第2話「Introducing」

 竜の血とともに降り始めたこの都市の雨は、夕方もまだ弱まりはすれど降り続けていた。紗雨は落陽が近付くにつれて濃い霧となり、オフィス街を、港湾を、空港を、そして高速道路を覆っていく。それを貫くように、濃紺色に塗られたレクサスLS460が走り抜ける。フォグランプが、右へ、左へと静かに舞うマイクロサイズの水滴を、何十も、何百も映し出す。

 460の後部座席に、さきほど「ジタン・ワン」として竜と戦っていた女が座る。厳しい表情で、かつ冷静に戦闘を繰り広げた姿とはまったく異なり、力なくうつむいている。右手に提げていたカラシニコフも、今は車のトランクの中だ。そして、両側をH&KのMP7A1短機関銃を持った、覆面の特殊部隊員が固める。これではまるで、護送される容疑者のようではないか。ドラゴン・スレイヤーとしての力をすべて奪われ、もはや1人の女でしかないのだ。


「お前らしくもないミスだ、最後の最後に撃ち損ねるとはな。ジタン・ワン」

 スカーレット色のベレーをかぶり、灰色の軍服を身につけたあごひげの男が、低い声で彼女に語り掛ける。

「……申し訳ございません、山下三佐」

 彼女はうつむき、一切目を合わせようとはしない。その声には力がなく、言葉は葉から落ちた水滴のように転がる。

「一般市民が作戦領域に取り残されたこと、あれは共同警備を行っていた県警のミスだ。こちらから厳重に抗議しておくし、そのうち何かしらの処分が警察内で下されるだろう。それよりも、俺は怒りは感じていないが、興味は感じている。なぜ、最後に撃ち損ねたのか、と」

 ジタン・ワンはここで、口ごもった。自分の意識、そして感覚の中に突然何かが割り込んできて、呼びかけたなど、どうして説明することができよう、また説明しても信じてもらえるはずがあろうか。なのでこう答えるしかなかった。

「体勢を崩してタイミングを逃しました、自己鍛錬に努めます」

 と。

「次があることに、感謝しておいたほうがいいぞ」

 山下はそう静かに語り、そしてジッポーで咥えたボヘーム・No6の火口を炙った。


 夕まぐれの高速道路の、黒光りする路面を鋭い橙色のキセノンランプが照らし始める。460は、水を跳ね飛ばしつつ、滑るように走り続ける。山側を向くと、それと良く似た、しかし三割ほど軟らかい橙色と宇宙の紫色が、ぼんやりと雲の切れ間から姿を現している。

「ところで……『ジタン・ワン』という自分のコードネームを……どう思う」

 山下三佐の唐突な問いに、彼女は目を見開いて顔を上げた。

「……何も感じません」

「感想でも、いいんだぞ、好きか嫌いかとか」

 彼女は赤い目を伏せ、そして口籠る。それを見た山下は、広い肩を揺さぶって笑った。そして、こう答えた。

「なら俺から言っちまおう。正直なところ、嫌いだ。どうもバタくさい上に、歯が浮くような感じがして呼び心地が悪いんだ。だいたい『ジタン』ってフランスの煙草ヤニだろ?誰が付けたんだか」

 そして彼は、やおら後部座席の方を向いて言葉を継いだ。1対の紅眼が、彼に向かって向けられた。

「だが次の任務からは違う。お前は、明日から『梅垣由緒奈うめがいゆおな』となるわけだ。もちろん、俺もそう呼ぶ」

 車はトンネルに突入し、車内はキセノンランプで一段と明るくなる。


 これを読んでおけ、とばかりに無言で、山下は由緒奈に分厚いファイリングされた資料を押し付けた。『任務地:橄欖かんらん学院大学附属N高等学校』。これまでの任務とは違う異質さが、強く彼女の記憶に残る。

「潜入、ですか」

「その通り。この高校の上空では3月末から竜の出現が相次いでいる、都市部には珍しくな。おそらく襲撃されるのも時間の問題だ。そこで発生した場合に対処し、加えて出現が相次ぐ理由を解明しろ。カバーリングプロフィールは臨時教員だ。教職課程を受けたことは確か、あったな?」

「はい。しかしかなり前で、あたしも覚えているかどうか……」

「資料の後半を読んで思い出せ。1週間後には1年生の副担任だ。もちろん、正体が判明しないようにサポートはするが……」

 その瞬間、左手に握った彼のスマートフォンに着信があった。番号は、登録されていないようだった。

「保安庁の山下です」

 事務的な態度を崩さず、仏頂面になりながら彼は突然かかってきた電話に応答した。だが、それは声を聞いてすぐにほころぶ。

「髙松か、いつ日本に帰ってたんだ。まだバタ臭い源氏名を名乗ってるのか?」


 同じ夜、同じ都市の港湾地帯にて。

「――ありがとうございます、ではまた明日……それから『ロザリア』は源氏名じゃありません、対外治安総局DGSEの友人がつけたあだ名です……ロザンナじゃないですってば。やだぁ~、相変わらずネタが古いですね」

 そう言って、そのボブカットで、ほっそりとした女は、アイ・フォンの通話を終了させる――電話の向こうの声の主はなにやら言い続けていたようだが。傍らには、シルバーの2代目ジャガーXKが1台。

「髙松さん、電話終わりましたか」

 彼女の部下と思しき男が、窓を開けて運転席から呼びかける。微笑みながら、灰色のコートを羽織った彼女が車内へと戻っていく。


 倉庫街をジャガーが、速度を落とし気味で静かに走り抜けていく。不気味な濃霧がよく似合うこの車の中にいる二人も実は、正体を隠しながら都市の裏道を駆ける者たちだ。先程『ロザリア』と自称していた女の本名は髙松涼子。そしてハンドルを握る男は、彼女に藤本と呼ばれる。どちらも、政府直属の情報機関に所属している。

「報告書、読んだわよ。医療機関は三角少年に脳の器質異常がある、ってところに着地したいみたいね」

「はい」

 倉庫街を抜け、藤本は工業地帯を走る真夜中の産業道路へと、ジャガーを右折させながらさらにこう、続ける。「ただ、例の竜が中学校を襲撃した事件のときも、同じ脳波が記録されたらしく。ある程度興味は持っているという態度は見て取れましたね。主観ですが……」

「主観!情報収集でそれ大事よ」

 指をパチリと鳴らして、髙松は彼の方をまじまじと見詰める。

「ただ主観だらけになっても、それは意味ないんだけどね。バランスよねぇ」

 そう言うと、今度は自分がおかしいことを言ったかのように、キャッキャと笑う。一方、隣の藤本は額に何故か脂汗が流れてくるのを感じていた。


「で、君ならこの先の謎解きで、まず何をするのが最善かと思うかい?ワトソンくぅん」

 やたらとふざけたフリはしているが、髙松自身は至って真面目のようだ。車が赤信号に捕まってすぐに、その答えは出た。

「裏を取る。つまり、竜と少年の因果関係が単なる偶然かどうか、調査する」

「そのとぉ~り!」

 彼女は次に、テレビコマーシャルのマネでおどける。

「でもそれじゃ次のステップが見付からないんだけれどね。それに、竜の襲撃が急速に増える問題も、それに付随する問題も解決しない」

 そして、急に真顔へと戻る。


「ところで、例の少年、確か三角……」

「竜之介ね」

「そうでした。三角竜之介君って、一体どんな少年なんですか」

 この都市の港湾をまたぐ長い橋へと、ジャガーが差し掛かった時、藤本はそうたずねた。眼下には、オフィス街が、港湾が、空港が、そして高速道路の輝きが白く、また黄、橙など様々な色に瞬いている。ここ数ヶ月ずっと望むことができない静かな星空が、地上に再現されたようだ。

「そうね、小柄で猫背で、揃った前髪が目を隠し気味で、性格は暗く、周囲と溶け合おうとしない子だけど、顔はスッキリして整ってるわ。ネクラだけど、美男子ってところね。あと名前。竜を憎んでいるかもしれないのに竜之介だなんて。因果よね」

「ええ、まったくです。その上俺達も立場上直接助けてあげられないというのも、もどかしいですね」

「誰か、彼のことを幸せに出来ないものかしらね?」

 雨というよりは霧、と軽口を叩けていた雨粒は、また大きくなり始め、音を立てて地面に叩きつけ、なかなか止んでくれない。もどかしくて、うまくいかないことばかりだ。そんな夜を、ジャガーXKが駆ける。

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いつか竜の空にボクとキミと 下松回応(しもまつ・かいおう) @kaiou_gumi

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