いつか竜の空にボクとキミと

下松回応(しもまつ・かいおう)

第1話「Breaking the Habit」

「これじゃいけない、だから僕はぼっちのままなんだ」

 4月のとある休日の午前、車がほとんど通らない市道の脇で、一人の少年が我に返り煩悶していた。彼の周りには民家は一つもなく、人っ子一人いない。ただブナやシラカバの原生林が広がっているだけだ。空は厚い雲が垂れ込め、今にも雨が降りそうな風につれて渦巻いている。

 彼は思い出そうとする。一体どうやって、ここにやってきたのか。朝、子供部屋で起き上がり、ぼんやりしていると、突然誰かに呼ばれるような、不思議な感覚がして……それから先の記憶がない。服も起きたままということは、たぶんその間ずっと我を忘れてここまで歩き続けていたってことだろう。彼が記憶する限り、こうして無意識になるような経験は一度だけではない。初めての経験は小学校の時から、そして中学校の時も。こんな調子だから、彼はいつも気味悪がられて、話す相手も心を通わせる相手もいない。

 煩悶しながら、元々来た(だろう)道を戻り始めるこの少年の名は、三角竜之介という。


 竜之介の耳には、この静かな原生林には不釣り合いなサイレンの音がかすかに飛び込んでくる。もしかして家から失踪したことを心配した親が警察に通報したのかな、と思い彼は足を少し早める。そのせいか、黒い影が頭上から迫ってくることにはまったく気付かないまま。

 雷鳴のように天を貫く、巨大な生物の咆哮。それに気付いてようやく彼は振り向いた。だが、逃げようとするにはあまりに遅かった。その生物の足が地面を踏みしだくと、アスファルトは激しく揺れ、深い地割れとなる。ひ弱な彼の肉体はその振動の前では、舞い上がるチリやホコリも同然だ。それでも痛む体で立ち上がり、なんとか走り出そうとする、決して振り向かずに。だが荒れ狂う騒音と、長い首を伸ばして睨む2つの紅眼、まもなくひとりでに森が燃え上がるのではないかと思わせる大気の温度。これら超自然的な力を前にして、体に力が入らないというのは無理ないことだろう。

 竜――この巨大な生物は、かつては人に崇められ、また人と共存してきた存在であった。しかしいつからか、理由は分からないが、凶暴さをむき出しにし始めた。そして今では人を殺める敵性生物として恐れられている。


 その時、彼の眼は、竜を前に何かを構えながら、そして2発ずつ、鋭い射撃音を響かせながら、自分に近付いてくる何か、いや少なくとも、誰かの姿を捉えた。ウェーブした長い髪をなびかせ、ひるまずにその人は銃と覚しき何かを使って戦っているのだ。その髪は、竜の瞳に似たダークレッドに染め上げられている……。

「伏せて!立ち上がらないで!」

 透き通ったガラスに似た、しかし決然とした声。竜之介には何をしたのかわからないだろうが、彼女はこの瞬間カラになった弾倉マガジンを流れるような左手の動きで交換し、そしてそのままチャージング・ハンドルを激しく引いたのだった。

 もし、彼が少しでも銃に詳しければ、この午前、山中での出来事をこう語ったのではないだろうか。

『憂鬱な僕にカラシニコフを持ったお姉さんが降りてきた』と。


 彼女は2・3歩後ずさりし、竜之介の前に立ち塞がる。そしてさらに2発。鋭い射撃音とともに、無煙火薬の炎が銃口から瞬間的にほとばしる。銃弾が当たるたび、竜のうろこは砕け散り、あまりにも薄い皮膚の向こうにあかあかと燃える血肉が見て取れる。

「ローグ・スピア、こちらジタン・ワン。問題が発生した。逃げ遅れの一般市民を保護。救出を求む」

 彼女はそう、片耳を覆うボウマン・ヘッドセットのマイクに向けて早口に語り掛ける。ヘッドセットの一端は彼女が身に着けている、デジタル迷彩が施されたボディーアーマーの背中側にある無線機に差し込まれている。

『ネガティヴ。救出チームの派遣には危険過ぎる。応戦しつつ安全地域に脱出せよ』

 はあ、とため息をつきながら、「ジタン・ワン」は振り向き、そして竜之介に向かって叫んだ。

「走るわよ。立てる?」

「ひゃ……はい」

 痛む体を彼が起こして、ようやく立ち膝の姿勢まで取れるようになった、その時だった。竜が枹、という唸り声とともに体を伸ばし、2人に向かって突進の構えを取り始めた。

「どうも一筋縄では逃げさせてくれないみたいね」

 そして、巨大な生物の足が動き出すよりも早く、彼女は竜之介を小脇に抱えて森の中へと飛び込んだのだった。


 霧の立ち込める原生林の中を、右手にカラシニコフを提げ、左腕で少年を抱えた「ジタン・ワン」が、本能で木の位置を感じ取り、右に、左に跳びながら駆ける。この原生林には、いくつもの倒木や潅木、溝があるが、それは彼女にとってまったく障害にはならない。それどころか、彼女もまたその一部となっているようである。

「お姉さん、一体誰なんですか!!??」

 竜之介は頭を上下左右に揺さぶる衝撃で意識が遠くなるのに耐えながら、自分を抱えて運ぶその人に向かって叫ぶ。

「終わってから説明させて!それどころじゃないの!」

 彼女はそう言いながらも、全速力で追いかけてくる竜の場所を正確に把握し、かつ少年と自分が隠れて追跡を場所を探そうとする。

 右手に提げたカラシニコフは、厳密にはAK-104という名前で生産されている。これは世界中の紛争地帯で見られる、これより古い時代のカラシニコフと内部構造的には変わりがない。だが、外部は大きく異なる。

 まず、その長さは10センチメートル近く切り詰められ、小柄な体でも問題なく取り回せるようになっている。射撃の際に握るそのハンドガードは通常この銃に取り付けられている木で作られたものとは違い、四面にオプションのパーツ、例えば照準装置やフォアグリップを取り付けるための20mmピカティニ・レールが取り付けられた強化プラスチック製ハンドガードに交換されている。さらに上面のピカティニ・レールは後方の機関部カバーまで続いており、拡張性が更に増している。彼女はそれにフォアグリップとホロサイト、つまりレンズの先にホログラムで照準点を浮かび上がらせるタイプの照準装置を取り付けている。

 またその肩に当て、射撃を安定させる銃床も違う。通常それはオーソドックスな三角形型をした、木製あるいは強化プラスチック製のものだが、彼女のAK-104では現代の最新型である特殊部隊用のアサルトライフルにも取り付けられている、長さを調節できる銃床を取り付けている。握っているピストル・グリップも、通常の単純な形をしたものではなく、握りやすいように形がカスタムされたものだ。

 この、祖国に身を捧げた兵士から私利私欲のために動く犯罪者まで、あらゆる者が愛用しまた軽蔑した武器、カラシニコフ。そして彼女にとってはドラゴン・スレイヤーなのだ。


 岩陰に隠れながら、傍らに少年を座らせ、彼女は竜の気配を視覚以外のすべての感覚を研ぎ澄まして伺う。銃口は上に向け、いつでも射撃できるようにスタンバイしている。視覚以外のすべての感覚を研ぎ澄ましてその様子を伺う。少年はショックに耐えられなかったのか、それともまた別の理由か、気を失っている。

「ジタン・ワンよりローグ・スピア。一般市民とともに救出地点に到着。一般市民は意識不明。外傷なし。救出チームの派遣を求む」

『諒解した。これより救出チームを派遣する。予想到着時間ETA、3ミニッツ』

 3分が勝負か、と彼女は独り言つ。隠れている岩を挟んで、20メートルの距離で竜とにらみ合う。咆哮を上げようとし、弱点である心臓をさらけ出した時が最大のチャンスだ。巨大な呼吸音のかすかな違いに耳を傾け、タイミングを見計らう。

 大気を大きく吸い込む音が耳に飛び込み、そして呼吸音が止まる。銃弾は30発、フル装填だ。ボディーアーマーの上から重ねて着用した濃緑色のチェスト・リグの中には、まだ5本、弾倉が残っている。タンクトップから伸び、細いが確実に「実用的」な筋肉がついた白い腕の上に、木の葉から落ちた水が1滴、落ちて跳ねる。


「轟……」

 竜の長い咆哮と共に、彼女は岩陰から横に飛び出した。そしてトリガーを引き絞り、竜の肋骨と肋骨の間に2発、また2発、とダブルタップで撃つ。自らを襲う存在に素早く反応し、竜はその足で踏み潰そうとするが、そのような単純な手段が効くわけはない。それどころか横へと転がってそれを避けながら腰だめにまた数発、牽制で撃つ。そして竜の眼には死角となる、横腹の後方へと素早く移動。そしてカラシニコフのセレクタを一段上げて「フル・オート」にし、5発ずつ2回、7.62×39ミリメートル弾を右前足へ撃ち込む。標的の一部の肉がえぐりとられ、竜の鱗が、いくつも砕かれ、まるでガラス片のように輝く。

 その痛みに、右前足を引きつらせながら竜が茫、と低い叫び声を上げる。その時には既に、彼女は前に転がりながら竜から離れ、しかもその間に弾倉を跳ね飛ばし、新しい弾倉を装着していた。

 そして、ふたたび狙いをつけ、正面、30メートル離れた位置から5発、また5発と、弾頭を二重丸のホログラムの向こう側、引きつった竜の大胸筋に送り込む。竜は苦悶し、赤黒い血を激しく流しながら鱗の向こうにあった赤い肉を見せる。しかし、その動きは決して遅くなっていない。それどころかよりその怒りは増し、目は赤く燃え、呼吸も荒く、より一層の殺気を発している。

 竜が背中を伸ばし、その尾を湾曲させる。

 それを彼女は、後ろに跳んでそして着地と共に伏せ、それを見事に避ける。そして、低い姿勢で左側面へと回ろうとする…。

 しかし、竜の視線もそれを追って来る。


 竜と人の、向かい合いだ。彼女は銃口を竜の心臓へ向け続け、緊張を緩めない。ふと、竜の足の動きが止まり、ぐっと背中を湾曲させる。飛んで逃げようとしているのか?こんなのは初めてのパターンだ、と彼女は感じた。傷付けた相手には、徹底的に力尽きるまで戦い、復讐するのが竜の習性であるから。戸惑いながらも、彼女は引き金を絞ろうとする――。

 その時だった。突然、視界が真紅に染め上げられる。すべての音が消え、竜も、彼女も、動きが止まる。後ろから笑い声が聞こえる。無邪気な、少年の笑い声が。彼女はおそるおそる、振り向く。さっき保護した少年が居るはずの、岩陰からだった。気絶しているはずの少年が、立ち上がって、笑っている。立ち上がらないで、そう彼女は言おうとしたのだが、喉も唇も痺れて何も言うことが出来ない。それを見て、なおも彼は笑い続ける。

 そして、誰ともつかない声が聞こえる。

 『こっちにおいで、か・め・つ・り、き・み……』


――バサアッ――


 激しい風、そして羽音。草が、樹の葉が、舞い上がる。そしてどこまでも、どこまでも響くような咆哮。彼女は何も出来ないまま、天高く登ろうとしている竜を見上げる。銃を構え直し、撃つことも出来ないままに。


 しかし、その瞬間、竜の起こすような音とは全く違う、轟音が響いた。狙撃隊のNTW-20の銃声だ。軌跡を描いて飛んで行く大口径弾頭は、空中の竜を貫いた。下腹に一発着弾。激しく血しぶきと肉片が空に、まるで爆発のように広がった。それはカラシニコフの撃ち出す弾頭とは、威力が語るまでもなく、格段の差だ。

 そして、空中で丸まり、苦悶を全身で表現する竜。しかしそんな体に、もう一発、また別の方向から、今度は首へ弾着した。それはあまりにも大きな力で、竜の首を引きちぎった。

 どさりと、地面に落ちる肉塊。そしてそれに続く、真っ赤な血のシャワー。気を失ったままの竜之介少年も、また「ジタン・ワン」も、赤黒く染まっていく。


「ジタン・ワンよりローグ・スピアへ。敵性生物の排除を確認」

 力なく、彼女はボウマン・ヘッドセットに向けてつぶやく。

 彼女にはただ、曇り空を見詰めることしかできなかった。まもなく20式5.56mm小銃で武装した救出チームの一団がやってきて、少年を救護ヘリで吊るし、回収していった。その間もずっと、大粒の雨が降り、竜の血をすべて洗い流してしまうまで、ずっとそうしていることしかできなかったのだ。

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