やまひある猿のごときわがこころ

鶴川始

人面獣心

「ポーはすごく頭のいいオランウータンだったんです。大人しく、飼育員の言うことにも素直で協力的でもありました。だから何故こんなことをしたのか……」


 大人しい――。

 この部屋の惨状を見て、とてもそうは思えなかった。

 事件現場となった動物園の事務室バックヤードは血の海だ。

 死体は二つ。男の死体と女の死体がひとつずつ。

 男は体中を刃物で刺され、その上で首が本来の可動域を超えて180度回転し、縊り殺されている。

 女の死体は首を切断されている。男と違い、外傷はそれだけのようだった。

 二人ともこの動物園の従業員である。


 遺体の第一発見者はこの動物園の園長だった。

 今朝出勤してすぐに遺体を発見し、警察に通報。

 その後動物たちの方に被害はないのか園内を確認しているときに――血塗れになったオランウータンのポーを発見したのだという。


「――ポーなんて卦体けったいな名前なんかつけよって、縁起悪いやん」

「? 森山もりやま部長、なにが縁起悪いんです?」


 乙坂おとさか巡査は無駄に根明な調子でそう訊ねてくる。

 警察学校を出たばかりで警察ずれしていない。そのため実年齢よりも幼く見える。


「君、あんま本とか読まへんの?」

「はい、本職はあまり読書に嗜みはありません」

「そうなん? まあええけど。エドガー・アラン・ポーっちゅう海外の作家のミステリ小説でな、オランウータンが犯人の事件があんねん。だから縁起悪ゥと思うてな」

「なるほど! それではまさに今回の事件にうってつけですね」


 なにがうってつけやねん、と森山は内心で毒づく。乙坂には単語の選び方がおかしいところが多々あった。


「しかし――当初は殺人との通報でしたが、話を聞く限り事故のようですね。昨晩の当直はこの殺害された二人の従業員のみ。殺され方も人間業じゃあありませんし、その、血塗れになっていたオランウータンが犯人ということで、これは矢張り捜一捜査一課の案件じゃなさそう――」

「そうとは限らんやん。実際に二人を殺したのはオランウータンかもしれんけど、そのオランウータンがなんで二人を殺したのかがわからへんやん。誰かがそのポーっちゅうオランウータンを手引きして、二人を殺させたってこともあり得なくはないわけやろ? その場合は殺人やん。憶測で物事見たらアカンで、刑事は」


 成程! と乙坂は感心したように言った。


「確かにその可能性は否定できませんね。もしかして森山部長の仰っていたミステリ小説ではそのようなトリックが?」

「いや、ポーのミステリでもそれは逃げ出したオランウータン単独で起こした事件で、殺意を持った人間が居ったわけではないんやけどな……ていうか、話に出した俺もアレやけど、ミステリと実際の事件をゴッチャにしたらアカンで? 実際俺もホンマにオランウータン手引きした人間が居るとは普通に考えてへんし。ただまあ、業務上過失致死の可能性は高いからな」


 は、以後気を付けます! と矢鱈と元気のいい返事をする乙坂。

 本当にわかってんねやろか、と森山は内心で呆れた。


 ――改めて現場を確認する。

 事件現場の部屋の広さは十二畳ほど。部屋には出入り口と窓が一つずつ。窓からはちょうどオランウータンたちの飼育スペースが見える。

 部屋の中央に机と椅子が置かれており、その隣に男の死体が倒れている。女の方は出入り口と反対側の壁を背に、横向きに倒れている。

 部屋には二人の血液が床や壁に散っている。ただ自然に血が流れたり飛び散っただけではなく、遺体を引きずって動かしたような跡も残っていた。加えて、ここは土足で入れる室内なので、床には靴の跡とオランウータンのものと思しき足跡も幾つか残っていた。


 この部屋からオランウータンの飼育スペースまでは凡そ30メートルほど離れている。現場から飼育スペースまで血によってできた足跡が続いている。園長の話によると足跡を辿った先には血塗れになったポーが居たという。

 オランウータンの飼育スペースの人間用出入り口の扉は鍵ごと破壊されており、ポーはそこから脱出し、その後再び人間用出入り口から飼育スペースへと戻ってきたと思われる。飼育スペース内では、刺殺時に使用されたと思われる血塗れの刃物も見つかっている。


「被害者ですが、男性の方から――高村たかむら正太郎しょうたろう、二十八歳。五年前からこの動物園で働いていたそうで、復員船で日本に戻ってからすぐにここに就職したとのことです」

「今年が昭和二十六年やから……まあ、戻ってきたんは復員船のピークの頃かな」

「そして女性の方ですが――八尺やせき様子ようこ、二十五歳。こちらは二年前からこの動物園に勤務しています」


 八尺様子の遺体を検める。

 滅多めったしにされている高村の方と違って、八尺は首を切断されているだけだった。切り口はあまり綺麗ではなく、強引に切断されたように見える。


「……どうでもええけど、このホトケさん背ェ高いんやな」

「そうですね、身長は180cm以上あるらしいです。名前が八尺やせきなので、八尺様はっしゃくさまなどと渾名あだなされていたと園長が」


 ふん、と森山は不快そうに鼻を鳴らした。

 警官ずれして人相が悪くなりつつある森山であるが、実際の性格は温厚であった。荒々しい男所帯の気風きっぷの特に強い捜査一課ではそのような内面を見せることはないが、自他を問わずにそういった心ない言動のひとつひとつに悲しむたちだった。周囲の人間もそうであればいいのに、と思うには彼は現実の限界を知りすぎてはいたが。


「よく見たらえら別嬪べっぴんさんやんなぁ……猿にはそんなこと関係あらへんやろけど」

「美醜はともかく、件のオランウータンの担当は彼女だったそうです。八尺はポーを特に可愛がっており、ぽ、ぽ、と短くオランウータンの名を呼ぶ姿が印象的だったと、園長や他の従業員は証言しています。ポーの方も彼女によく懐いていたそうですが……」

「殺してんのに懐くもなんもあらへんやろ」


 部屋を見渡す。

 室内は――乱闘があればこうなるだろうな、という具合に散乱していた。壁に据えられている上着アウターを引っかけるためのフックは外れて床に落ち、手拭いだの飲食物だの、部屋の備品のようなものが粗方散らばっていた。

 そして乾いた血で床に張り付いた、オランウータンのものと思われる毛がいくつか残っていた。


「……まぁ、とりあえずこんなとこやろ。鑑識さんに入ってもろて」


 わかりました、と言って乙坂は脱兎のように出ていった。




 ポーという名のオランウータンは大人しかった。

 襲われることを危惧した従業員達がすぐに鉄製の檻にポーを閉じ込めたため、彼は今でも血塗れのままであった。


「このオランウータンは一番の古株で、戦前からこの動物園に居たそうです」

「へえ……戦時猛獣処分とかされへんかったんか」

「象とか獅子ライオンはされたみたいですけどね。あと、ここは都市部ですが穀倉地帯にも近いので、余所よりは食料に困らなかったみたいです。それでも戦時中はえらく痩せたそうですが」

「折角生き延びたんが殺人するとは無情すぎるやろ。しかも可愛がってくれた人をやで? おいエテ公、ホンマにお前が殺したんか?」


 森山の問いかけは八つ当たりに近いものだった。だからポーが彼の目を見ながら頷くような仕草をしてみせたとき、彼らは呆気にとられた。


「……言葉わかるんか?」

「そんな感じの仕草でしたけれど……」

「お前、俺らの言葉わかるんか?」


 ポーは再度頷いた。


「――なんで殺したんや? あの二人を。憎かったんか?」


 ポーは答えない。


「あの二人のどっちかに危害を加えられたりしたんか?」


 ポーは答えない。


「八尺様子のことは、好きやったんか?」


 ポーは目を閉じて――矢張り答えなかった。


「…………」

「まあ、多少頭はいいのかもしれませんが、我々は外部の人間ですからね、仕方ないですよ」

「……なんでお前、俺を慰めるみたいな口調なん? 俺が動物に嫌われやすい人間みたいになっとるやん。俺、これでも犬とか猫にめっちゃ好かれんねんで?」

「そんなことより、これ、凶器の包丁みたいですよ」


 森山の主張を無視する乙坂。

 こいつほんま可愛げないわぁ、と吐き捨てるように森山は言う。

 渡された包丁は血に染まっていた。刃渡り30cm程度の、どこにでもある普通の包丁である。事務室の流し台にあったものと思われる。

 包丁は大きく刃毀はこぼれしていてすっかりなまくらになっている。恐らく八尺の首を切断したときに、刃が骨に当たって毀れたのだろう。


「普通の包丁やけど……縊り殺せるっちゅうんになんでわざわざこないなもん使つこて殺しなんか――」


 包丁を弄くりながら眺めていた森山の手が不意に止まる。


「…………」

「森山部長、どうかされましたか?」

「――ん、まあな。ちょっと考え事しててん」

「考え事――ですか」

「うん、まあな……なあ乙坂、オランウータンってめっちゃ頭ええんよな?」

「園長の話では。特にそのポーという個体は特別頭良いらしいとのことですが」

「うーんそっかぁ……そういうこともあり得るんかなぁ……」


 何か気付いたんですか、と乙坂は訊ねる。


「ま、今のところは確証なしや。だから包丁これ、鑑識さんに渡してきて」

「――諒解しました」


 怪訝な顔こそしていたが、乙坂は素直に森山の指示に従った。

 森山は懐から煙草を取り出すと火を点けて大儀そうにそれを吸った。


「――刑事ってのは因果な商売や、ほんまに。人間っていうんは、なんというか、こう、なぁ……お前が一番人間らしいやん、ポー」


 ホンマは俺らにこそ人の心とかないんかなぁ、と森山は溢した。

 ポーは応えなかった。




 翌日になってもポーは大人しいままだった。

 与えられた餌にはまったく手をつけていないようで、表面が乾いた果物が皿に盛られて檻の中に置いてあった。


「元気なさそうですね」


 乙坂はそんな様子のポーを見てそう言った。


「ところで森山部長、どうしてまた現場に? 昨日で鑑識作業終わりじゃなかったですか?」

「ああ、結果ももう届いとるけどな。けどオランウータンを取調室に入れて事情聴取とかでけへんやん」


 は? と乙坂は奇妙な声を上げた。


「昨日調べてもろた包丁な。八尺様子の指紋が血で付いとったんや」

「はあ。乱闘にもなれば被害者の指紋も凶器に残っているのは別におかしなことでもないんじゃないでしょうか。ていうか、事務室の備品なんですから、従業員の指紋が付いていてもおかしくは――」

「いやいや、血で出来た指紋やで? つまり血にまみれてから――犯行が始まってから付いたってことや。そんで付いてた場所は包丁の柄頭つかがしらにのみや」


 持ち手側の先端の丸い平面のとこやな、と森山はハンドゼスチャを交えてわからなそうな表情をした乙坂に説明した。


「包丁の持ち手はそんなに長くあらへん。オランウータンの手やったら片手でもまるまる柄が被ってしまう。そんな状態で高村が襲われている最中に八尺の手が柄頭に触れるとは考えにくいし、ポーが凶器を捨てたあとに触れたんなら、柄にだけ八尺の指紋が付いているのは不自然や。普通に持ったらそんな指紋の残り方はせえへん」

「えっと……つまり、どういうことなんでしょうか?」


 憶測も混じっとるけどな、と森山は前置きし、


「高村正太郎を殺したのは八尺様子で、犯行後八尺様子は自殺、その後にポーが事務室にやってきて二人の遺体を損壊させた――ってところかな」


 ポーの目が僅かに細くなった。


「包丁で人をおもたら、普通は剣道で竹刀持つみたいに順手か、利き手で柄を包み込むように逆手で持つかのどっちかやろ。で、逆手で持ったら利き手の方の親指は包丁の柄頭に触れることになる。高村は体中刺されまくっとるし、返り血も飛べば、まあ包丁に刺した奴の指紋が血でべっとり付くわな。その後でポーが包丁握り込めば八尺様子の指紋は上書きされてしまう――柄頭の部分以外はな」


 森山はポーへと視線を向ける。

 昨日と違い、ポーは森山をあからさまに睨み返していた。


「んで――まあ、八尺は犯行後に自殺を試みた。多分最初はそこの上着引っかけるフックで首吊ろ思ったんやろな。紐なんか使わなくてもある程度の大きさの手拭いでもあれば首は吊れるもんや。でもそれは多分失敗したんやろな。そこのフックが八尺の体重を支えるには脆すぎたんや。八尺が縊死するまえにフックが台ごと外れてしまった。事務室のフックが壊れてんのはそのためや」


 ああ――と乙坂は事務室の様子を思い返した。

 言われてみれば――壁になにか血で擦ったような跡があったようにも見えた。

 あれは自殺を試みようとした八尺の背中に付いた血が壁に移ってできたのだろう。


「で、まあ、八尺は背が高いから座高も高いやろ。そこらへんのドアノブに引っかけて自殺するにはちょっと低すぎて自殺には向かん。多分八尺は事務所とは別の場所で自殺したんやろな」

「なにか痕跡でも見つかりました」

「いや、まだ見つかってはおらん。けど鑑識の結果によると、縊死による自殺で出る筈の尿が明らかに足りない。服には失禁した形跡があるのにな。つまり、多分首くくったんは別の場所なんや――ああ、縊死の痕跡はあったらしいで。切断面がずたずたやったから確認しづらかったそうやけど」


 ついでにいうと吉川線もなかったで、と森山は言った。

 吉川線とは、絞殺された被害者の首に見られる擦過傷の跡である。自殺など自らの意思によるものでは見られないが、他者によって絞殺される場合にはよく見られる痕跡である。


「そんで八尺が自殺したあとで、ポーは八尺の遺体をここに移動させ、二人の遺体を損壊させ、また飼育スペースに戻った――というところやろな」

「な、何が目的でそんなことを……そもそも八尺はなぜ高村を殺害したんですか?」


 不意に大きな音がした。

 ポーが檻の柵を掴んで威嚇している。まるでそれ以上喋るなとでも言うように。

 乙坂は矢庭に狼狽えたが、森山は意に介さず口を開いた。


「……家族とかには言ってなかったみたいやけどな、八尺はここ最近何度か産婦人科に通院しとったらしい」

「そ、それって」

「――誰かに手籠めにされとったらしい。陵辱した奴の食い方も荒っぽくてな、性器はかなり傷ついとったらしいで。そんで事件の三日前に来たときには妊娠もしてたみたいやし」

「それじゃあ――つまり、高村が、」

「そこらへんの真相はこれから詰めることや。兎に角、八尺はそういう状況にあった。俺らは陰惨なモンばっかり見とるから麻痺しとるところあるけどな、嫁入り前の女が陵辱されるっていうのは察するに余りあるもんや――それこそ人殺したり、自殺したりとかまで追い詰められるのもザラやしな」


 猿叫が聞こえる。

 それはまるで哭いているかのような叫び声だった。


「……ホンマに頭ええんやろな、こいつ。飼育員が油断して鍵とかそういうの甘くなるくらい従順で、人の機微とかもわかっとるんかもしれん。だからせめて八尺様子の尊厳だけでも守ろう思て、こないな偽装したんやろな」


 ポー、と森山は蓮っ葉な口調で語りかけた。


「真相はバレたで。年貢の納め時や。今ならまだお前さんは助かるで。どうする? 死んだ奴に義理立てすんのも偉いねんけどな、お前さんが頑張ったところで死んだモンは蘇らん。折角戦時中を生き延びてきたんや。ここで死んでもオモロないやろ?」


 猿は――まるで人のように泣いていた。

 檻を掴んで暴れながらも、まるで子供が駄々をこねるように。

 森山は大きく溜息を吐いた。


「――ホンマ惜しいわ。こんな出来た奴人間にもよう居らんわ。せやけど俺は人間やし。猿なんかどうなってもええんわ。死にたいんなら、それでもええやろ。折角死に損なったんなら生きてもええと思うけどな。ま、そんな出来た奴から死んでいったのが戦争や。だから俺は生き残ったんかもしれんがな」

「そ、それでは――」

――それでええやろ。その方が事件の処理も楽やしな」


 森山はひどくつまらなさそうな顔でそう言った。


「ほなな、ポー。もう会うこともないやろ」


 森山はポーに背を向けたままそう言って立ち去った。だから、最後に彼がどんな顔をしていたのかを、森山はついぞ知ることはなかった。






 一九五一年九月十九日、死者二名の人身被害の発生を理由とし、オランウータン一頭が薬物によって殺処分されたという。



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