9月20日(土)夏の終わり
「春くん、お疲れ」
バス停でバスを待つ僕の肩を、穂乃花は軽くたたく。
「この時間のバスに乗るのって久しぶりね」
ここは新大阪や名古屋、博多ほどの都会ではないが、一応新幹線が止まる駅前だ。バス停がある駅前はいつもより賑やかだ。ただ、いつもの帰宅時間にいるスーツのサラリーマンたちはほとんどいない。大きな荷物を持った家族が多い気がする。
僕と穂乃花の通う高校は、駅から徒歩5分ほどにある、いわゆる地方の進学校だ。今日は土曜にもかかわらず登校だ。3年生を対象に大学受験に向けた模試があったのだ。今は15時半過ぎ。僕は先月の夏の大会で部活を引退し、最近は17時発のバスに乗っている。9月になってからは、太陽が西の空に沈むのを背に感じながらバスに乗り、家に着くころには薄暗くなっている。明るいうちにバスに乗るのは久しぶりだ。太陽が眩しいとさえ思う。僕たちの家の方面のバスは原則1時間に1本しか来ない。休日は2時間に1本の時間帯もある。幸いにも次のバスは16時発だ。待ちは30分もない。
僕と穂乃花は高校3年生。そして一応、彼氏と彼女になって半年が経っている。僕たちは中学も一緒だったが、その頃はほとんど話したことはなかった。中学の時にテニス部だった彼女は、部活でよく学校の周りを走っていた。サボっているのかと思うくらい、いつものんびり走っていた。陸上部だった僕も同じコースを走っていて、時々彼女を見かけてはいたが、横を追い越すだけで特に話すこともなく卒業した。そして、同じ高校に進学した同級生が、僕ら2人だけだった。
僕は高校でも陸上を続け、トレーニングがてら片道30分、自転車で通学していた。しかし、高2の夏の終わりの帰り道、派手に転んで家の近所の田んぼに落ちてしまった。あの時は目の前が真っ暗、いや、真っ赤だった。幸い、稲刈り前の稲がクッションがわりになって、大したケガはなかった。てっきり頭から血が吹いたのかと思っていた僕は、心底安心した。もちろん稲を何十本かだめにしたので、田んぼの持ち主の田中さんには怒られたけど、それからなんだか自転車に乗るのが怖くなって、バス通学に変えた。そこで、穂乃花と久しぶりに会うことになったのだ。
穂乃花は帰宅部で入学してずっとバス通学だ。僕は放課後に部活があったので、帰りは別のバスだったが、朝はいつも同じバスだった。まあ前述の通りバスは1時間に1本しかないから、選択肢が無かったのだけども。それから毎朝の30分ほどバスに揺られながら、穂乃花と他愛のない話をするのが日課となった。彼女は僕よりも2停早くバスに乗る。初めは僕は彼女の前の席に座っていた。高校生になって久しぶりに会った穂乃花は、ほんのりあか抜けていてかわいくて、彼女のクラスの男子の中で密かに人気らしいので緊張して声をかけずにいた。しかし、数日経ったある日、彼女のほうから声をかけてくれた。何て声をかけてくれたかは、覚えていないけど、いつしか隣に座るようになっていた。
そしてバレンタインデーの朝、穂乃花からチョコとともに手紙をもらい、中学の時から好きだった手紙に書いてあった。ただ、手紙の最後に
「春樹くんの返事によっては、数日後に控えた期末試験に支障をきたすから、返事はホワイトデーの時に聞かせて。それまではいつも通りでいてね」
と書いてあったので僕はホワイトデーまで返事を言わないでいた。当時、僕は正直彼女のことを好きだとは思っていなかったと思う。僕は普段は女の子と話さないしモテるタイプではない。だから、初めて告白をされて舞い上がったというのが本当のところで、彼女のことは嫌いという訳でもなかったし、かわいいし、嬉しくないはずもなかった。しかし生まれて初めて告白だったから、よくわからなかったし、約束は守る男でいたかったし、余裕ぶってかっこつけたかった。これで試験の点数が悪かったら、本当にかっこわるいから、彼女のことを考える代わりに、厳格な親父の顔を思い浮かべることで、気持ちの高ぶりを抑えて試験を乗り越えた。朝のバスの中では今まで通りでいるように努めたつもりだ。
1か月後のホワイトデーの朝、僕は穂乃花にお返しのクッキーを渡した。
「お返しをくれたってことは、告白の返事はOKってことよね?」
と彼女に聞かれた僕は
「うん」
と答えた。好きだっていうのはよくわからないけど、こうして僕たちの交際は始まった。
そして半年後の今日、僕たちは久しぶりに放課後に一緒に帰宅している。今朝も会ったはずなのに、今朝の穂乃花とは少し雰囲気が違う気がする。バスに乗ってからほとんど喋っていない。朝はいつもニコニコしている彼女が笑っていない。でも、バスを待っているときは気づかなかったけど、少し空いた窓の外を眺める穂乃花から、懐かしくて優しくて甘い香りがする。模試の出来が良くなかったから落ち込んでいるのかも?とか考えてはいるものの、僕は妙にドキドキしてきた。手をつなぎたい。
そうこうしているうちに僕が降りるバス停に着いた。結局、僕は手をつなげなかった。
「じゃあ、また週明けね」
と席を立って穂乃花に声をかけると、振り返って僕を見た彼女は、目を潤ませながら僕の制服のシャツを掴んだ。
「私も降りる」
そう言って僕の後ろについて、バスを降りた。
「ちょっと行きたいところがあるの、付き合ってくれる?」
バスを降りた穂乃花は、笑いながらそう言った。さっき泣きそうに見えたのは気のせいだったのかな?
「ん?いいけど、どこに行くの?」
「秘密、といっても春くんの家の近くだし行ったことはあるんじゃない?」
確かに彼女の足は僕の家の方面に向かっている。
そういえば僕たちがこの町を並んで歩くのは、初めてかもしれない。あれ、今日は親父が早めに帰宅するって言ってたような気がする。今は16時40分だ。さすがにまだ帰ってこないだろう。でももし親父と会ったらどうしようか。そんなことを考えながら歩いていると、僕はそわそわしてきた。ちょっぴり胃が痛む気がするし、脇から嫌な汗が出てる気もする。この先の突き当りを右に曲がって少し進めば僕の家だ。
「そっか、今はお彼岸だったね」
「え?お彼岸?」
さっきまで無口だった彼女の視線の先を見ると寺がある。珍しく今日は寺の駐車場に車が何台も停まっているし、開いた門から線香の香りが漂ってくる。懐かしい香りだ。
「なんかこの香り、懐かしいな」
「懐かしい?もしかして春くん、寺の裏の幼稚園通ってた?」
「そうだよ、もうあんまり覚えてないけどね」
そして、穂乃花は突き当りを左に曲がり、僕の家から遠ざかっていく。僕はほっとして肩の力が抜けた。胃の痛みは気のせいだったようだ。
「あ、私はこの香りが懐かしいな、収穫前の稲穂の匂い」
今度は彼女が言った。視線の先には田んぼがある。稲がふさふさ生えている。
「稲穂の匂い?よくわかんないな」
「じゃあもっと近くで嗅いでみてよ」
そう言って彼女は畔にしゃがみこんだので、僕も彼女の左に並んでしゃがんだ。ちょうど目線と稲の高さが同じくらいになった。そして彼女は目の前の稲束を僕に引き寄せた。すると、ふわりと優しくて甘い香りが僕を包んだ。
「そういえば僕、自転車通学してた時、この田んぼに落ちたんだよね、確かここだ。ちょうど1年前じゃないかな。頭が畔の上で、身体は稲の上だった」
「ここだったんだね、よそ見でもしてたの?」
「うーん、どうだったかな。あんまり覚えてないや。でも走馬灯が見えて、気が付いたら視界が真っ赤だったから、死んだと思ったよ」
「真っ赤?もしかして、まさにそこのヒガンバナに突っ込んだのかもね」
穂乃花は僕の左側を指さす。振り返るとそこには真っ赤な花の塊があった。しゃがんだ僕たちの背丈くらいの高さに、手のひらくらいの大きさの蜘蛛みたいな形の花が咲いている。そして10本くらいがぎゅっとくっついて生えている。もし、僕が落ちたのがこの位置だったら……確かにこの花の位置に頭があれば、身体のほとんどは稲の上だろう。そう言われたらそんな気がしてきたけど。
「でも、この花も去年と同じ場所に咲いてるとは限らないんじゃない?」
「いや、ヒガンバナは一度球根を植えると、毎年お彼岸の時期に咲くんだよ。だから彼岸花っていうの。球根には毒があって、稲を狙う動物を避けるために、田んぼの周りにたくさん植えてあるの」
「へぇ、知らなかった」
「しかもね、彼岸花って茎に葉っぱがついてないよね。葉っぱは花が枯れてから生えてきて冬を越すの。春になったら葉は枯れて、夏の間は土の中の球根だけになっちゃうの。ちょうど田んぼに稲が植わっている時期だよね。それで夏の終わり、稲刈りの時期に茎が生えて花が咲くの。ちょうど稲を守る花なんだよ」
僕はびっくりした。たしかに、穂乃花はよく花の形の髪留めをしていたし、ペンケースも花柄だから、花が好きなのは知っていたけど、こんな風に花の生態についても詳しいのは知らなかった。彼女も僕も生物の授業を受けているけど、こんなこと生物の教科書には載っていない。
「植物博士みたい、花のこと好きなんだね。知らなかったな」
「ふふ、私は花のことは好きだけど、これはおじいちゃんに教えてもらったんだ。私のおじいちゃんは農家で、小さい時から毎年田植えと稲刈りの手伝いに行ってたの。最近までゴールデンウィークは田植え、お彼岸は稲刈りのための休みだと思ってた。おじいちゃんがコンバインに乗って稲刈りしてる間、私は畔に生えてる彼岸花をいつも見てたんだ。もうおじいちゃんは農業を辞めちゃったんだけど。だから、私にとっては稲の香りが懐かしい香りなんだ。あ、私が行きたかったのはここじゃなくて、あっち」
穂乃花は振り返って道路の向こうを指さした。石で作られた古い鳥居がある。鳥居をくぐって石段が100段くらい登ると神社がある。小学生の時に何度か友達とかくれんぼをしていたが、ある時この神社は幽霊がでるという噂がたった。それから一度も行っていない。
「よし、早く行こう」
そう言って彼女は立ち上がって鳥居に向かって足早に歩く。鳥居の左右に彼岸花の束が生えている。誰が植えたんだろう。
半分くらい石段を登った。初めは意気揚々と僕の先を登っていた穂乃花は、いつのまにかゆっくり登っている。バテているのかと思ったけど、よく見ると左右に生えた木々を見ながら登っている。そういえば、中学の時も彼女は、学校の周りをゆっくり走っていたな。学校の周りは田んぼばかりだったけど、もしかしたら田んぼに生えた彼岸花を見ながら走ってたのかな?あの時の後ろ姿を思い出して僕は思わずにやけてしまった。今は追い越すのをやめておこう。
相変わらず古い本殿だ。相変わらず誰もいないし、こんな神社にご利益はあるのだろうか。でも、穂乃花は目を閉じてなにかを熱心に祈っている。彼女のピンク色の唇が少し動いている。彼女の向こう側の木々の合間から夕陽が差してきた。夕陽の眩しさのせいか、胸の高鳴りのせいか分からないけど、僕は彼女を見れずに目を逸らした。真っ暗でよく見えない本殿の奥を見ようとした。
祈願が終わった穂乃花は、夕陽の方にゆっくり歩き出した。僕は彼女の2歩後ろをついていく。
「あれ、こんなところに道があるよ」
彼女は楽しそうに木々の合間の獣道を進んでいく。僕はまだ胸の鼓動が止まらない。
獣道を抜けると、僕たちの町を見下ろす高台に出た。展望台というほど立派なものではないけど、2人掛けの石の椅子が置いてある。いつも穂乃花と一緒に座るバスの座席と同じくらいの大きさだ。彼女は左に寄って座った。僕は彼女の隣に座るのを、ちょっとだけ躊躇ったけれど、彼女の右側に座ることにした。彼女の右側に座る瞬間が、こんなに緊張するのは初めてだ。
「さっき、なにをお願いしてたの?」
「合格祈願だよ、行きたい大学に合格しますようにって」
僕は配慮もなく彼女にお願いの内容を聞いてしまったことを後悔した。僕が気づく前に彼女も普通に教えてくれたけど。
「わ―、ごめん。思わず聞いちゃって。お願い事は他人に言うと良くないんじゃなかったっけ」
「うん、一般的にはそうみたいだけど……春くんの夏の大会が終わったら、ちゃんと言うつもりだったの、どの大学に行きたいかとか進路のこと」
「うん……じゃあ教えて?」
「私は農学部がある大学に行きたいの。さっき話した彼岸花のことも、農家だったおじいちゃんが教えてくれた。植物のことをもっと勉強して、おじいちゃんみたいな農家の役に立ちたいと思ってる。でも、ここから通える範囲に農学部がある大学ってなくて。春くんは、お父さんが働く隣町の大学病院がある大学に行くんでしょ?だから、今日の模試で志望校をいくつか書きながら、辛くなっちゃって。合格はしたいのに、それはすなわち春くんと離ればなれになることなんだなって。春くんは、私と離ればなれになっても平気かもしれないけど、私は耐えられない」
「私、中学の時から春くんのこと好きだったって言ったでしょ。覚えてないかもしれないけど、私が部活で走ってた時、春くん、私の横を颯爽と走って追い越していってたよね。その時の春くんの背中?後ろ姿がかっこよくて、いつも見てたの。いつのまにか好きになってった。走って追いかけようと思ったけど、さすがに陸上部には敵わない。だから、友達にこっそりリサーチしてもらって、春くんと同じ高校に受かるようにめっちゃ勉強したんだ。春くん、頭もよかったから、追いつくの大変だったんだよ。とにかく私はずっと春くんのこと好きだったの」
僕はびっくりして言葉に詰まって、5秒?いや10秒くらい黙ってしまったけれど、沈黙に耐えきれず、口から出てくるままに話し始めた。
「僕は正直、告白されてから穂乃花のこと意識し始めたと思う。穂乃花ってかわいいから男子の中でも人気だから、穂乃花に告白されたとき嬉しかったけど、好きっていうのとは違ったかも。でも今は僕、穂乃花のこと心から好き」
「初めて好きって言ってくれた」
「え?そうだったかな」
「うん、好きって言ってくれるのずっと待ってたんだからね。春くんは私のこと好きじゃないんじゃないかって不安にもなってたんだから。私ばっかり追いかけるのは嫌だなって思ってたの」
「そ、それなら成績は、もう十分に僕を追い越してるんじゃない?先週の三者面談で、僕はこのままだと医学部は厳しいって言われちゃったよ」
そうだ、彼女と同じクラスの陸上部の友達から聞いたところ、穂乃花は成績がいいらしい。もし穂乃花にテストの点数を聞いて、自分のほうが点数が低かったらかっこわるいから、穂乃花にはあんまりテストの結果を聞いたことはないんだけど。
初めて僕たちは今のお互いの成績や、志望大学について話した。今まではかっこわるいとこ見せまいと思ってたけど、だんだんどうでもよくなってきた。隣に座る彼女が放つ香りのせいだろうか。お彼岸のお線香と稲穂の匂いが混ざったような懐かしくて優しくて甘い香りだ。
「今までは穂乃花は勝手に僕を追いかけて、勝手に追い越してったでしょ。僕が穂乃花に追いつく番だ」
「やだ、お互いの背中しか見えないのは……私たちはこれからは別々の夢に向かって進んでいくわけで……だから、追いつくとか追いかけるとかそういうことじゃなくて……かっこいい春くんも、かっこわるい春くんも全部、一番近く、隣で見ていたいな。さっきから私ばっかり好き好き言ってて嫌だけど」
「手、つないでいい?僕、穂乃花が思っているよりもずっと、穂乃花のこと好き。ほんとはさっきバスで、すっごく手をつなぎたかったんだ。ここに来るまでも何回か思った。でもね、誰かに見られたらどうしようとか、自分を守るためにかっこわるいことばっかりで勇気が出なかった」
彼女のことを直視できそうもないので、目の前の景色を見る。お彼岸の時期は夕陽が真西に沈むから、お日さまが一番近くにくるって穂乃花が言ってたな。穂乃花は、自分が好きなことについて話す時、ニコニコ楽しそうに話す。その笑顔がかわいくて、そしてかっこいい。お日さまのような笑顔に惹かれたんだと思う。これは今度伝えることにしよう。
目の前の大きな夕陽は町を飲み込み、町はオレンジ色に染まっているけど、彼岸花だけは飲み込めなかったようだ。彼岸花は鮮血のように真っ赤なまま、あちこちの田んぼを守っている。
彼女は潤んだ目で僕を見ている。僕は導かれるように彼女の赤く染められた唇にそっとキスをした。
彼岸花:稲を守る五穀豊穣の神様
生命力の象徴
恋愛に関する勇気と自信を与えてくれる
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