5
そこにいたのは、大きなサメのぬいぐるみを抱えた、男の子だった。
風にふわふわと揺れる、真っ黒な髪。少し癖のあるそれは、緩くウェーブを描いて青白い、小さな顔を包んでいる。黒いパーカーの袖から覗く手首は、紅と同じように、不健康に細かった。
それでも、紅より少し身長が高いのに、何故だかぬいぐるみと釣り合いが取れているのが不思議だ。
伸ばされた前髪に半分ほど隠れてしまいそうな瞳が、じっと此方を眺めていた。
「……どうも」
ぼそっと呟かれて、紅は慌てて無言で頭を下げた。恐る恐る顔を上げると、ピクリともせず自分を見つめる真っ黒な瞳にぶつかる。
紅はなんだか居た堪れない気分になった。
「すぐ退きます。すみません」
そう言って、そそくさと逃げようとした紅は、一つしかない扉の前に、彼が立っていることに気がついた。
(……どうすれば)
僅かな隙間をくぐり抜けるか、いや、そんなことをしたら殺されるんじゃなかろうか。冗談抜きで、瞬きすらしていないのではないか、と思うほど、彼の光のない真っ黒な瞳が、怖かった。
こちらを見ているはずなのに、焦点が合っていない、とでも言おうか。紅を通して、さらに奥の何かを見つめているかのような。
どうすべきか分からず、固まる紅を見た彼の、形の整った唇が、小さく開いた。
「喋れるじゃん。焦った」
「……は」
独り言のように呟かれた言葉に、思わず紅は声を漏らした。
しかし、そんな彼の方では、話すことはもうないらしく、彼はシャクシャクと人工芝を踏んで、紅の横を通り過ぎ、桜の木の下に立った。抱えていたサメのぬいぐるみを、近くのベンチに置く。流れるような動きで、彼は、黒いパーカーのポケットから、同じく黒いカメラを取り出した。
ぽかんとしたままの紅を気に留めることなく、桜の下に立ってカメラを構える。パチリ、とシャッターを切る音が辺りに響いた。
慣れた手つきで撮った写真を確認すると、またレンズを桜に向ける。彼の写真に映り込もうとするかのように、風が目の前を通り過ぎていき、ふわふわと花びらが舞った。
ドアを開け、その場を去る。紅のすべきことは、きっとそれだけだった。でもそうしなかったのは、何故だったのだろう。
ふと、写真は魔法みたいだ、と言った浅倉の顔が浮かんだ。
もし写真が魔法だというのなら、カメラを構える目の前の彼は、魔法使い。右目を瞑って、黒い魔法の杖を片手に、桜に向かう彼は、一体どんな魔法を使ったのだろう。
そうだ、一瞬を切り取る魔法というのは、確かに存在するのかもしれなかった。むしろそうしないと、紅がその場を離れなかったことに説明がつかない。
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