第3話

ふたりは店員に店の奥にある小部屋へと案内された。店員の興味深げな目が熱心に私たちの背中を見送った。部屋の中では、豊かな赤い髭を蓄えた目つきの悪い長身の男が苛々と足を揺すりながら椅子に座って待っていた。

「俺がベック・バーンズビルだ。あんたがギドか? それで後ろにいるのは……」

 そう言いかけて落ち着かなさ気に視線を揺らし、店員に目を留めると乱暴に手を振って下がらせた。ギドは扉が閉まり足音が遠ざかるのを待ってから、私の方を向いて男を紹介した。

「フィル、彼はこの店のオーナーの一人、ベック・バーンズビルです。貴女の味方である私たちの仲間の一員で——また詳しく説明しますが——貴女を救出後、警護兼案内役として貴女を安全に匿える人物のところまで一緒に行ってもらう手筈になっていました。そして」

「なあ、ギド、俺は——」

「そして」

 ギドは男の言葉を無視し、そちらへ冷たい視線を向けた。

「わきまえろ、バーンズビル。この国を導く者、御神の代弁者、フロリア様の御前だ」

 ギドは私の耳元で素早く囁いた。

「フィル、フードを」

 不安げに視線を合わせる私に、彼は頷いて合図をする。

「私達の三人しかおりませんから。大丈夫です」

 私は言われた通りフードに手を伸ばし、そっと下ろした。前髪にランプの灯がちらちらと反射して、落ち着かない気がした。

 バーンズビルは、はっとした表情をして椅子から立ち上がり、跪いた。私は突然の彼の恭しい態度に驚き、思わず僅かに身を引いた。公の場に出ることのない存在である私には、民衆の信仰というものに直接触れるのは、考えてみればこの時が初めてだった。それから彼はもごもごと口の中で非礼を詫びると、暖炉の前にある椅子を私に勧めた。

「もういい、本題に入ろう」

 ギドは椅子には座らずに、バーンズビルの不躾な視線から守るように、フードを被り直し椅子に座った私の横に立った。バーンズビルがまた椅子に戻るのを待ち、ギドは口を開いた。

「あなたがあの日指定の場所に来なかったせいで、あなたを探すのに余計な時間を使った、バーンズビル。どういう訳か聞かせてもらおう」

「いや、それは悪かったと思っている。本当は行くつもりだったんだ、そういう約束だったからな。実際近くまで行ったんだが……」

 彼は弁解がましい口調で言った。訴えるような目を向けられ私は思わず首を竦めたが、ギドが素早く口を挟みそれを遮った。

「一刻の猶予もないんだ、あなたと一晩中話しているつもりはない」

 バーンズビルは一瞬ムッとしたような顔をしたが、ぶっきらぼうに返事した。

「近くまで行ったんだが、見つかる危険があって帰るしかなかった。それ以外どうしようもなかったんだ」

「危険は承知の上だったはずだ」

「最善は尽くしたんだ。俺には守るべき店がある」

 そう言って彼はまた窺うような視線を私に向けた。流石に正直にわが身可愛さにとは言えず言い訳するように店のことを持ち出したのを察してか、ギドは

「……別にお前の店じゃないだろう。店とフロリア様を比べるつもりか?」

「俺たちの、店だ。兄と、俺の」

「——わかった。そういえば最近支店を出したそうだな。経営も順調でめでたいことだが、問題はこれからどうするか、だ」

ギドは、埒が明かない、というように溜息を吐いた。

「今日街で宮院の衛兵を見かけた。まだ大きな動きは見られないが、さすがに宮院も焦り始めている。今夜中に街を出たい」

「なっ」

 バーンズビルは目に見えて慌てた様子で、

「今夜中か?」

「ああ」

「フロリア様もお疲れだろうし、今夜は収穫祭だ。今夜は準備を整えてゆっくり休まれたらいいのでは……」

「その気遣いは必要ない。それに夜に紛れたほうが街を出やすい」

 今夜出立するとはずいぶん急なことだ。だが旅程を決めるのはギドだったし、私も疲れてはいない。異論はなかった。

「しかし……」

「問題ないと言っている。それともなにか、本来の作戦日から一週間も経っているのにお前の準備は出来てないのか?」

「いや、そんなことはないが」

「なあ、バーンズビル」

 ギドがゆっくりと言った。

「私は、今、どうしてお前がこの大事な作戦の一部を担うことになったのか、非常に疑問に思っている」

 黙り込んだバーンズビルに、ギドはなおも冷たい視線を向けていた。

「これ以上失望させるな。……話を戻そう」

 ギドは胸元から畳んだ地図を取り出し、机に広げて置いた。平らにならそうと紙上を滑る掌の下から、この国とそれを囲む山脈が現われる。

「連絡はついているな? 〈ザイク・ガーディア〉……あの男の居場所を示せ」

 〈ザイク・ガーディア〉——片腕の火竜。その名を聞いたとき、頭の片隅で何かが燻ぶった。聞いたことがある、のかもしれない。私はもどかしい気持ちをそっと押さえた。

 バーンズビルが椅子から身を乗り出し、地図の一点を指差した。

「この街からずっと北に行く。ひとまずアーレイ山脈の麓にある村を中継し、そこでまた接触を図るとのことだ」

「北、か……。ガッシュの辺りまでは俺も行ったことがある。そこからアーレイ山脈は……」

「ガッシュから先はそれこそ麓の村まで本当に何もない、荒涼とした土地を抜けていくことになるな」

「なるほど……、よし分かった。バーンズビル、今すぐ出立の準備を整えろ。遅れを巻き返さなければいけないのだから」

「すぐ、というのは……」

 不満気なバーンズビルだったがギドの視線に口篭もった。ギドはさらに話を進める。

「そうだ、失念していた。まず路銀を渡してもらおう」

「路銀⁉」

「そうだ、お前が集金する手筈だっただろう。有志からの寄付金もお前が受け取って、かなりの額を保管していると聞いている。まず確認したい」

「そ、それは」

 と、その時扉を三回ノックする音が聞こえた。バーンズビルは許可を求めるようにギドに視線を送り、彼が頷くのを見て扉に向かって短く命じた。

「入れ」

 扉を開けて現れた先と同じ店員は恭しく頭を下げてから室内に歩み入り、バーンズビルに何か耳打ちをした。それを聞いたバーンズビルは一瞬驚いた表情になり、何か思案するようにちらりとギドに視線を向け、私を見てまたギドを見た。それから店員に素早く耳打ちすると、こちらに向きなおって言った。

「申し訳ないが、客人が来たようだ。どうしても今すぐ対応しないといけないようなんでな。その間にお前さんの言ったものを用意させる。それから出立について話そう」

 ギドは仕方なさそうに肩を竦めた。

「手短に済ませてこい」

 バーンズビルは失礼、と言って私の横を過ぎ部屋を出た。二人が出て行ってしまうと、部屋はしんとして暖炉の火の爆ぜる音だけがした。やがてギドが口を開いた。

 

「……こんな話に付き合わせてしまって申し訳ありません、フィル。しかし最初に貴女に会って頂く必要があると思ったので」

ギドの口調は穏やかなものに戻ったが、表情にはどこか険しさと疲れが見えた。ギドが私以外の誰か知り合いと話しているところを見るのは初めてだったので、何だか不思議な気持ちで聞いていたが、これも私を逃がす為なのだ。そう考えれば謝られるようなことではないが、何故彼が私を助けなければいけないのかということが理解できない私には自分のとるべき行動が見当もつかなかった。また言葉で彼を労わることもできず、私はただ黙って聞いていた。

「バーンズビルは店を始める前まで行商人の用心棒を生業にしていて地の利もあるということで、護衛役としても案内役としても適任ではあるのです。彼の協力があった方が安全に早くザイクの元まで辿り着けると——」

 扉をノックする音が響き、ギドはさっとそちらを振り向いた。

「なんだ」

「失礼いたします。旦那様に申し付けられたものをお持ちいたしました」

「……あぁ、入れ」

 ギドは店員が持ってきた、重たげに膨れた革袋の口を緩めた。部屋を去り際に私達に向けられた店員の目が、首をもたげた蛇のように熱っぽく湿っていた。

 革袋の中には数種類の硬貨や貴金属が混ざって入っている。ギドはその中からいくつかの指輪やブローチを選び出した。

「これは」小袋に入れたそれらを私に差し出す。「貴女が身に着けて持っていてください。分散させた方がリスクが小さいので」

 私は恐る恐る手を伸ばして受けとった。どうしようか少し悩み、ローブの下に着た服の胸元に仕舞い、ブローチのピンで慎重に留めた。鋭い目で硬貨を計っていた彼は、突然動きを止めて眉をひそめた。

「なぜこれが……」怪訝そうな声に、私は何かあったのかと彼の手元をつい覗き込んだ。「どういうことだ?」その指に、一枚のコインを挟んで持っていた。

 ギドは私に気付き、説明するように言った。

「この国で通貨として使われているコインには、天穹塔とフロリアの花があしらわれたデザインが使われています。でもこれは……」ギドが二枚のコインを比べるように並べる。確かに片方は彼が言う通りのデザインだった。しかしもう一枚には女性の横顔とフロリアの花が、そして裏には月霞宮院が、刻まれている。それをギドは指差して続けた。

「これは、新たに生まれたフロリアが塔に登られるたびに作られるものです。ただの貨幣ではなく記念硬貨で、贈られることは非常な名誉になります。それにこれは、月霞宮院の人間——それも中枢の、ごく限られた人間にしか贈られないものです。そう流通するような代物ではありません」

 ギドは徐々に私に説明するというよりは自分に問いかけるような口ぶりになっていった。

「単純に考えれば宮院内に出資者がいるということになりますが……私にはそういう情報は入っていない。誰が何の目的で? こんなものを混ぜるなんて、自分が裏切ってると声高に言って回るようなものです。単なる不注意とするには不自然すぎる。でもわざとなら意図が分からない。そうなると——」

 ギドはそこで言葉を切ると、扉を細く開け外の様子を窺った。目に鋭い光が宿る。

「食堂が静かすぎる……」

 そう呟いて素早く身を翻し、机の上に広げた地図や硬貨を集めてバックパックに仕舞った。腰元の短剣を確かめる動作に尋常ではないものを感じ、私は不安になって立ち上がった。それに気がついたギドが私の前に立つ。

「フィル」私を安心させようとしてその声色は穏やかだったが、警戒に張り詰めた気配が全身を覆っていた。「心配はないですが、最悪の事態を想定して動きます。走れますね?」

 私は顔が強張って、かすかにしか頷くことしかできなかった。鼓動が早まる。知らず、肩に掛けた鞄の紐を硬く握りしめていた。

 ギドを先導に部屋を出、短い廊下に立つ。右手の向こうは先程までは多くの客で賑わっていた食堂だが、今は会話や食事の物音は聞こえるものの、鷹の目を気にする兎の巣穴のようにそれらのひとつひとつが密やかに行われているようだった。左に曲がり、足を忍ばせて廊下を進む。先は厨房に繋がっているようだ。

「人が来ます」

 ギドが囁いて素早く私を階段の下に引っ張り込んだ。木箱の後ろに蹲るようにして身を潜め、廊下の様子を窺う。埃っぽい匂いが鼻を衝いた。隠れた直後に扉の開く音がした。足音は厨房の方から近づいてくる。庇うように回されたギドの腕から僅かに首を上げてみると、目の前を通り過ぎるウェイターの黒いスラックスの足が見えた。ウェイターは足元の私たちには気がつかない。完全に食堂の方へ立ち去るのを見てほっとしたが、今度は食堂の方から再び人が来る気配がした。バーンズビルが二人の兵士と連れだって先程話をしていた部屋の扉に向かう姿があった。その兵士が身に着けている紋章は、宮院のものだった。私を探しに来た宮院の衛兵だと気付き、大きく息を呑んだ。その音さえも聞こえてしまいそうで慌てて手で口を塞ぐ。部屋に入れば、そこがもぬけの殻であることは一目瞭然だろう。

 案の定部屋からはバーンズビルが戸惑い怒鳴る声が聞こえた。

「いない⁉ どこに行ったんだ、まさかもう気付いて逃げたのか?」

「お前、俺達を謀ったんじゃないだろうな」

 こちらは衛兵の声だろう。バーンズビルが慌てて云い訳をする声がする。

「いえっ、決してそんなことは! 逃げたに違いありません、まだ遠くへは行っていないはずなんです。くそっ、どこに隠れている⁉」

 足音も荒く厨房へ行ったバーンズビルが厨房のスタッフたちに男女の二人連れを見なかったかと怒鳴る声が聞こえた。衛兵が油断なく辺りに目を配る、その視線がこちらを見た気がして咄嗟に顔を伏せた。戻ってきたバーンズビルと共に二階を見に行くことにしたようだ。階段を上る三人分の足音が、すぐ頭の上で響いた。心臓が今にも肋骨を破って飛び出してきてしまいそうだ。私を抱くギドの腕に力のこもるのを感じた。息を殺しながら一歩一歩足音が遠ざかるのを待つ。

三人が上り切るのを待ち、階段の下から廊下に出た。

「表はもう衛兵が詰めているでしょうから、裏口から出ます。もう囲まれている可能性もありますが……」ギドは言葉を切り、私を真っ直ぐに見て素早く囁いた。「私から決して離れないでください。貴女に危害は加えさせません——さあ、こちらへ」

 厨房に繋がる扉を開け、中に滑り込む。給仕や料理人たちの驚いた顔が一斉に向けられる。

「お客様、失礼ですがこちらは厨房ですのでお立ち入りはご遠慮願います。もし何か御用がおありでしたらお伺い致しますので——」

 焦る給仕の声を無視し足早に厨房の中を進む。

「ちょっと、お客さん」

 体格の良い料理人の男がギドの腕を掴もうと手を伸ばした。ギドはそれを振り払うと逆に掴み、流れるような動きで背中に捻り上げる。体勢を崩した男が勢いよく作業台にぶつかり、載っていた皿や調理器具が派手な音を立てた。

「何の騒ぎだ!」

 後ろから衛兵の鋭い声が飛んでくる。ギドが小さく舌打ちをし、私の手を引いて走り出した。料理の乗った皿を持った給仕が慌てて避ける。衛兵がこっちだ、と仲間を呼ぶ声に追い立てられるようにして、扉を蹴破らんばかりの勢いで裏口を開け路地に飛び出た。

「待て!」

 ギドは振り向くと脇に置かれていた塵箱を蹴倒した。塵箱が転がり、金属と石畳がぶつかるけたたましい音が細い路地に響いた。生ごみの異臭が辺りに漂う。鮮やかな色彩の服を着た女が悲鳴を上げた。周囲にいた人々も突然の逃走劇に驚いて好奇の目を向けた。ギドは人混みで撒く算段なのか、人であふれた表通りに飛び込んだ。

 ぶつかるのも構わず道を走る私たちに、祭りを楽しんでいた人々が迷惑気な顔を向け、悪態を吐く者もいたが、後から来る衛兵に驚き飛び退って道をあけた。衛兵たちも無関係な市民の中では剣を振るうことは出来ず、走り追いかけることしかできない。鎧を着た格好では人混みを掻き分け前に進むこともままならないようだが、しかし確実に人数を増やしながら追ってきている。

 前方からも近づいてくる衛兵の姿を見つけ、ギドは横の路地に飛び込んだ。バーンズビルの店があった路地よりもさらに細い、建物と建物の隙間のような道だ。祭りの喧騒や衛兵たちの私たちを見失ったと探す声が遠ざかったところでギドはようやく足を止めた。私は走り続けたために切れた息を整えようとぜいぜいと喘いだ。何年も塔に籠っていたせいか体力がすっかり落ちている。

「大丈夫ですか、フィル」

 周囲の気配を探っていたギドが言った。私は肩で息をしながら頷く。

「街中にはもう衛兵たちが張っているでしょう。貸馬屋に行くのも危険ですから、運河に向かいます。この辺りは街の境に近くて入り組んでいるので、流石に衛兵も全ての道を見張ることは出来ないでしょう。河を下って街を抜け、北のガッシュというところを目指します。その方が陸を行くよりも速い。慎重に進むので、離れずについてきてください」

 暗い路地に響く私たちの足音がやけに大きく聞こえた。私は今にも背後に衛兵が現われるのではと不安で、ひっきりなしに後ろを振り返りながら歩いた。影が牙をむいて襲い掛かってくるのではないかと在りもしないことまで考えてしまう。風までが私たちの居場所を告げて回っているような気がした。

 路地は先に進むほど分かれ道が増え、複雑に入り組んでいった。表の華やかさとは打って変わって通りは陰鬱な影に満ち、静かで、薄汚れている。家も狭苦しい部屋部屋が雑多に詰め込まれたような、安普請な建物ばかり目についた。何かが腐ったような、汚物の饐えたような臭いが鼻を衝く。年に一度国中の市民が参加して熱狂と悦楽を共有する収穫祭ですら、拒絶するような淀んだ空気が漂っていた。さらに進むと、道端に座り込む人の姿を所々見るようになった。皆一様に襤褸を纏い、痩せこけて、時折底のない沼のような目で道を通り過ぎる私たちを追う時だけ顔を上げた。中にはそれすらせず、生きているのか死んでいるのか地面に横たわっている者もいた。足や腕のない者の姿もあった。

 歩いてきた路地よりも太い道が交わるところで、ギドが様子を見てきます、と言って先に走っていった。取り残された私はその場で衛兵が迫ってきてはいないかと辺りを見回した。彼の姿が無いと、途端に心細い。どこまで見に行ったのだろう、と思い足を踏み出した私は、何かに引っ張られてつんのめりそうになり、慌てて後ろを振り返って見ると、小さな子供が私のローブの裾をしっかりと握っていた。

「おめぐみを」

 子供は、まだ幼い高い声でそう言った。冬がやってこようというのに裸足のままで、骨と皮ばかりの身体は垢で汚れていた。突然のことに驚いてただその姿を凝視する私の顔を見つめ返し、子供は繰り返した。

「たべるものを、おくさま、どうぞおめぐみを」

 私は、思わず一歩後退ろうとした。しかし、決して離すまいという意志の成せる業か、子供は折れてしまいそうなほど細い手のどこにそんな力があるのかと思わせる強さで、ローブを掴んでいた。憐れみを乞うような言葉とは裏腹に、頬の削げた顔の中で瞳だけがやけに大きく、爛々と光っていた。

「どうぞ、おくさま」

「その手を離せ」

 横からギドの声がした。ほっとして振り向いたが、その姿を見た途端に再び体が凍り付いたようになった。ギドはその手に銃を構え、真っ直ぐに子供に突き付けていた。

「聞こえないのか? その手を離せ」

 その声はたった今起こされたばかりの撃鉄と同じように冷たく、非情だった。銃口は何の躊躇いもなく、僅かも揺らがずに幼い額に向けられている。ギドはこの子を撃つつもりだ、そう気づいた私は、はっとして咄嗟にその銃口を逸らすように手を前に出していた。何故だかわからないが、駄目だと思ったのだ。ギドに、そんなことをさせてはいけない、と。思わぬ反撃にギドは戸惑ったような目で私を見た。子供はぎゅっと口を結び、ギドを見た。それから掴んでいたローブを離すと、二、三歩ゆっくり後退り、ぱっと背を向けてどこかに走り去っていった。

 未だ呆然としたまま銃口を押さえていた私の手を振り払うようにしてギドは銃をコートの下に仕舞い、咎めるような口調で言った。

「ただの脅しです、撃つつもりはありませんでした——銃の前に手を出すなど、そのような危ないことは二度としないでください。いいですね?」

 沈黙が二人の間に降りた。私はどんな顔でギドを見ればいいのかわからなかった。子供の去った方に目を向けたが、どこにも姿はなかった。もう一度見つけたところで、何ができるわけでもなかった。

「——彼らに、構っている暇はありません。さあ行きましょう」

 進み続けるとやがて建物はまばらになり、林の中に入っていた。茂みを下っていくと、水の流れる音が近くなる。私たちは運河沿いを下流に向かって進んでいた。街と街を区切るように流れるルーエル運河は、国を縦断するディアテア河と合流して北東の方向に進み、やがて河口近くで隣国の領地内に打ち込まれた釘のように喰い込んで東の大洋に流れ出る。

 木立の隙間を通して右手に黒々とした水面が横たわっている。しばらく行くと、一間ほど先に質素な船着き場が浮き上がって見えた。

「あそこに——」

 ギドが言いかけた時、突如茂みの向こうで草を掻き分けるような音と馬の軽いいななきが聞こえた。ギドが素早く私を茂みの影に引っ張り込む。見ると、闇の中に二頭の馬と騎乗の兵士の影があった。衛兵の会話が風に乗ってはっきりと私たちの耳に届く。

「今、人がいた気がしたんだが……」

「気のせいじゃないのか? 狐とか。大体こんな暗闇の中で探したって何も見えるわけがない」

「そうか? でも一応少し見てみるよ」

「じゃあ気が済むまで見てこい。俺は先に向こうを探している奴らと合流するぞ」

「あぁ、軽く回るだけだ。すぐ終わるよ」

「まったく男女二人連れの旅人なんて掃いて捨てるほどいんだろうよ。名前も顔もわからねぇし。宮院に追われるなんて何をしたんだか」

 宮院は下の兵士まで情報を出してはいないようだ。一人は馬の首を後ろに回し、去っていったが、もう一人の方は周辺を見て回り始める。蹄が下草を踏む足音が一歩一歩近づいてきた。このままだと見つかってしまう。もうすぐ傍まで来ていた。

 隣を見ると、ギドは地面から拳大の石を取り上げていた。それを後ろに振りかぶり、狙いをつけて投げた。鋭い投石が馬の顔の横に抉るように命中する。馬が弓なりに体を反らせ、嘶いた。

「な、なんだ⁉」

 衛兵が馬上で振り回され、落とされまいとして手綱にしがみついた。

「走って! フィル、舫い綱を!」

 私は必死に桟橋を走り、ボートを繋ぐ綱をボラードから解き始めた。手が震えてうまく解けない。焦れば焦るほど時間がかかった。

「くっそ、いたぞ! こっちだ!」

 ようやく解き終わり、綱を船の中に投げ込んでギドの方を振り返った。ギドは銃を構えながら後ろに下がり、私の方に駆け寄って言った。

「さあ、乗って」

 小舟は頼りなく揺れ、バランスを崩しそうになる。何とか乗り込んだのを見て、ギドは船を押した。ボートがゆっくりと河に滑り出していく。私はひゅっと息を呑んだ。ギドがまだ乗っていない。

「こっちだ、早く!」

 衛兵が怒鳴った。私は思わず船縁から手を伸ばした。私たちを見つけた衛兵が、何とか馬をなだめこちらを向く。乾いた銃声が林に響いた。ギドの銃だ。休んでいた鳥たちが驚いて一斉に飛び立った。落ち着いていた馬が再び興奮し、前足を大きく跳ねさせる。銃弾は木に阻まれ衛兵に当たりはしなかったが、馬の暴れる勢いで地面に振り落とされた。他の衛兵たちが集まり始めていた。

「大丈夫ですから下がって、フィル。危ないので」

 ギドが銃をホルスターに仕舞い、桟橋の上をこちらに向かって走り始めた。私が慌てて身を引くと同時にギドは桟橋が終わるギリギリで床版を蹴り、飛んだ。黒いコートが翻り、編上げ靴が舟底を踏む。ボートが大きく揺れ、咄嗟に両手で船縁を掴んだ。ギドは舟に腰を落ち着けると、手早い動作で櫂を手に取り、漕ぎ始めた。桟橋に取り残された衛兵の悪態が川面を渡って響いた。

 岸がどんどん遠ざかっていく。向こう岸も見えないほど広大な運河の真ん中を小さい小舟に揺られていくのは、宇宙の星々の間を行く当てもなく彷徨っていくようだった。真っ黒な水面が櫂の動きに合わせて波立つ。河の両側に沿って並ぶ明かりは、今やほんの数時間前まで私たちが中にいたことが不思議なほど遠く、手の届かないものだった。私たちの浮かぶ河と街灯を隔てるようにして、深い闇が横たわっていた。それは私たちの正体を知りながらすべてを呑みこまんとして機を窺い、息を潜めて待っていた。後ろを振り仰ぐと、その闇の向こうに欠けた月を映して白々と聳える天穹塔が、舟の行方をいつまでも見送っていた。

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幽霊少女と天穹塔 細胞国家君主 @cyto-Mon

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