第三話 迫る不穏
——八方から響く、鎧の音。背後に
風を切る強烈な長剣の振り下ろしを、腕に身体中の力を集めてなんとか止める。
「——ふむ……また強くなったか」
感心したような声を上げたのは、冬空の冷たい輝きを宿す長剣を掲げた、顔から足先に至るまで薄い灰色の鎧を纏った大柄な男の人——『
寡黙だが誰よりも誠実、その剣は大地さえ断つと讃えられる彼だが、顔の鎧を外しているのを誰も見た事が無いなど、何かと謎の多い人物でもある。
「あ、ありがとう……ございます……!」
そんな人に褒められたのだからもっと喜びたい所だが、今はそれどころではない。気を抜けば、自分の剣もろとも身体がグシャッと潰れてしまいそうだ。
「——はッ!」
呼吸と共に、剣を跳ね上げる。そしてもう一呼吸と共に、全霊で剣を突き出す。
論理は不要。全力でかかって来い——それが、この人と最初に会った時に告げられた言葉。
怪我の心配なんてしなくていい。全力くらいで超えられる程、この人は甘くない。
「なっ……!?」
剣先を掴まれたかと思うと、身体が宙に浮く。それが放り投げられたからだと分かった時には、また床が砕ける音がした。
すぐに立ち上がったものの、騎士は既に俺の首元に剣を突き付けている。
「……負けました」
「楽に話せるか。受け身は堂に入ったものだな」
「毎日落ちてますからね」
もちろん、痛くない訳ではない。いくらか加減してくれているとは言え、彼の投げ飛ばしはそこまで軽いものではない。
だがこれでも、突然の襲撃者に対応出来るくらいの余裕はある。
「——隙あり」
「ありませんよ」
飛来した七つの
襲撃者が持った栞と剣が派手な金属音を打ち鳴らし、せめぎ合ったその果てに、
「おやおや……駄文だったかね」
ピシピシと亀裂の走る栞を本に挟み直し、残念そうに笑う背筋の伸びた老年の女の人——『
彼女は後ろで束ねた真っ白な長い髪と、水晶のように透き通った水色の瞳、そしてむせ返るような煙草の匂いを漂わせた薄茶色のコートを好んで着ていて、普段は塔の中層にある図書室を管理している。
聡明で穏やか、立ち振る舞いの一つ一つに品がある麗人だが、面白そうな事に目が無く、悪戯好きという子供っぽい一面も持っている、親しみ易い人だ。
「いいえ。凄い力でしたよ」
「ふふ、勇者坊ちゃん。そりゃあ自前だよ。問題は硬度の方さね。どうやらもう少し、推敲を重ねる必要がありそうだ」
司書が指で円を描くと、地面に横たわった七つの栞が宙に浮き、本へと戻っていく。
「……それで、出不精の貴女がここに何の用か?」
少しの間を置いて騎士が問うと、司書は待っていたと言わんばかりに目を輝かせ、ニヤリとその口角を上げた。
「探偵嬢ちゃんの使いさ。何か……
——騎士の鎧が、僅かに軋む音がする。何か、何とも言えない不吉な予感がしたような気がした。
「すみません。俺も、ついて行かせて下さい」
「悪いがね、坊ちゃんは連れてくるなと——」
「お願いします」
司書が眉を顰める。無理を言っているのは分かっている。だけど譲れなかった。譲ってはいけないような気がしてならなかった。
「……はぁ。分かったよ、おいでな」
「ありがとうございます」
呆れたように息を吐いた司書と稽古場を後にする。騎士と一緒に案内されたのは、塔の中層よりやや下辺りでは珍しい、使われていない部屋の一つ。
「——さあ、ここだ。心の準備はオーケーかい?」
無理を言ってついて来た俺に向けての言葉に、深く頷く。すると司書は俺の背中を軽く叩いて、錆びた重い鉄の扉を開けた。
「……よぉ」
中に居たのは、やや真剣な面持ちで腕を組んだ鍛冶屋と、しゃがんで壁の方を向き、無言で何かを観察している女の人——『
「お望み通り連れてきたよ、探偵嬢ちゃん」
司書が告げると、少し白の混じる長い黒の髪を揺らして、ゆっくりと探偵が振り向く。
「——何故、勇者君がここに居る?」
突き刺さる、鋭い灰の視線。この人の前にいると、自分の全てを見透かされているような気分になる。
「嫌な予感がしたので、無理を言って連れて来てもらいました」
「……まるで野生だ。相対していると、つくづく思い知らされるよ。君が、真正の勇者だという事をね」
「まだまだ未熟ですよ」
「過分な謙遜を。納得するまで徹底的に説教をしてやりたいところだが……まあ、食後にでも楽しみにとっておくとしよう。さて、お集まりの諸君。まずはこれを見たまえな」
探偵が立ち上がり、横に移動すると露わになったのは、墨を垂らしたように真っ黒に染まった壁。これだけなら、誰かの悪戯として片付けられていただろう。
「……これは」
「動いてる……?」
騎士と共に、驚きの声を漏らす。壁の黒い滲みが、僅かに脈動しているのだ。
「驚いただろう? 調べたところ、どうやらこいつは生きている」
「ほう……それは確かに奇妙だね。使い魔の類か……念の為に聞くけど、経路ははっきりと分かっているのかい?」
司書が尋ねると、探偵は首を横に振った。
「全く。それどころか生態、構成要素、魔術系統、全て不明。存在も何も、見えているものが全てときた。現段階で諸君に言える事は——」
「危険なんだろ。だから、俺と騎士が呼ばれた」
鍛冶屋に説明を遮られ、探偵が実に不機嫌そうに顔を歪める。
「……そうだ、そうだよ。危険だ——」
「——ココハ」
その時だった。どこか聞き覚えのある、耳の奥を這いずるような奇妙な声がして、黒い滲みが球体状に凝縮した。
「切り捨てる」
「待て! 待つんだ騎士! 我々にも分かる言葉を喋っている! 何か分かるかもしれない!」
「ナンダカナツカシイ。ダカラ——」
そしてこの時、制止するべきでは無かった事を全員が理解する。
「ハイニナレ」
「あ?」
「鍛冶屋!!」
誰かが叫んだ。俺かもしれなかった。それもどうでも良かった。
黒く、何処までも黒く。熱く、果てしなく熱く。空気すらを飲み込んで。
ついさっきまで鍛冶屋の姿があった場所には、一縷の輝きも無い黒い炎だけがあった。
その瞬間、場に居た誰もが、戦闘は得意でないと公言している探偵ですらが、ステッキを手に臨戦体勢に入る。
——ただ、一人を除いて。
「——下がれ!」
「騎士さん……?」
塔を震わすような怒号が上がる。意外にもそれは、騎士のものだった。
「止めてくれるな騎士! これは私が招いた事態だ! 手遅れになる前に、鍛冶屋を——」
「せめて、鎮火くらいはさせて欲しいもの——」
「黙って離れろ!
あの寡黙な、そして誰より先に前に出ようとした騎士が、再び喉がはちきれんばかりの大声で全員を制止する。
彼は己の命惜しさに、自分を曲げる男ではない。ならば何が、彼をそうさせるのか。その疑問はすぐに文字通り氷解する。
「オマエタチモ——」
また奇妙な声がしたその瞬間、黒い炎が消える。内側から溢れ出した橙の炎に飲み込まれて、その存在を失っていく。
「——炎が、灰になるかよ」
聞いた事も無い、冷たい声。向けられていなくても分かる、燃え上がるような怒気。
豪快に笑い、快活に怒る。粗暴に見えて、誰より面倒見の良い姉貴分——そんないつもの彼女を焚べたような橙の炎を携えて、鍛冶屋は前に出る。
「マッテ、ヤメテ。ケサナイデ、エイエン——」
黒い滲みが、壁に潜り込もうとしている。怯えているのが、あれの全てから分かる。
「黙れ。二度と、その
視界一面が、炎で埋まる。凄まじい衝撃と熱気から俺と探偵を守ったのは、騎士の全身と司書の魔法だった。
「これは、これは……」
赤い視界の端で、司書が絶句する。
久遠にも思える刹那を経て、かつては部屋だったそこには、何処とも分からない気まぐれな夜空と鍛冶屋だけが佇んでいた。
「か、鍛冶屋さん……?」
肩越しに声をかけても、鍛冶屋は答えない。二度も声をかける気にはならず、沈黙が流れる。
「……悪ぃな、勇者。今は人と話したい気分じゃねぇんだ。騎士、後は頼む」
やがて振り向いた鍛冶屋は、それ以上は何も言わず階段を下っていった。
「あれが話に聞いていた……いや、語るべきではないな。私の判断ミスだ、騎士。すまなかった。身体は大丈夫か?」
「問題無い。塔の為にはお前の行動は最善だった。あまり気に病むな」
「……ありがとう。司書と勇者君も大丈夫そうだ。なら今から、現場の詳しい状況を整理、記録しよう。そうしたら『
——探偵の声が、遠い。すぐ隣に居るのに、何処か違う世界のものにさえ思える。
炭化した世界の中で、静かに揺らめいていた鍛冶屋の瞳が、頭を離れない。忘れられない。
まるで亡霊の声を聞いた時のような、言いようの無い寂しさが、心の内に溢れかえってどうしようもなかった。
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