第四話 祈る『聖女』

 あの騒動から数日。結局のところ、あの黒いものの正体は何も分からなかった。


 鍛冶屋も翌日にはもう何ごともなかったように振舞って、その時のことは一言だって語らない。


 それ以外には同じ事が起こらないように各自に警戒を促したり、決まった時間にパトロールをする決まりは出来たけれどそれだけで、後は一応元の通りの日常が帰ってきた。


 帰ってきた筈だったのに、困った事が出来た。


 ——前に、進めなくなった。以前のように、亡霊に近づく事さえ出来なくなった。


 近づこうとすると、言いようの無い悲しさと、あの時の鍛冶屋の顔が頭をよぎって、気がついたら今のように落ちている。


 その所為か分からないけど、その後の稽古にも身が入らない。騎士にも、司書にも、しばらく休んだ方が良いと言われてしまった。


 何が駄目なのか、何が変わったのか、どうすればいいのか——ここ数日はずっと、落ちている間にそんな事を考えている。


「——捕まえた!」


 身体が、中空で逆さまに止まる。声の方を見ると、聖女が足だけで身体を支えながら、俺の両足を掴んでいた。


「……いきなり、どうしたんですか」

「ちょっと付き合って欲しいの! 良いよね?」

「いや、あの——」

「——ねぇ、知ってる? うちの里ではね、期待している子供をんだよ。ほら、ここから下まで丁度良い感じの高さだと思わない?」


 聖女の笑顔から言葉から、有無を言わせぬ圧力を感じる。割といつものことではあるのだが、ここまで露骨に脅してくるのは珍しい。というか初めてだ。


「……はい」

「そうこなくっちゃ! 良かったー! 今日を逃したら、次いつ見れるか分からないから……」

「見る……? うわ!?」


 グイッと凄い力で身体が浮いて、視界が一回転したかと思うと、塔の外壁から出っ張っている空間の上で聖女の胡座の上に座らされた。


「よいしょっと。んー……風、ちょっと強いね。寒いかな?」


 ヒュウヒュウと吹き付ける冷たい風、片手で数えられるだけの星が照る暗い空。それでも、寒くは無い。


 鼓動が聞こえるくらい密着した聖女の身体から、熱いくらいの熱が伝わってくる。


「……大丈夫です。というか聖女さん、ひょっとして熱あります?」

「ん? 至って元気だよ。いつもと同じじゃない?」

「そうなんですか? いつもはもの凄く強く抱きしめられてるから、熱いんだと思ってました」

「……もしかして勇者ちゃん。獣人の事あんまり知らない?」

「あ……はい。すみません。実は話に少し聞いていただけで、実際に見るのも聖女さんが初めてでした」


 少し、抱きしめる力が強くなったような気がした。


「——そっか。えっとね……種族にもよるけど、基本的に獣人は体温が高いんだよ」

「へぇー……全然知りませんでした」

「ま、会って触って見なきゃ分からないよね。ちなみに、私はその中でも特別! 冬もぽっかぽか、抱きしめられてるだけで傷も治っちゃう! 凄いでしょ?」


 頷くと、聖女は牙を見せて嬉しそうに笑った。


「でしょでしょ? 君に褒められるのは……っと! それはさておいて! 今日勇者ちゃんに来てもらったのは、見せたいものがあるからなのです!」


 そう言って、聖女が夜の帷の向こう側を指差す。


「あ——」


 その指の先、真っ黒い森を抜けて、朽ちた残骸を超えて——どこまでも延びる地平のその果てに、煌々と照る一つの光がある。


 夜の闇など知らん顔。空の星に叫ぶように、前へ進めと背中を押すように、その光は在った。


「俯いても、縮こまっても、見える地平の星。上を向かなくても、背中を押してくれる私の大切な景色。どうかな? 綺麗じゃない?」

「はい、とても。あれ、なんですか?」

「あれはね……炎なんだって。私が生まれる前からずっと、ずーっと燃えてる道標」

「……ずっと燃えてるのに、見える日と見えない日があるんですか?」

「んんー……鋭いね! さっすが!」


 聖女が楽しそうに、俺の頬をつつく。その顔は何故か、どことなく幼く見えた。


「私も小難しい事は分かんないんだけどさ、塔の機嫌次第なんだって。だから、ずっと外で探してた。とっておきを、君に見せてあげたくて」

「……どうしてです?」

「毎日毎日頑張ってるから」

「そんな事ないで——」

「頑張ってる! 頑張ってないなんて言わせない! 言わないで!! お願いだから……!」


 俺の言葉を遮って、縋るように聖女が覆い被さってくる。いつものように、埋まるくらい強く、ぎゅうっと。


「……ありがとうございます」

「そうだよ、それでいいの。君は頑張ってる。頑張ってるんだよ。この世界の誰よりも。こんなに小さな背中で、この広い世界を背負い続けてる。なのに——」


 そこで、言葉が詰まった。背中から、強く鳴る鼓動だけが聞こえてくる。


「……なんでもない。とにかく、たまには私の事も頼ってよ。最近もさ、勇者ちゃん特に悩んでる顔してた。相変わらず、何にも言ってくれないけど」

「勇者とは関係無い、自分の事ですから。皆さんにお手を煩わせるのもどうかと思って」

「やっぱりそう言うんだね。私は、私達は君が勇者だから好いてる訳じゃないんだよ。言ってくれたらいくらでも相談に乗るし、こんな風に息抜きだって教えてあげられる。そうだ! 次はお茶とかしようよ。射手ちゃんとか、司書さんとか呼んでさ」

「……はい、是非やりましょう」

「約束したからね? もし破ったら——」

「谷底?」

「その通り!」


 鋭い歯を覗かせた、輝くような笑顔がすぐ目の前にあった。


「それじゃあ、そろそろ俺は行きます。ずっと、ここにいる訳には行きませんから」

「そっか、分かった。あのさ、私……少しは君の力になれたかな?」

「はい、肩がちょっと軽くなりました。今日も頑張ってきます」

「いってらっしゃい! 勇者ちゃんの頑張りが、いつか報われますように——!」


 見送ってくれた聖女の顔を見ていると、なんだかまた悲しくなった。支えると言ってくれて、俺が好きだと言ってくれて心の底から嬉しい筈なのに、胸の奥の奥が痛い。


 やっとのことで塔に戻って、痛みに耐えきれなくなって後ろを振り返ると、縮こまって座る彼女の姿がまだ見える。


 よく甘えてくるけれど、真ん中に太い芯を通した強い人のものとは思えない、触れたら崩れて消えてしまいそうな小さく儚い背中。


 すすり泣くように吹く風に茶褐色の髪が靡いて、淡い地平の星の光が彼女に重なる。


 何も言わず、動かず、夜闇の中でただ前だけを向き続けるその姿はまさしく、祈りを捧げる聖女のようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る