第六話 とある『勇者』

 ——少し考えてみるとだけ言い残して、逃げるように画家の部屋を出た。


 階段を降りるのも億劫なくらいの疲労感に襲われたものだから、段差に腰を下ろして深く息を吐く。


 いっそ飛び降りてしまおうかとも思ったが、それをするのも気怠い。


 とにかく重い。全てが重い。輝かしい夢で、身体が押し潰れてしまいそうだ。


 どうして俺は悩んで、躊躇って、悲しんでいるのか。目的は明瞭なのに、迷っているのか。俺は何故、叫ぶことすら出来ないのか——


「——ミツケタ」


 また、耳の奥を這いずるようなあの声がした。何処かで遠くで誰かが叫んだのが聞こえた時には、もう手遅れだった。


 あの黒いものが口を大きく開けているのを、ただ見ていることしか出来ない。俺はあっという間に飲み込まれて、真っ黒い世界に放り出される。


 手足どころか、全身が金縛りにあったように動かない。反比例して意識は明瞭だけれど、音も光も匂いもない空間で出来ることはせいぜいが自分を鑑みることくらいなもの。


 何しろ自分は変わらない。あんな攻撃さえ回避出来なかった精神のままここにいるのだから。


 ——俺達は勝った。なのに……! なんで、あいつが魔王になって、お前が化け物扱いされてんだよッ!


 暗闇の中で、怒声がした。胸ぐらを掴まれたような気もした。つい最近も聞いた、良く知っている声の筈なのに、どうしても誰のものか思い出せない。


 ——君は私に勇気をくれたから。今度は私が、君の力になる番だよ。


 今度は、とても暖かい声がした。光が見えたような気もしたけれど、目の前には何も無い。


 ——あ、あのさ。もし、もし魔王に勝てたら……さ、えっと……あたっ……あたしと……ごめん。なんでもない。


 なんだか、無性に腹が立つ声がする。知っている、絶対に知っているんだ。なのに、なのにどうして誰も思い出せないんだ。


 ——お前は、世界を愛しているか?


 心が、跳ねる声がした。頭の中で、ぐるぐると同じ問いが反響する。何度も、何度も、何度も。


 それでその度に、それでも愛していると、俺は世界が大切だと、誰かが答える。


 いや、違う。俺だ。俺が答えている。聞いたこともない声なのに、そう思った。理由は分からないけれど確かにそう思った。


「——しっかりして! 勇者ぁ!」


 ——景色が、一気に見知った塔に戻る。問いも答えももう聞こえなくて、身体の感覚が戻ってくるのがはっきりと分かる。

 

 俺は、いつもの石畳に寝ていた。なんだか冷たいと思ったら、胸元で預言者がそれはもうぐっちゃぐちゃな顔で泣きじゃくっていた。いつもは正直面倒だと思うけれど、今はどこかホッとする。


「……なんだよ?」

「勇者! よかった……あんたがこのまま目覚めなかったら、あたしどうしようって……!」

「——さてね。悪いけどね、少し良いだろうかね?」


 穏やかな声で俺の胸に手を当てたのは、白衣を着た白髪の男の人——『医師いし』。先日の騒動の時も厄介になったが、今度もまたお世話になることになりそうだ。


「ん……まあ、どこも異常なさそうだがね。念の為休んで貰おうかね」

「そうですね……そう……しま——」


 俺の記憶は、そこまでだった。次に目を覚ました時にはまた、鍛冶屋が金属を叩く音がした。


「……よぉ勇者。良く眠れたか?」

「まずまずです」

「そうかい。吉報……とはいかねぇな」


 カン、と鈍く乾いた音が鳴る。鍛冶屋もどこか、浮かない様子だった。


「すみません。いきなりで申し訳ないんですけど、昨日何があったのか、聞いても良いですか?」

「いいぜ。まず、お前はどこまで覚えてる?」

「えっと——」


 飲み込まれたこと、声を聞いたこと、目覚めてすぐに意識が途絶えたこと。全てを話すと、鍛冶屋はまた寂しそうな顔をしてから、ゆっくりと話し始めた。


「そうだな。まず、お前が飲まれたのは数人が見てた。それだけいりゃあ消すのは難しくねぇが、お前を無事に、となると話が変わる。そんで人手を集めてたが……状況が一変した」

「何があったんです?」

「——お前が、毎朝会いに行く奴が来た」

「亡……霊……?」


 自分で言っておきながら、俺は己の言葉を信じられなかった。俺は、あの人の言葉すら聞いたことがないのだから。


「……あいつがあの黒い奴だけを綺麗に消した。それからはお前も知っての通り。預言者が寝てるお前に駆け寄って、それからお前がもう一回倒れた。そんだけだ」

「亡霊さんが、俺を? どうして——」


 ふと、最後に聞こえた声が蘇る。あの時は何も思い出せないままだったけれど、今なら何となく分かる。


 最後の問いかけ。あれはひょっとしたら、亡霊が俺に向けた言葉だったのかもしれない。


「……まあ、自分で考えろ。それと、探偵の奴から伝言だ。お前の身の安全を考慮して、日替わりで護衛をつけることしたってよ」

「ちなみに、今日は僕だ。よろしく頼むよ」


 ポンっと、射手が俺の背中を叩く。今日の彼女はいつもとは違って笑顔で、眼帯もせずに赤い宝石のような右目が露わになっている。


「あ……よろしくお願いします」

「さて……とは言うものの、君はまた上に行くんだろ? 一緒に話すという訳にはいかないだろうが、途中までは僕がついて——」

「ああ、大丈夫です」

「ん? どうしてだい?」

「しばらく亡霊さんに会うのはお休みしようと思ってるんです」

「んなっ……!?」


 珍しく、射手が口を半開きで固まっている。それと同時に金属を叩く音も止まって、鍛冶屋もこっちを向いていた。


「ちょっと、思うところがあったので。射手さん、図書室に行きたいんですけど、付き合って貰っても良いですか?」

「構わない……けど、まあ何でもない。行こうか」

「気ぃつけろよ。今やこの塔も、何が起こるか分からねぇからな」

「はい。行ってきます」


 カーン、といつものような澄んだ音色がする。そうだ、今は少しだけ立ち止まって、考えてみよう。


 ——自分が本当は、誰なのかって。

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