生真面目後輩は他人に甘えない
完全下校時間にもなると、外はすっかりと真っ暗だった。部室の戸締りをしっかりして、俺達は下校のために廊下を歩いていた。
いつか七瀬さんは、俺に勉強を教えると宣った時、自分は厳しいと笑いながら言っていた。しかし、まさか本当にこんなに鬼軍曹だとは、あの当時誰が思っただろうか。
「古田君。あなたがこんなに勉強出来ないとは思わなかったわ」
その鬼軍曹から、俺は厳しいお言葉を頂戴していた。
「まあまあ、試験まではあと三週間くらいあるわけだし。やれば出来る男だよ、俺は」
「そういうことを言う人は、大抵やらない人なのよ」
ふっ。信用がないようで。
まあ、十年前の俺ならその通りだったな。
「古田先輩。よくウチに合格出来ましたね」
背後から、後輩女子こと倉橋さんにこれまた厳しいお言葉を頂戴した。
「まあまあ、これからこれからー。アハハハハ!」
最早開き直った俺は、高笑いを浮かべながら廊下を歩き続けた。
七瀬さんは呆れたようなため息を吐いていた。
月明り照らす廊下を歩いて、正面玄関に俺達は辿り着いていた。
「悪かったね、こんな時間まで」
居た堪れない胸中ではあれ、俺は今日のお礼を言わんわけにもいかないと思って、靴を履き替える七瀬さんに向かっていった。
「いい。借りは返すって決めてるもの」
「そっか」
そんな借りだなんだと思う必要ないのに。
そう言うとまた七瀬さんに怒られそうだったので、俺はただ笑った。
「送ってくよ。夜も遅いし」
「……ありがとう」
七瀬さんはぶっきらぼうにお礼を言った。
なんだか微笑ましくて、俺は笑っていた。
「そうだ。倉橋さんの家はどの辺なの? 一緒に送ってくよ」
「いいですよ。あたし、電車ですから」
「おっ、じゃあむしろ好都合だよ。俺も電車だから」
「えっ、この前場所教えてもらいましたけど、七瀬さんの家って駅とは逆ですよね」
「そうね」
「……七瀬先輩、良かったですね」
「ち、違うからっ」
七瀬さんは取り乱しながら言った。
「いいんですか。二人のお邪魔をして」
「お邪魔って。別に送ってくだけだよ?」
俺が首を傾げると、倉橋さんは目を丸めていた。
「……まあ、じゃあ、とりあえずついていきます」
そうして俺達は三人で七瀬さんの家まで行き、七瀬さんを見送ると、駅へと並んで歩いて帰った。
「すっかりと暗くなりましたね」
「そうだね。最近、日が出ているのは少しずつ伸びているのにねえ」
「お年寄りみたいなこと言うんですね、先輩」
倉橋さんは微笑んでいた。
「倉橋さん、電車はどっち方面なの?」
「甲府です。甲府駅の一つ隣の駅で降ります」
「あれ、同じじゃないか」
互いの駅が同じであると知って、俺は試しに中学校を聞くことにした。
すると、あらびっくり。俺達は同じ中学出身生徒であった。
「言われてみれば、あたし先輩中学で見たことありましたよ」
「え、そうなの?」
「はい。確か卒業式に。あたし、二年の時、通路側の座席に座ってたんです」
「それで?」
「先輩、ボロボロ泣いていましたよね」
「そうだったかな!?」
あー、それは確かに覚えている。合唱の時、隣に立っていた不良男子が泣いている姿を見て、もらい泣きをしてしまったんだった。
恥ずかしいところを見られたものだ。
「でも不思議。今日話していた感じ、あの時みたいに大泣きする人には見えないですね」
「まあね。俺は変わったからさ」
恥ずかしさを隠すように、俺は腕を組んで胸を張った。
「変わった影響で、あんなに勉強出来なくなってしまったんですか?」
倉橋さんはそんな俺の痛いところを正確に抉って見せた。
「先輩、結構面白い人ですね」
「そりゃどうも」
馬鹿にされている気がして、どうも素直には喜べなかった。
それからもそんな雑談をしながら、俺達は駅に辿り着いて、改札を通った。手前には東京方面の電車が通るホームがあり、渡り階段を渡った向こう岸のホームが、甲府方面のホームとなっていた。
俺達は改札を通って、渡り階段を昇って、向こう岸のホームに辿り着いた。
それからまたしばらく雑談して、電車はやってきた。
「そういえば、倉橋さんはどうして文芸部に?」
電車に揺られながら、俺は尋ねた。
「ウチの学校、基本的に部活強制じゃないですか。その中でも、楽そうな部活に入りました」
「なるほどね。ちなみに俺、部活に所属してないけどね」
「それ、先生に呼び出されたりするんでしょ? 折角だし、文芸部に入ったらどうですか? 七瀬先輩も喜ぶと思います」
「そうかな。むしろこってり絞られそうで、少し怖い」
「明日、七瀬先輩に伝えておきますね」
「やめてください。お願いします」
丁寧に頭を下げると、倉橋さんは笑った。
「それより、どうして楽な部活に入ろうと思ったの?」
「ウチ、両親共働きで帰りが遅いんです。それで弟の世話を見る人がいないといけないから。今はあたしが見てるんです。今日は滅多に見れないものが見れたから、つい長居しちゃいました」
エヘヘ、と倉橋さんは頭を掻いていた。
「弟さん、大丈夫なの?」
「それは大丈夫だと思います。たまにこのくらいの帰りになることもあるので。夕飯の買い物したら、すぐに帰ります」
「え、これから買い物するの?」
まもなく時刻は夜八時。
こんな時間から彼女に食材諸々の重荷を持たせることに、なんだか申し訳ないことをした気に俺は駆られていた。
「それ、俺も手伝うよ。さっさと買い物済ませて帰った方がいい」
「え、でも悪いですよ」
「いいから。誰かを頼ることも、たまには大切だよ」
そう言って倉橋さんを諭していたら、電車は俺達の最寄り駅に辿り着いた。
俺は先ほどの言葉通り、倉橋さんの買い物を手伝って、家のそばまで荷物を持ってあげて、そのまま家に帰宅した。
* * *
翌日昼休み、俺はうっかり弁当を忘れたために玄関前に訪れるパン屋のパンを購入しに行っていた。
辿り着いてみると、昼休み早々だからかパン屋の前にはたくさんの人がごった返していた。
よく見れば、我らが担任須藤先生も人波にも揉まれながらパンを購入しようと気を張っていた。
一先ず空くのを待っているか、とため息を吐きながら、俺は玄関を出て外に出た。
GWも終わり気温も上昇し始めた今日この頃。晴天の空を見ていると、腹が減って侘しくなった気持ちも晴れていく気がした。いと朝はかなり。
「先輩」
ぼんやりと外を眺めていると、背後から誰かに呼ばれた。
振り返るとそこにいたのは、昨日交友を深めたばかりの生真面目後輩、倉橋さんが立っていた。
「髪、乱れてるよ」
俺が笑いながら指摘すると、
「え、やだ。どこですか?」
倉橋さんは少しだけ恥ずかしそうにしながら髪の毛をいじっていた。
「この辺」
「あ、どうも」
俺が指さした場所をちょいちょいといじって、
「どうですか?」
倉橋さんは尋ねてきた。
「うん。直った」
「良かった」
アハハハハ。
二人して笑い合って、倉橋さんは目を細めた。
「まあ、そんな話をしに来たんじゃないんですけどね」
「ですよね」
はい。知ってた。
「どうしたの。わざわざ」
俺は言った。
「えぇと、昨日はありがとうございました」
気を取り直すと、倉橋さんは丁寧にお辞儀してきた。
「いいよ。こっちこそ、遅くまで付き合わせてごめん。先輩二人が話し込んでたら、帰りづらかったよね」
俺も一つ頭を下げると、倉橋さんは少しだけ戸惑ったようにしていた。
「そんなことないです。むしろ、昨日はあたしが帰りたくなかっただけなので。お二人のやり取りを見ているのが、少し楽しかったんです」
「つまり、俺がサンドバックにされているのが滑稽だったってことでいいかい?」
「ふふふ。そうかもしれませんね」
倉橋さんはお淑やかに微笑んだ。
彼女、こうしてじっくり顔を見ていると、七瀬さんに負けず劣らずの端正な顔立ちをしているな。
そんな女子と二人きりで話していると思うと、少しばかり緊張している元二十六歳だった。
「で、どうかした? お礼を言いたかっただけなの?」
「あ、いいえ、違います」
倉橋さんは顔の前で手を振っていた。その様子は少しだけ慌てているように見えた。
「えぇとですね。昨日、あたし結局、先輩に買い物まで付き合ってもらってしまったじゃないですか」
「俺が勝手にしたことだし、気にすることはないよ」
「そんな……。そんなの、ダメです。人にお礼を感じるくらいにお世話になったのなら、それに見合うくらいのお礼をする。
あたし、そういう風にして育ってきました」
「それはまた、素晴らしい精神性だね」
倉橋さんは首を横に振って、左手に隠し持っていたパンを二つ俺に差し出してきた。
「これ、どうぞ」
「俺に?」
「はい」
倉橋さんは頷いた。
「今日、珍しく少し寝坊しちゃって。お弁当が作れなくてですね。たまにはパンを食べようかと思ったら、先輩もパン屋に来ているのに気付いて、買いました」
俺は目を丸めていた。
「だから、髪の毛乱れてたのか」
「そ、それは忘れてください」
倉橋さんは頬を染めて俯いた。
「……いいよ、悪いって」
「いいんです。あたし用のパンは、別に買ってあるので。これはあげます」
「せめて、お金を払う」
「大丈夫です。受け取ってください」
パンを差し出す倉橋さんに、俺は無言で拒否の態度を示したが、彼女は頑なだった。
このまま受けとらずにいるのも気が引けて、俺は不承不承にパンを二つ受け取った。
「ありがとう」
「いいんです」
「……今度、お礼をするから」
彼女の言葉を借りるわけではないが、人にお礼を感じるくらいにお世話になったのなら、それに見合うくらいのお礼をする。
彼女みたいにそういう風に育てられてきたわけではないが、タイムスリップしたおかげでそういうことの重要性は胸に刻まれていた。
……そのお礼のチャンスは、意外にも早く俺に舞い降りた。
* * *
放課後に一年の教室を横切ったのは、担任である須藤先生が理科の教師であり、その理科の教材運びを手伝わされ、かつ教材を運ぶ途中に一年の教室があるからという面白みも何もない理由だった。
今日もまだ、外は部活動に勤しむ若人の声で喧騒としていた。校舎も、若人が鳴らす楽器の音で喧騒としているが、それは最早ハーモニーだった。
「悪いな、学級副委員長」
「こういう時ばっかり役職を主張しないで頂きたいですね」
「お前、部活入ってないのに追及しないでやってるんだしいいだろ」
「あざーす」
そう言われると弱い。やはり、俺も文芸部に入るべきだろうか。
そんなしょうもないことを考えて、教材を運び終わって、小姑みたいに目ざとく気になったことにはうるさい須藤先生が教室の掃除を始めたのを見送って、俺は一人廊下を歩いていた。
七瀬さんは、先に一人で文芸部室に向かっていた。
手伝うと言われたが、重い荷物を女子に持たせるのはどうにも気が引けて、すぐ行くからと先に向かってもらったのだった。
今日も、部室には倉橋さんがいるだろうか。
お昼の一件もあり、俺は彼女に何かお返しをしなければと考えていた。だから、部室にいたら何かをしてあげなければと考えていた。
結論から言うと、倉橋さんはまだ部室にはいなかった。
まだ廊下を歩いている身の俺が、どうしてそんなことを知れたかと言われれば、深い理由は一つもありはしない。
ただ俺は、見つけてしまったのだ。
教室で一人掃除する倉橋さんを。
「何やってるの?」
一年の教室に足を踏み入れて尋ねると、扉に背中を向けていた倉橋さんがびくっと体を跳ねさせた。
「あ、先輩」
倉橋さんは平然としていた。むしろ、どこか嬉しそうにも見えた。最早それが普通のことだと言っているように見えて、妙な胸騒ぎを覚えた。
「手伝うよ」
彼女が何をしていると聞いておいてなんだが、そんなことは答えられるまでもなく一目瞭然だったので、俺はロッカーから箒を取り出した。
「いいですよ。悪いです」
そう断る彼女を見て、俺は大きなため息を吐いていた。
「倉橋さん。君から見たら俺はそこまで頭が良くないし、そんなお前が偉そうなこと言うなと思うかもしれない。
だけど、これだけは言わせてくれ。
……君は、もう少し他人に甘えなさい」
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