6

夕霧ゆうきりべに


 急に名前を呼ばれて、紅は弾かれたように姿勢を正した。そうしてから、我に返って辺りを見回す。


「いや、僕しかいないから」


 きょろきょろと目を走らせる紅を見て、男の子は自分の顔を指差した。心なしか、呆れ顔だ。


「なんで、名前」


 戸惑いながら口を開いて、やっと出て来たのはそんな言葉だった。

 しょうがない、同じような歳の子と話す機会が今までなかった上に、相手は異性だ。

 うんうんと一人で納得する紅を尻目に、彼は、今度こそ分かりやすく呆れ顔を浮かべる。

 初対面だというのに、全く失礼な奴である。


「名札」


 面倒くさそうに紅の胸元を指差す。彼の指の先に目を向けると、自分の名札が目に入った。


「綺麗だね、名前」

「……どうも」


 無表情のその言葉は、せめてもの社交辞令として受け取っておく。

 まあ普通に考えて、見目が悪く、明るい性格も持ち合わせていない者に何か言うとして、名前についてくらいしかないだろう。彼の判断はかなり賢明だと言える。

 いくら無味乾燥な言葉でも、何か言おうとして、紅の顔を見て言葉を詰まらせたり、笑顔を見せない紅に、分かりやすく苛立ったりしないだけ、マシなのである。


(……あれ?)


 そこまで考えて、紅は、ある疑問に辿り着いた。


(私、読み方教えたっけ)


 答えは勿論ノーなのだが、それならば、彼はどうして初対面で自分の名前を正しく読めたのだろう。

 「べに」という名前は、大抵申し訳なさそうに、あるいは興味深げに、読み方を尋ねられる。さらに不思議なのは苗字の方だ。初対面で「ゆうきり」と濁らず読んだのは、紅の知る限り、あの二人の看護師だけである。彼女等ですら、もちろんカルテか何かを事前に見ていたはずであるので、初対面だとは言い切れないかもしれない。

 偶然と言ってしまえばそれまでで、考え込むのは性に合っていないというのに、その時の紅には、そんなことが妙に引っかかった。


「おい」

「……あ」


 故に、男の子の存在を完全に忘れていたのも、仕方がないだろう。名前を読み間違えない方が悪いのだ。

 そういえばいたな、という反応に気を悪くしたのか、彼は軽く眉間に皺を寄せ、こちらを睨んだ。

 紅も負けじと睨み返す。


「何?」


 ぶっきらぼうに言って、彼を見上げた。こういう時、視点が低いのは不利である。猫は、視点が低い方が劣勢だと言うが、それは人でも同じだろう。相手の顔を見上げている、それだけで負けたような気持ちになる。

 第一印象は最悪だろうが、この際それはどうでもいい。睨まれた分は睨み返すくらいしないと、やっていられない。

 お互いピクリともしないまま、沈黙が流れる。

 数秒間の睨み合いは、男の子が、溜息をついて口を開いたことにより、あっけなく終わった。


「そこに立たれてると気が散るから。

……ベンチにでも座ってれば」


 早口で付け加えられた言葉。くい、と顎でベンチを示してみせる。


(出て行け、じゃないんだ)


 表情筋は死滅しているが、なんだかんだで、根はいいやつなのかもしれなかった。


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