もう一度……。

 七瀬さんの通夜の当日、俺は倉橋さんと共に会場に向かうことになっていた。

 誘ってくれた当人曰く、今の先輩は放っておくのが心配だから、だそうだ。


 優しくて頼れる後輩を持てて嬉しかったと思いながら、俺は彼女と共に過ごした部屋で礼服に着替えていた。


 七瀬さんが死んだことは、正直未だ実感はなかった。

 この部屋で一人で暮らすのも一年超と長かったし、そんな生活にも多少慣れたのかもしれない。


 だけど、これからの長い人生で、彼女が隣にいない時間が続くと思うと、少しだけ気が重かった。


 一人しんみりとしていると、部屋のチャイムが鳴り響いた。


「はーい」


 倉橋さんが来たことに気付いて、俺は急いでネクタイを結んで、部屋を出た。


「遅かったですね」


「ごめんごめん」


 取り留めもない短い会話を終わらせて、俺達は電車に乗って地元へと戻った。

 彼女の通夜は、青春時代を送った地元で執り行われることになっていた。


 一人でも多くの旧友に見送ってほしいという、生前の七瀬さんの言葉がきっかけだったそうだ。


「先輩、意外と平気そうですね」


「……そんなことないよ」


 電車の窓から山の景色を見守りながら、俺は倉橋さんに返事をした。


「キチンと、お別れは出来ましたか?」


「うん。君のおかげだよ。ありがとう」


「え、ああいや、そんな……」


 倉橋さんは照れたように頭を掻いていた。


 七瀬さんに別れ話を切り出されて、憔悴していた頃の俺を救ってくれたのは、間違いなく倉橋さんだった。

 本当に、感謝してもしきれない恩が彼女にはある。


「君こそ、七瀬さんとはキチンとお別れは出来たのかい?」


「はい。先輩のいない隙を突いて、度々会いに行っていたので」


「どうしていない間をつくんだい。一緒に行けば、彼女ももっと喜んだろうに」


「本当にそうかは、多分先輩じゃあ一生わからないと思いますよ?」


 ……そうかもしれない。


 電車が山鳴駅に辿り着いたので、俺達は電車を降りた。

 盆地であるこの町は、都心よりも肌に凍てつくような寒さをしていた。礼服の上に羽織っていたコートのポケットに手を突っ込みながら、俺は悴んだ手を温めていた。


 改札を出て、高校時代以来の駅舎を見上げて、そして、駅舎前に立てかけられた展示プレートを俺は拝んだ。


 ……もしかしたら七瀬さんは、俺に旧知を懐かしんでほしくて、地元での通夜を望んだのかもしれない。


 伝統ある母校、山鳴高校と市が提携して行う町おこし、展示プレート設置の動きは、毎年二年生が行う定番行事の一つとして、我が校に根付いた。


 今でも毎年、形骸化されることなく市の魅力的なスポットにプレートが設置されることになっているそうだ。


 そして、ここ山鳴駅に掲げられた展示プレートは、その初代二年生と市が設置したプレートだ。つまり、俺や七瀬さんの思い出が刻まれたプレートだった。


 ふらっと帰省した際に立ち寄った場所に自分のクラスが作った展示プレートがある。そんな光景、面白いと思わないかとか宣って、確か俺はクラスメイトに展示プレートの設置案を勧めたんだよな。

 それが十年経った今でもこうして残っている光景は、面白い、というよりは、嬉しい光景に俺には見えた。


 だってこれは、いなくなってしまった七瀬さんの功績の一つだから。彼女の生きた証だったから。

 そして、俺が彼女と共に生きた証明だったから。


「行きましょう先輩」


「うん。……ねえ、倉橋さん。俺の知らない七瀬さんの思い出とかないの?」


「急にどうしたんですか?」


「展示プレートを見てたらさ、ふと思ったんだ」


「ああ、そういえばこの駅のプレートは、先輩達のクラスが設置申請したプレートでしたね」


 倉橋さんは、微笑んでいた。


「えぇとですね。まあ正直、一杯ありますよ。文芸部の入部、一学年上のくせにあたしより先輩の方が遅いから」


「確かに」


 俺は苦笑した。


「でも、そうですね。……そういえば、七瀬先輩。先輩が入部する前から先輩の話ばかりしてましたよ」


「そうなんだ」


 そういえば七瀬さん。俺のことは一年の時から好きだと言ってくれていたな。


「えぇ、付き合った後からは……相談が多かったですね」


「相談?」


「はい。先輩と上手く関係を築いていくにはどうしたらいいだろうとか、色々です。七瀬先輩、凄い悩んでいましたよ。あたしは口下手だからとか、どうしたら気持ちが伝わるかな、とか。

 先輩のこと好きですけど、だからかお二人の関係が成就した時は、凄く嬉しかった」


「……そっか」


 胸が熱くなった。

 今は亡き彼女が、当時それほどまでに俺のことを思っていてくれたことが、嬉しかった。


 ……やはり、俺の人生がこうして満ちたのは、彩られたのは、豊かになったのは。


 七瀬さんのおかげなんだろう。




 だけど、そんな彼女はもういない。

 隣を振り返ってもいない。これから彼女に会うのも、彼女とお別れを告げるため。


 そんな現実が、辛い人生が、これから俺には待ち受けている。


 それが、少し辛くもある。

 だけど、彼女と生きてきた功績は、至るところに存在する。


 山鳴駅に掲げられた展示プレートのように、そんなに見えやすい形でなくても、たくさん存在するのだ。




 だって、彼女は生きてきたのだから。


 町おこしの時、俺はクラスメイトに向けて……七瀬さんに向けて言った言葉があった。


 魅力的に思わない建物なんて、ありはしない、と。


 人が絡みたてられた建物が、つまらないはずがないって。


 それと一緒なんだ。


 人だって、たくさんの人が絡み、人格を形成して心や道しるべを彩り豊かにしていく。



 

 そうして形作られた彼女の生涯が。

 彼女と共に歩んできたこれまでが。


 きっと俺の今後の道しるべになってくれる。


 彼女が、俺を助けてくれるんだ。


 彼女の言葉一つ一つ。

 彼女との思い出一つ一つ。


 全てが俺の道しるべで、軌跡なんだ。




「そういえば七瀬先輩、言ってましたよ」


 昔話を語っていた倉橋さんが、少しだけ嫌らしい笑みを浮かべていた。


「どんな話?」


「学園祭の時の話です。先輩達が二年の時でしたね」


「二年の時、か」


 確か、七瀬さんやクラスメイトと協力して、総合優勝した時の学園祭だ。


「それが……少しおかしくて。あたしはそれは可哀そうですよって言ったんですけどね」


「へえ、どんな話?」


「先輩、確かその時、ほぼ出店の実権を握っていたんですよね」


「その言い方は、なんだか悪徳政治家みたいで嫌だな。まあ、ほぼ事実だ」


「七瀬先輩、その時の先輩の姿、凄いカッコよかったって言ってましたよ」


「……そうかい」


 少しだけ、嬉しかった。


「でも、ですね?」


 笑いながら、倉橋さんは続けた。




「七瀬先輩言ったんです。

 輪の中心に立って指揮を執る先輩の姿も素敵だけど、一番カッコ良かったのは木の役をしていた時の先輩だって」





 俺は、立ち止まった。


「先輩、どうしたんですか?」


 倉橋さんの言葉が何度も脳で反芻された。


「先輩? 先輩ったら」


 反芻される度に、俺はその言葉の意味を考えさせられて。戸惑って……。わけがわからなくなっていた。


 だって……。




 学園祭で演劇をして、俺が木の役を担ったのは、タイムスリップする前の二年の学園祭だけだったのだから。






「倉橋さん、夢と現実の違いって……何かな」






 俺は、尋ねた。


 倉橋さんは、しばらく要領の得ない顔をしていたが、唐突に俺の頬を掴み、つねった。


「……痛い」


 ヒリヒリと痛む頬を他所に、俺は呟いた。


「痛いですか。ならこれは、夢ではないんでしょうね」


 倉橋さんの言葉は、俺の骨身の奥まで、深く深く浸透していった。


 呆れる倉橋さんを前に、俺は一人で涙を流していた。


「え? 先輩、そんなに痛かったですか?」


 倉橋さんの声は、もう俺の耳に届いていなかった。


 俺の頭の中にあったのは……。


『近寄らないでください。スケコマシが移ります』


 あの時。

 四度目の将来の夢を見た時、俺を押し返す鳳先生の手を痛いと思ったことだった。


 そうか。そうだったのか。


 都合四度。

 未来が変わった度に、俺は夢を見てきた。将来の……未来が変わったことを知れる夢を見てきた。


 だけど、違った。


 違う。

 

 あれは夢じゃなかったんだ。


 再び高校生の姿に戻るから。現実離れした終わりを迎えるから……。

 

 あの景色を夢だと、俺は錯覚させられてしまっただけなんだ。




 あれは……現実だったんだ。

 痛みもあり、酸いも甘いもあり、没入感とリアリティに溢れた……現実だったんだ。



 

 俺は将来の夢を見ていたのではなく、何度もタイムスリップしてその度に高校生活をやり直していただけなんだ……!




 歯止めがかかっていた歯車が回りだしたような気がした。

 溢れていく記憶が俺の理解を超えるスピードで駆け巡り、俺の脳を震わせた。




 ……今、気付いた。




 タイムスリップが始まる日のことだ。

 

 大して未来を変えれず、もう少し勉強すれば良かったと後悔したあの夜は。

 惣菜をつまみながら倉橋さんと電話したあの夜は。

 倉橋さんと綾部さんと宅飲みしたあの夜は。

 彼女達の宅飲みを一日前倒ししてもらい、鳳先生と会ったあの夜は……!


 身が縮むようなあの寒空の日は。

 冬の到来を思うあの寒空の日は。

 俺が意識を失くし高校生に戻ったあの時間は。




 彼女が……七瀬さんが逝った日時と同じだった。





 ……いつか思った。


 どうして俺に、タイムスリップが巡ってきたのか、と。

 俺は人生に不満はないが後悔はあった。出来ることなら、もう一度人生をやり直せないかとも思っていた。


 だけど、多分それは俺だけが特別抱いている感情ではない。


 この世に生きる人達は、誰もが不満と後悔を抱えて生きている。やり直しの機会があれば喜んで受け入れる人だって、たくさんいるだろう。


 俺は特別稀有な存在じゃない。

 なのに何故、俺にタイムスリップが巡ってきたんだって、ずっと疑問に思っていた。




「……君だったんだ」




 違った。

 俺がタイムスリップを望んだから、俺にタイムスリップの機会が巡ってきたんじゃない。




「全ては、君が起こしたんだ……」




 俺は、ただ巻き込まれただけだったんだ。

 彼女の……七瀬さんの、もっと生きたいと思う気持ちに……。

 人生をやり直したいと思い起きた奇跡に、巻き込まれただけだったんだ……。




 タイムスリップを巻き起こしていたのは、七瀬さんだったんだ……!





 彼女との思い出が矢継ぎ早に溢れた。彼女と共に生きた俺だからこそ、彼女とのたくさんの思い出が、全ての真相を告げていた。




『どうしてもっと時間を有効に使わなかったんだろうって。何度も何度も後悔して。

 自分の好きなように生きてみようと思ったら、途端に視界が広がった。今まで見えてこなかった物だったり、景色だったりが……突然目の前に広がったの』




 軽井沢で七瀬さんは言っていた。

 これは、タイムスリップして生きるために足掻いて、それでも運命を変えれなくて思ったことだったんだ。




『この気持ち、多分五年経っても十年経っても……三十年経っても変わらない。そう思ったんだ』




 告白後に綴ったこの台詞も、タイムスリップしている間、ずっと俺を想ってくれたから出た発言だったんだ。




『あたしね、それに優勝したいの』




 彼女が学園祭を優勝したいと言ったのは、自分が生きた証を少しでも多くこの世に残すためだったんじゃないのか?

 町おこしや数度のタイムスリップを通して、自分の生きた証を少しでも残したいと思った彼女だから願ったことだったんじゃないのか?






『もう、あたしはいらない?』






 そして、あの台詞は。


 今際の際に言ったあの台詞は……。





 あの言葉の真意を理解した俺は、もう立つ気力すら残っておらず、その場でうずくまって一人慟哭を上げた。


 小さく、もう一度人生をやり直しさせてくれ、と思った。高校生生活をやり直しさせてくれ、と思った。


 ……七瀬さんと会わせてくれ、と思った。




 だけど、俺が人生をやり直せることは……もう二度となかった。






 俺は生まれて初めて、人生に対して不満と後悔を抱いた。 

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