第2章 葵色
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(ここ……?こんなところあったんだ)
紅は、厚い扉の隙間から、そよそよと湧き出してくる風に目を細めた。初めて足を踏み入れる場所特有の、冒険へ出る前のようなワクワク感が、胸をそっと押す。
ふっと小さく息を吐いて、紅は、キラリと銀に光るドアノブに、手を伸ばした。
遡ること、今から約10分前。紅の担当看護師のクール担当こと、浅倉汐里は、桜が見えるところを言え、と、親友兼同期の由美に強要されていた。自分が言い出した話だというのに、優柔不断な由美は、全く決められなかったらしい。
話を丸投げされたクール担当、浅倉は、桜ぐらいどこでもいいでしょ、と小さく悪態をついていた。これに関しては、本当にその通りだ。桜くらい、適当な場所を言えばいい。でも、それができないのが、この癒し系看護師なのである。
それを分かっているからか、それとも、なんだかんだで優しいからか、浅倉は溜息混じりに、ある場所を教えてくれた。
それは、紅の病室を左に出て、さらに左に曲がったところの突き当たり。病室の右手にあるナースステーションとは正反対の方だから、紅が足を踏み入れたことがなかったのは、当たり前だろう。
ピンク色の扉を二十数え終わった時、目の前に現れたのは、白い扉だった。ピンク色が続いた奥に、たった一つだけある白い扉は、それでも不思議と独りぼっちには見えず、毅然とした感じがして、何というか、そう、孤高、といった言葉がぴったりだった。
キイ、と小さく音を吐くドアノブを回して、白い扉を体で押すと、待っていましたとでもいうように、三月のすっきりした風が、勢いよく頬を撫でて通り過ぎて行った。
一歩踏み出すと、足元で、もう五年の付き合いになる真っ白い運動靴が、ツヤツヤした人工芝を踏む。
紅が一歩踏み出すごとに、シャク、シャクと鳴る音が、何だか人工芝の悲鳴のように聞こえた。
ふらふらと歩いて行くと、ふいに、ひらり、と目の前を、小さな薄桃色の花弁が一つ、横切った。二つ、三つと、追うように花弁が後ろへと流れて行く。
風に押し負けて、頬に張り付いてくる髪を無造作に横に払うと、紅は上を見上げた。
(わ、本当に咲いてる)
空の色を塗り替えるが如く、いっぱいに枝を伸ばす桜の枝に、これでもかと掴まる桜の花。
いくつもの花が集まり、くす玉のようになった花の塊が、ぽこぽこと連なっているのを見ると、一人でに笑みが溢れた。
(なんか、春が来たって感じがするな)
病院内生活だからといって、紅が季節に疎いわけではない。
それは、毎日日付を確認される、というのも理由の一つではあるが、二人の看護師のおかげでもある。
由美は季節に応じた食べ物の話が好き、というかむしろその話しかしないし、浅倉の定期券に入っている写真は季節そのものだ。
まあそういうわけで、もう春が来たというのは、もちろん知っていた。しかしそれでも、直接蕾混じりの桜を見ると、春が来たなあと思う。
(凄いな、桜って)
紅は、労うように、そっと幹に触れた。そしてそのまま、目を閉じようとした、その時。
紅の耳が、かろうじて小さな音を拾った。
シャク……
辺りが騒々しければ、間違いなく聞き落としてしまうほどの、小さな小さな人工芝の悲鳴。
慌てて振り向いた紅は、びくりと体を震わせた。
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