さようなら
病院までの道中を、俺は必死に走った。こんなに全力疾走したのは、いつ以来だろう。思い出す限りだと、高校の時体力テストをした以来だと思った。
それくらい久しぶりの全力疾走だから、肺や膝が痛くてしょうがない。
だけどこの気持ちを伝えたくて、俺は必死に走り続けた。
七瀬さんの入院する病院は、彼女の親御さんから教えてもらっていた。教えてもらってから早数日、多分行くことはないのではないかと心のどこかで思っていたが、倉橋さんのせいでそんなことなくなってしまった。
だけど、全然嫌な気持ちはなかった。
むしろ、一分一秒が、惜しかった。
電車に乗って、病院の最寄り駅で降りると、緑地公園と並走し、まもなく彼女のいる病院に辿り着いた。
院内に入ると、受付で彼女の名前を訪ねて、教えられた棟の部屋に足を運んだ。
扉をノックすると、数日聞かなかった彼女の声が、部屋の中から聞こえてきた。
その時点で、俺はもう涙が堪えられなくなっていた。
扉を開けると、俺に気付いた七瀬さんは目を丸めていた。薄青色の患者用の衣服を身に纏う彼女を見て、俺は今更彼女の体の細さに気が付かされていた。
高校時代に比べると、随分と不健康そうな体つきをしていた。
一番間近で見てきたはずなのに、今更そんなことに気付くだなんて。
再び、俺の胸中に後悔の念が浮かんだ。だけど、倉橋さんの言う通り、ここでそんなことを考えても時間の無駄だと思って、顔を引き締めてベッドに腰かける七瀬さんに近寄った。
「どうして、来たの?」
開口一番、キツイ一言を頂いた。
なんだかタイムスリップしてきた初めの日に話した時のツンとした感じを、俺は思い出していた。
「君と一緒にいたいから、じゃあいけないのかい」
「……駄目よ」
「どうして」
「見られたくないの」
七瀬さんは、しばらく葛藤して呟いた。
「これからあたし、もがくのよ。生きるために」
「うん」
「多分、凄く醜いわ。髪の毛が無くなって。これから体もドンドン細くなっていって。……醜いの。だから、そんな姿をあなたに見せたくない」
「だから、別れ話を切り出したんだ」
七瀬さんは黙って頷いた。
醜い姿を、俺に見せたくない。
確かに、俺の記憶に残る彼女は……いつだって綺麗だった。美しかった。
ツンとした七瀬さんも。
時々慌てる七瀬さんも。
楽しそうに微笑む七瀬さんも。
ふざける俺に怒りを露わにする七瀬さんも。
……いつだって綺麗で、美しかった。そんな彼女がいたから、多分俺の人生は彩られてきたんだ。
だけど……。
「髪の毛が無くなったら、醜いのかい」
「そうよ」
「体が細くなったら、醜いのかい」
「そうよ」
「……違うよ」
珍しく反抗した俺に、七瀬さんは顔を見上げた。
俺は、涙を流して微笑んでいた。本当は泣きたくなんてなかったのに、涙はどうしても止まらなかった。
「楽しそうな君も。怒っている君も。寂しそうな君も。髪の毛が無くなったって、体が細くなったって……。
君は君だ。
いつでも綺麗で美しくて、俺の大好きな、七瀬さんだよ」
震える声で、俺は続けた。
「もっと俺に、甘えてくれよ……」
いつかの思い出が蘇った。
それは、初めて彼女の家に泊まった日のことだ。
あの日の彼女は、いつにもまして甘えてきて、物静かで。
「……古田君」
今みたいに、すすり泣いていた。
「何かな」
「……甘えて、いいの?」
泣きじゃくる七瀬さんに、俺は微笑んだ。
「横川駅から軽井沢駅間を歩くとか、そういう話じゃない?」
「うん。違う」
「じゃあ、ダンスで前出て踊れとかでもないよね?」
「うん。……うん。うんっ」
俺は、彼女を抱きしめていた。
「じゃあ、断る理由なんてないじゃないか」
* * *
冬の到来を告げるような寒い日だった。
朝から凍えるような寒さで、病院に向かうために乗り込んだ地下鉄が、志村三丁目駅の直前で地上に出る頃には、白い氷の結晶が空からポツポツと降り注ぐようになっていた。
彼女が危篤に陥ったと連絡があったのは、つい一時間ほど前の出来事だった。
彼女から別れ話を切り出されて一年と少し。
お医者様から宣告された余命一年という時間を少し超えて、彼女の命の灯は消えかかっていた。
最近は、どんどん食も細くなってきていた。
何をするのも億劫だと言う彼女に合わせて、体を動かさなくていいしりとりとか、昔話をする時間が増えていた。
認めたくない気持ちはあったが、衰弱していく彼女を見ていると、終わりの時間はもうまもなくなのだろうと自覚させられていた。
だからか、俺は現実を意外と受け止められている気がした。
病院に辿り着くと、彼女のご両親は部屋の外で待機していた。
「こんにちは」
「……ああ、古田君か」
ご両親は、すっかりと憔悴なされていた。彼らの心労を思うと、浮かばれない。
「……中には?」
「大丈夫。少し疲れてね。ただ、ここにいるだけだから。会ってくれるかい?」
「はい」
微笑み会釈して、俺は部屋に入った。
心電モニターが、規則的な音で彼女の生がまだ繋がれていることを教えてくれていた。
七瀬さんは、安らかに眠っていた。
まるでもう死んでいると思うくらい、安らかに……眠っていた。
唇を噛み締めながら、七瀬さんの眠るベッドの隣にパイプ椅子を引いてきて、腰かけた。
それから、どれくらいそうしていただろう。
俺はただ、無心で七瀬さんの顔を見ていた。
彼女の顔を一生忘れないようにと、両目にしかと焼き付けた。
「おはよう」
……そろそろ帰宅ラッシュで電車がせわしなくなる頃だなと呑気に考えている頃に、ベッドから声がした。
慌ててみると、七瀬さんが目を覚ましていた。
昨日一昨日と、彼女が目覚めることはなかった。
だから、もう彼女と会話する機会はないだろうと、心の奥底で覚悟していた。
だからこの時、俺の目頭は一気に熱くなった。
「ちょっと待っててね。ご両親を呼んでくるから」
「古田君」
慌てて立ち上がると、七瀬さんは今にも消え入りそうな声で呟いた。
「何? どうかした? 何か食べたい物でもある?」
「……ありがとう」
何に対するお礼かは、彼女は言わなかった。
唐突に、彼女との思い出が脳裏を駆け巡った。
一緒にした町おこし。
倉橋さんに過保護になるよう言ったこと。
綾部さんの学校案内のパンフを押し付けられたこと。
吹奏楽部の件で一緒に鳳先生と相対したこと。
学園祭で総合優勝を目指したこと。
それ以外にもたくさんの思い出を彼女と共有してきた。タイムスリップしてから今日まで、彼女なしでの人生なんて考えることは出来なかったくらいに、俺の人生は満たされてきた。
……七瀬さんのおかげで、満たされてきたんだ。
「もう、あたしはいらない?」
七瀬さんは、微笑んだ。
消え入りそうな声の彼女に、俺は微笑んだ。涙は我慢した。彼女を不安がらせないために、我慢した。
彼女が必要ない。
そんなことあるはずがない。
俺の人生が満たされて、彩られ、豊かになってきたのは、正真正銘彼女のおかげだから。
そんな七瀬さんが必要ないだなんて、そんなことあるはずがない。
だけど、徐々に衰弱していき、その命を全うしようとする彼女に、これ以上現世にその魂を束縛をする真似は、俺には出来なかった。
「うん。ありがとう」
堪えきれず、涙がこぼれた。
七瀬さんは、満足げに微笑んでいた。
「さようなら」
別れの言葉を耳にして、再び彼女は眠りについた。
それから彼女は、外が完全に薄暗くなった頃にその尊い命を全うした。
俺との短い会話から逝くまでに、実に二度も彼女は心臓を停止させた。それでも二度も再び鼓動を刻ませて、最後の最後まで生きようと、その命の灯を燃やしていた。
そんな彼女の姿を、多分俺は二度と忘れることが出来ないだろう。
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