生真面目後輩は隙がない
掃除を手短に、されど細かい倉橋さんに乗せられて丁寧に行って、俺達は一年の教室で向かい合って座っていた。
「先輩、いいんですか?」
先に口を開いたのは、倉橋さんだった。
「何が」
「七瀬先輩、部室に待たせてるんですよね。また昨日みたいに怒られちゃいますよ?」
「おっと、そりゃあまずいな。早く部室行かなきゃ……って」
何ノリ突っ込みさせるねん。
倉橋さんは都合よく俺が動いてくれたからか、楽しそうに口元を隠して笑っていた。
「でも、心配しているのは事実ですからね? 先輩も、あんまり七瀬先輩に怒られたくないでしょ?」
「それは嫌だ」
幾つになっても、人に怒られるというのは溜まったもんじゃないものだった。まあ、特に実年齢が年下の異性に叱られるのは、結構堪えるものがある。
「ですよね。だから、早く行きましょう」
そう言って満足げに立ち上がろうとする倉橋さんに、
「いや、ちょっと待った」
俺は忘れかけていた本題を思い出して制止した。
「先輩、本当に怒られちゃいますよ?」
「それは嫌だ。だけど、君がこのままなのも嫌だよ、俺は」
頑なな俺を見て、倉橋さんは呆れながら唇を尖らせていた。
「先に言っておきますけど、あたし別に無理やり皆に掃除当番させられたわけじゃないですからね?」
「ん。だろうね。君、他人に甘いだけってわけじゃないみたいだし」
今、七瀬さんとの約束をすっぽかそうとする俺を心配する程度には、倉橋さんは良識ある人だ。ただ他人の顔色を窺って、掃除当番をやってあげるような人では決してないだろう。
「え、わかってたんですか?」
「勿論。君はなんというか、他人に甘いというよりは……そうだな。姉御肌ってのが正しいのかな」
なんというか、ただ甘いだけじゃなくて、彼女は律する必要があるとことはキチンと律する人に思えた。
それに、実際に弟がいるみたいだし。
思ったよりも、自分の考えが腑に落ちて、俺は苦笑をしていた。
「一人で笑い出さないでもらえますか?」
「ごめんごめん。なんだか自分の言葉が驚くほど腑に落ちてさ。そうだよ、倉橋さん。君は姉御肌なんだよ」
「はあ、そうですか」
倉橋さんは目を細めて曖昧に同意した。
「それで? 先輩はそんな姉御肌のあたしを捕まえて、何を話したいんですか?」
「そうだった。さっきも言ったけどさ、君はもう少し他人に甘えた方がいいぞ」
「あたし、結構甘えてると思うんですけど」
「例えば?」
「昨日だって、あたし先輩に買い物袋一人で持たせてしまいましたし」
「あれは俺が自主的にしたことだ。つまりノーカン」
倉橋さんは面倒臭いとでも言いたそうに眉をひそめた。
「倉橋さん。俺は何も、七瀬さんの勉強会が嫌で、手ごろな君に難癖付けているわけじゃないからね」
「とてもそうは思えません」
「まあ、とりあえず聞いてくれって」
即否定した倉橋さんを、俺は宥めた。
「それでだけどさ。倉橋さん、君が友達のことを慮って掃除当番を一人でやったことはわかってる。それで、君は一体彼女らにどんな対価をもらえるんだ」
「お礼の言葉はもらいました」
「言葉だけかい」
倉橋さんはムッとしたように眉をひそめた。
「先輩、あたしの友達を愚弄する気ですか?」
「そうじゃない。むしろ俺は君の友達のことより、君のことを愚弄している。君ってやつは、なんてバカなんだ」
倉橋さんは目を丸めていた。
友達を愚弄されれば怒り、自分を愚弄されれば驚く。
普通、自分がバカにされても怒るものではなかろうか。
呆れたように、俺はため息を吐いた。
「倉橋さん。君はどうして、友達に掃除をやらせなかったの」
「六月に総体があるでしょ? 大会まであと少ししかないのに、掃除に時間を取られるだなんて可哀そうじゃないですか。だから、なるべく部活に時間を割かせてあげたかったんです」
「だから、一人で掃除を?」
「はい」
「倉橋さん。君は、友達の数十分のために自分の数十分を投げ打ったわけだよね」
「そうです。そうなりますね」
「じゃあ聞くけどさ。君の数十分と友達の数十分は同価値じゃないのかい」
倉橋さんは言葉に詰まった。
「同価値に決まっている。人の時間は無限じゃない。有限だ。君でも俺でも君の友達でも、一日は二十四時間と定まっている。
君は一日の時間の中から、その貴重な数十分を他人に投げ打ったんだ」
「……はい」
「まあ、相応の対価があるなら文句はないよ。だけど、君が他人に要求したのはお礼だけ。いいや、要求はしていないのかもしれないね。ただそれならなおさら、俺は君のことをバカだと思う。
昨日からおかしいと思っていたんだよ。
つまりさ。君は、自分を見下しすぎだ」
言い終えて、落ち込んでいる倉橋さんを見て、俺は続けた。
「まあ、どうして君がそうなったのかはなんとなくわかるよ。人という生き物が自我を確立していくのは、遺伝子的なところも大きいけど、一番は生まれ育った家庭環境だ。
両親が忙しくて、君は子供の頃から弟の面倒を見たり、家事を手伝ったりをしてきたのだろう。だから、ついつい自分の価値を見誤ってしまったんだ。
だけど、これだけは忘れちゃいけない。
君が弟の面倒を見ているのも、家事を手伝うのも、衣食住や資金繰りを親に負担してもらっていることへの対価に過ぎないんだ。ふと忘れがちだけどね。
無償で自分を使わせるだなんて、勿体なさすぎるよ」
「……そうですね」
落ち込んで言葉数の減った倉橋さんを見て、語り終わって満足していた気持ちが削がれていった。
もしかして、言いすぎたでしょうか?
「だ、だから。君はもう少し人に甘えなさいと言ったわけだ。わかってくれた?」
「はい」
「今後は、もう少し人に甘えよう。せめて、払った対価分くらいは要求しないと勿体ないよ」
「はい」
「じゃ、じゃあ、七瀬さんが怖いからそろそろ行こう! そうしよう!」
「……先輩」
椅子から立ち上がった拍子に、俺は倉橋さんに呼ばれた。
倉橋さんの方を見てみると、
「お話、ありがとうございました。意外にもその通りだと思わされて、凄い驚いています」
「そりゃあ良かった」
あんまり褒められている気がしないが、とりあえず乗っておこう。
ただ、声色を聞く限り、意外にも倉橋さんはそこまで落ち込んでいなさそうで、少し安心した。
「ただ、困りました」
安心している俺を他所に、倉橋さんは呟いた。
「何が?」
「……あたし、他人にそこまでしてほしいことってないんですよね」
「はい?」
「あたし、小さい頃から基本的に一人でなんでも出来たんです。
逆上がり。お勉強。友達にも困ったこともないですし。運動もいつもクラスで一番だったし。今も困ったことも何もない。
……やっぱり、あたし他人にそこまで求めるもの、ありません」
「……はあ?」
「困りました。
あたし、他人に何を甘えればいいのでしょう?」
どうやらこの生真面目少女、一切の隙がないらしい。
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