲しいな」

 碓氷は怪しげな、それでいて楽しそうな笑いを上げる。

「なにがおかしいのだ!」

「いやね。守房恭介の覚醒が始まっているのがね、嬉しいんだよ」

「覚醒だと?」

「ああ。君を天井まで打ち上げたあの力。常人では発揮できないものだ。だけど、残念だよ」

 美濃部が怪訝そうに眉を寄せる。

「何が残念だというのだ」

「これでもう終わりだからさ」

「なにを――」

 美濃部が言い終わる前に爆音が鳴った。建物の各部に仕掛けられた爆弾が爆発したのだ。〝アーディランス〟本部は瞬く間に崩れていく。

 碓氷と美濃部は、落下する瓦礫に潰されて跡形も無く消え去った。


         23

 恭介達は走る。

 遥か後方で〝アーディランス〟の本部が崩壊した。周辺の建築物を傷つけることなく、まるでそのまま地に吸い込まれていくように崩れていった。それはまさに芸術であった。

 街には人っ子ひとりいない。〝アートナチュラル〟の者たちが人払いをしたのだろうか。

 だがそれを気にしている暇はないようだ。

 疾走する恭介と精鋭部隊の前に、黒いロングコートを纏った金髪の少女が空から降ってきた。

 そして、後ろには白いロングコートを纏う銀髪の少女。

「くそ!」

 立ち止まる一行。六人の〝髪無し〟は恭介に背を向け囲むように展開する。

「ここは僕達が引き受けます! 隊長と恭介さんはワクチン散布装置の起動をお願いします!」

「そんなこと言ったって、この状態じゃ――」

「道は僕達が作ります」

 〝髪無し〟達のアサルトライフルが咆哮した。

 飛来する無数の弾丸を、二人の少女は容易く避ける。しかし、回避行為によって挟み打ちというイニシアチブが崩れた。

「今です!」

 合図に合わせ、恭介と部隊長は疾駆した。二人は残した者たちを顧みず、全力で走った。

 背中に戦闘の余波を感じる。しかし、恭介達は振り返らなかった。振り返ることは残った者たちの想いを裏切ることになるからだ。

 しばらく走ったところで、隊長の少年が口を開いた。

「恭介さん、あれを使いましょう」

 少年が指差したのは数台のオートバイであった。

「いいものを用意していたな。もっと近くに置いてくれていたら嬉しかったんだが」

「確かに」

 二人はバイクに乗りこみ、夜の街を走り出した。

 ヘルメットに内蔵さえたインカムにより会話が可能になっている。

「ワクチン散布装置ってのは、どこにあるんだ?」

「〝アヴァロン〟の最奥部。リーダーと僕しか知らない場所です」

 またあそこに戻るのか。恭介は目を細める。

「解った。案内頼むぜ」

 エンジン全開。風を切る。

 〝アーディランス〟の滅亡は、近い。


       24


 残された六人の〝髪無し〟と、二人のバトルヒューマノイド。

「死ね!」

 〝髪無し〟達の放つ銃弾が少女達の自由を奪っている。弾が続く限り、少女達は回避行動に専念するしかない。

 だが、このまま撃ち続けているだけではジリ貧だ。その状況を打開すべく〝髪無し〟の一人が手榴弾を投擲した。

 それが、始まりとなった。

 投げられた手榴弾は白コートの少女に掴まれ、逆に投げ返された。そして、爆発。〝髪無し〟の一人は胴体を破壊され即死。一人は足に傷を負い満足に動けないところを黒コートの少女に殴られて死亡。

「くそっ……!」

 残った〝髪無し〟は四人。

 四人では、二人を足止めすることは不可能だ。案の定、黒コートの少女は包囲網を突破して恭介を追いかけて行った。

「こいつだけでも抑えるんだ!」

 〝髪無し〟達のアサルトライフルが火を吐く。四人分の弾丸が少女に向かって飛んでいくが、やはり当たらない。当たらないどころか、回避行動を取りながら反撃まで行ってきた。

「――アイソリッドレーザー」

 少女の双眸から煌めく閃光。凄まじい熱量が光速で迫る。

「いまだッッッッッ!」

 一人の〝髪無し〟が閃光に対して頭を向けた。

 髪一本ないスキンヘッドが、少女の放ったレーザーを反射させ、上方へと角度を変える。

 上に伸びた光に対し、もう一人の〝髪無し〟が跳躍して頭を当てる。さらに反射した光は撃ちだした本人へと向かった。

 これで、少女は死ぬはず。

 しかし――

 少女は首を動かし、レーザーの角度を調整した。そしておもむろに首を振り、眼球から出るレーザーを振り回した。

 四人の〝髪無し〟達は首や胴体を切断されて死亡。

 戦いは少女の勝利と終わった。


       25


 恭介は〝アヴァロン〟の入口に到着した。

 隊長の少年が地下への扉、マンホールへと歩み寄る。

「さあ、行きましょう」

「ああ」

 少年がマンホールに手をかけた――その刹那。

 銃声、少年の頭部が破裂、少年の体が倒れる。

 恭介にはすべてがスローモーションに感じられた。

 何が起こったのか。推測さえ、一瞬で終わった。思考が巡る。

 少女達が追ってきたのだ。ならば精鋭部隊は全滅? ここにいたら狙撃される。隠れろ。どこに? 隠れる場所などない。ならば?

 避けるしかない。

 銃声。それで方向と距離が解る。

 振り向く。銃弾が見える。音速は超えていない。

 避ける。これなら十分に間に合う。

 体を捻った恭介のこめかみに弾丸がかすった。皮膚が切り裂かれただけで済んだ。

 続けて銃声。

 紙一重で避ける。

 またもや銃声。

 紙一重で避ける。

 徐々に恭介の反応速度が上がってくる。

 数回を経た頃には余裕を持って銃弾をかわせるようになっていた。その回避能力を駆使しつつ、恭介は〝アヴァロン〟の入り口であるマンホールを開き、その中へと滑りこんだ。そして内側からロックをかける。これで彼女らは中へ入ってこられないはずだ。

 急いで最奥部のワクチン散布装置を探そうとして――重大な問題が発生していることに気がついた。

 案内してくれるはずだった隊長の少年が死んだのだ。これでは最奥部まで辿りつけない。彼の口振りから散布装置の在り処はかなり解りにくい場所だろう。この広大な〝アヴァロン〟を、案内も無しに駆け回るのは頭の良い行動とはいえない。そんなことで散布装置を見つけられるとも思えない。

 恭介は絶望に暮れた。

「ここまで来て……!」

 悔しさが込み上げてくる。あまりの絶望と無力感に、通路の壁を思いきり殴りつける。

 ドガッ!

 カチッ。

「ん?」

 スイッチを押したような手ごたえ。かと思うと、目の前の壁が扉のように開き、奥の隠し通路が明らかになった。

 なんという偶然。まさに奇跡。

 天は恭介を見放さなかったのだ。

「よし」

 恭介は駆け出した。

 長い通路を駆け抜け、最奥の扉を開く。

 扉の向こうには、広い空間に、見上げるような巨大な機械が鎮座していた。恭介の目の前には得体の知れない液体で満たされた容器がある。

「これが、ワクチン散布装置か」

 恭介はその白い装置に歩み寄る。

 すると、待っていたかのように装置に取り付けられたスクリーンに光が灯った。

 そこには、碓氷の荒廃した頭が映る。

『恭介君。君がこの映像を見ているということは、私はもうこの世にはいないだろう』

 恭介は巨大なスクリーンを見上げる。

「なんだ……これ……」

『この映像は君が〝アーディランス〟に連れ去られた直後に撮っている。ワクチンはたった今完成した。この装置はそのワクチンを散布する装置だ』

 あらゆる角度から、碓氷の頭が映される。改めて見ると、彼の頭は酷い有り様だ。

『起動の方法は簡単だ。君の目の前にある液体の中に、君の髪を入れるんだ。そうすれば、ワクチンの散布が開始される』

 恭介は頭に手を当てた。

『さあ、いまこそ変革の時。君の、君しか持たないその完全なる頭髪を、そこに』

 恭介は髪を抜いた。

 この一本で、世界は変わる。

 仮初の秩序は抜け落ち、混沌は浄化される。

 そして、新たな秩序が生え揃うのだ。

 恭介は、その髪を、目の前の液体に入――胸に違和感。恭介が下を向くと、自身の胸から誰かの腕が伸びていた。

 それが背中から胸を貫いて心臓を破壊したのだと理解してから、恭介の意識は深い闇の中へと消えた。


        26

「御苦労さま」

 部屋に入ってきたのは八重樫美佳子だ。

 恋が恭介を殺し、ワクチンの散布を防いだところで彼女がやってきた。

「危ないところだったわね。まさかこんなに早く事が進むとは想定外だったわ」

 美佳子は血溜まりに沈む恭介を蹴り、踏みにじる。

「こいつが完全に覚醒しちゃう前に始末できてよかったわ。覚醒したら、もう私達の手には負えないものね」

 それきり興味を無くした美佳子は、部屋の出口へと向かう。

「来なさい、恋。外で愛が待っているわ」

 部屋を出る美佳子に続いて、恋も出口へと向かう。

 そこに恭介のことを気にかける様子など微塵も無かった。暴走した彼女に、感情は存在しない。ただ命令を遂行するのみ。

「〝アーディランス〟は無くならない。私が美濃部の後を継いで、もっともっと大きな組織にするのよ!」

 人のいない広いだけの空間に、美佳子の哄笑が響き渡った。

 恭介と〝アートナチュラル〟の、完全敗北だった。



     FINAL SCENE


 恭介の骸が横たわるその場所で、装置のスクリーンが明滅する。

 そこには、やはり碓氷の荒れ果てた頭部が映し出されていた。

『やっぱりこういう結末か』

 彼は含み笑いを浮かべる。

『まあ、別に良いのだけれどね。恭介君が消え去ろうとも、第二第三の救世主が現れる。〝アートナチュラル〟も同様にね。今の結果がどんなものにしろ〝アーディランス〟の支配は近いうちに崩壊する』

 スクリーンの光が弱まっていく。

『それまで、ちょっとだけ休ませてもらうとしよう』

 映像が薄まっていく。

『それでは、恭介君。また会おう』

 その言葉を最後に、映像は途切れた。

 闇と沈黙が空間を支配する。

 希望が潰え、絶望の淵へ誘う深淵の闇。

 全てが終焉へと期したその場所で。

 恭介の死した肉体は、ゆっくりと、立ちあがった。

 一度は終わった物語。

 再び、何かが始まろうとしている。

 血塗られた肉体と運命。

 救世主たる少年は、自らの頭髪を、起動装置の液体へと投下した。


                            完

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HAGE 朝食ダンゴ @breakfast_dango

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