先輩冥利とは?

 七瀬さんのマンツーマンレッスンは今日も続く。


 倉橋さんとは、あの日のいざこざ以降は至って普通な先輩後輩関係を続けていた。

 最近は俺も文芸部に入り浸る時間も長くて、結構親しい間柄になりつつあった。


 だけど、だからこそ俺は倉橋さんの先日気付いた問題点が余計に目に付くようになっていた。


「……と言うわけで、俺は倉橋さんの自分を軽んじる性格を直した方がいいと思っているんだよ」


 ある日の勉強中、集中が切れたところで俺は遂にそのことを七瀬さんに相談することにした。


「そうね。確かにあの子、日頃から真面目で、誰かさんと違って心配にならないものね」


 誰かさんって誰だろう。

 七瀬さんが俺を見る視線は、少し冷たかった。


「でも確かに、これじゃああたしが彼女と同じ部活の先輩である意味、ないものね」


「そうかもね」


「うん。わかりました。あたしもあなたの話に協力する。それで、具体的にはどうするつもりなの? 古田君」


「具体案かい?」


「うん」


「何もないよ、そんなの」


 肩を竦めて言うと、七瀬さんは目を丸めた。


「協力してほしいからあたしに相談したんじゃないの?」


「その通りだ。何も案がなくて困っているから、君に協力してほしかったんだ」


 七瀬さんはため息を吐いた。


 そんな彼女に、俺が引き出せた倉橋さんの全てを教えることにした。物欲が薄くて、基本的になんでも一人で出来る彼女のことを。


「確かに、隙がないわね」


「そうなんだよ」


「そういえば彼女、この前の体力テストで全国上位の結果を出したって言ってた。色々な部活から助っ人頼まれてるとも」


「本当に隙ないじゃないか」


「……いっそのこと、このままでもいいんじゃない? 今のところ、一人でなんでも出来るみたいだし」


「ダメだよ。今は良くても、それじゃあ将来絶対に困る」


 俺はいつかの記憶を思い出しながら続けた。


「将来仕事をするようになるとさ。絶対に……特に平社員の内なんかは自分一人ではどうにも出来ない時がやってくるんだよ。

 そういう時に、他人に甘える。頼る術を知らないと、絶対に困る。一人で抱え込んでしまって、どうにもならなくなって、最終的に困るのはきっと倉橋さんだ」


「……古田君」


 七瀬さんは目を丸めて続けた。


「まるでサラリーマンみたいね。まだ高校生の癖に」


「アハハハハ!」


 誤魔化すように笑って頭を掻いていると、七瀬さんは呆れたようにため息を吐いた。


「と、とにかくさ。倉橋さんに困ったことがあったら、助けになってあげよう。一人でどうにも出来ないことがあって、その時に誰かが手を貸してくれることがわかれば、彼女ももっと他人に対して甘えるようになるだろうからさ」


「……そうね。わかった」


 そんな感じでひと段落ついたところで、七瀬さんは部室内をキョロキョロと見回した。


「そういえば今日は、彼女遅いわね」


「そうだね。部室で二人きりって、実は結構珍しいよね」


「なっ……!」


 突如、七瀬さんは頬を染めて俺を睨んできた。どうしたというのだろう。


「どうかした?」


「……古田君は、随分と倉橋さんの肩入れをするのね」


「そうかな」


 自覚はない。

 首を傾げると、七瀬さんは不機嫌そうに俯いた。


「そうよ」


 弱弱しい声で、七瀬さんは続けた。


「だって、勉強教えてるあたしには、お礼以外の対価がない」


「……おおう」


 あれ、当初はいつかの借りを返すための勉強会って話だった気がしたのだが。


「そうだったね。ありがとう」


 なんとも言えない気持ちを抱えながら、俺は一先ずお礼を口にした。


「そんなんじゃ足りない」


 そういえば、お礼以外の対価がないと指摘されたのだった。


「あたし、結構頑張ってるんだよ?」


「……ほう」


 まあ確かに。

 出来の悪い俺のために、七瀬さんは結構苦心しながら勉強を教えてくれていた。


 思えば、当初の借りなんてすっかりと彼女は返していて、これだけ苦心しながら勉強を教えられている時点で、俺はそんな彼女に対して借りがあるくらいなのではないだろうか。


 そう思ったら、七瀬さんが膨れたことも腑に落ちて、俺は彼女に居直った。


「そうだよね。七瀬さん、何かしてほしいこと、あるかい?」


「え?」


「借り、返すよ」


 途端、七瀬さんは恥ずかしそうにしながら俯いた。

 彼女の気持ちはよくわからなかったが、一先ず反応を待つかと見つめ続けると、


「……じゃあ」


「え」


 突然、七瀬さんは俺との距離を詰めてきた。


 端正な顔立ちの女子に、部室という閉塞空間で距離を詰められるのは、少しだけ緊張を覚えさせられた。


 七瀬さんは、何も言わなかった。


 ただ黙って、最早思考が停止した俺に潤んだ瞳を近づけてきて……。




 ガラガラ

 


 扉が開く音に驚いて、小動物かのように飛び跳ねて距離を取った。


 高鳴る心臓を落ち着かせながら、扉の方を見ると、そこには倉橋さんがいた。


「遅かったね」


「あ、先輩。はい。ごめんなさい」


 倉橋さんは、快活な彼女にしては珍しく、声が暗くて、今も俯いていた。


 さっきまでの甘いような空気はどこへやら。


 いつもと様子が違う倉橋さんに、俺と七瀬さんは首を傾げ合っていた。




 ……そして、俺に電流が走った。


「さては、何かあったな?」


 七瀬さんはそう言った俺の顔を見た後、後輩のピンチを助けられると思ったのか、少しだけ嬉しそうにしていた。


「え、どうして?」


「いつものあなたらしくないもの」


 倉橋さんの疑問に、七瀬さんが答えた。


「……そう、ですか」


 倉橋さんの態度に、俺達は拍子抜けした。


「倉橋さん。いつか話したこと覚えてるかい?」


「ごめんなさい。今はあまり考え込みたくなくて」


「……そうですか」


「倉橋さん、困ったことがあったら、お互い様よ」


 挫ける俺の隣で、七瀬さんは甲斐甲斐しく倉橋さんに声をかけた。

 日頃付き合いがいい子なので、多少あしらわれるだけで結構心臓が抉られる気持ちだった。


「……でも、先輩達に迷惑をかけるわけには」


「じゃあ、その分お礼を言ってくれ」


 倉橋さんはようやく顔を上げた。


「後輩に頼られてお礼を言ってもらえる。先輩冥利に尽きるってことだよ」


 そう言って微笑むと、倉橋さんは照れくさそうに俯いた。

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