第2話

 この国がまだ生まれたばかり、人々は細々と畑を耕しながら身を寄せ合うようにして暮らしていた頃の事、危機の時代が訪れた。干魃による飢饉が国土を覆い、ようやく降った雨は洪水となり全てを押し流して、衰弱した民衆を疫病が襲う。国は刻々と崩壊に向かいつつあった。

 そのとき神が地上に降りられ、宣うた。「この国で最も純に聡明で信心深い者に、天の意を地上へと伝える役目を授けよう。其の口から紡がれる言葉は全て私の言葉と心得るがよい」と。そして選ばれたのはほんの齢五つの少女。他の誰も持たない透明な陽の光と同じ白金の髪を持つ、フロリアという名の幼い子供だった。彼女の言うこと全てが実際になった。彼女の言葉に従う者は、疫病に効く薬を発見し、食料を貯蔵できる環境を整え、災害が発生する前に避難した。その噂が広まってゆくと増々多くの者が集い、国は彼女の下で一つになっていった。

 フロリアは神の声がよく聞こえるようにと家族の者に塔を造らせ、そこに籠った——天穹塔に。家族はさらに塔の足元に月霞宮院を建て、彼女の言葉を民衆に伝える役目を負った国の指導者となる。 

 そして預言者が生まれて十一年が経った日のこと。国が危機を脱し平穏を取り戻したのを見て、フロリアは塔を出た。

「私の役目は終わった。これからは主の御許で恩を返すよう務めよう。しかし安心せよ、この国を見捨て去るわけではない。再び危機に陥らぬよう、見守り導くために私は帰るだろう。それまで暫し別れを告げる。愛すべき故郷、このうるわしき地に祝福を」

 そう言い遺して彼女は自ら天へ旅立った。その血が流れた跡に月光を吸い込んだような色の花が咲いた。フロリアが生を受けてから、ちょうど十六年を迎えた日のことであった。

 これが、誰もが習う建国神話だ。そしてここからは歴史になる。

 この国はずっと、月霞宮院——フロリアの親族の系譜に連なるとする者たち——が統治している。預言者の言葉を伝えるため、あるいは預言者が塔にいない空白の期間に、同じだけの聡明さと信仰心をもって、彼女が帰るまでの代理としてこの国を守るために。

 フロリアは、ばらつきはあれど、おおよそ百年ごとに一人の間隔で宮院に生まれ返った。少年であることも少女であることもあったが、彼らは皆一様に生まれたときから建国神話が述べるとおりの淡い白金色の髪を持っていた。宮院は預言者を養護する務めも担い、その髪の子供が生まれるとフロリアと名付け、五歳まで宮院内で育てたのちに塔へ送る。そして彼らが十六歳を迎えると、神話に倣い主に感謝を捧げるため、フロリアを天に還す。

 この時代のそれが、私だった。

 神の口となるための名を与えられた私は、五歳まで外の世界を見ず、真綿で包むようにして育てられ、時が来ると塔へ登らされた。フロリアの話す言葉は、国の未来にかかる暗雲を暴き、先を照らす灯となるものだ。全てが神の意思に因るものであるべきである。耳を澄ませ。世界のうたいを聴き逃すな。主より預かった声ではないものを声にすることは許されない。主に、国に尽くせ。自らの言葉を口に出すことは許されない。

 そう教えられてきたのだ。何の疑問も持たなかった。その時に備えて自らの意思と口を閉ざしながら塔の中で天を仰ぎ続けた。生に期限が決められていることも当然のように思っていた。結局私が神の声を聴くことはなかったが、それはこの国が祝福に満たされていたことの証であり、国民の皆を代表してそれに報恩するためにゆくのだ。これからもそうあるようにと祈って。初代のフロリアに始まるすべての預言者たち——フロリアスがしてきたように。

 日中空を映して様々に移り変わる天穹塔は、夜には彼らの血を吸い込んでふたつめの月のように白く輝く。人々はその祝福の明かりに瞼を覆われ眠りにつく。フロリアスはこの国の平和の象徴であり安寧の礎となる存在なのだ。


 だから、と、朝食の後再び出かけていたギドは、部屋に帰ってくると言った。混乱を避けるために宮院は貴女がいなくなったことを隠しておきたいので、おおっぴらに捜索することは出来ないのです。それに皆貴女の顔を知らないのですから、今夜は人通りが多いですし髪を隠して目立たないよう普通にしていれば、表通りを歩いていても大丈夫。

 彼の言う通り、宮院の衛兵は私のことを探しているはずだ。捕まったらどうなるのかはわからない。けれど私は十六歳の誕生日に地上での生を絶たれ、主の御許へ向かうべきだった。しかしその前夜、塔の頂上で死の時を待っていた私の前に彼は突然現われ、私を塔から連れ出したのだった。死ぬはずだった者が生きて、神への奉仕を担う者がいなくなった。このことがどれほど重大な出来事なのか、どれほどの影響を及ぼすものなのか、私には想像しきれないほど途方もなくて、恐ろしかった。彼のこの行動にどのような意味があるのかも未だ掴むことが出来ていなかった。だからといって私には今更塔に戻ることもまた恐ろしくて出来なかった。

 衛兵に見つかることに怖じ気て宿に籠り切りだった私は、ローブのフードを目深に被り彼に手を取られて、ちょうど秋祭りを迎えているらしい大通りへと歩きだした。肩と肩が触れ合うほど近くを人が通り過ぎていく。笑いさざめく声、はしゃぐ子供の甲高い声、上機嫌な低い声。屋台から漂う香ばしい匂い。フードの端から覗く鮮やかな色彩。行きつ戻りつしながらかろやかに弾む足、足、足。それらが高揚感に満ちた通りに沿って一つの方向に流れていく、その流れに乗ってギドは器用に人を避けながら私を先導して歩いていった。周りを見物しながら歩く勇気は出なかった。屋根屋根の向こうの高見から街を睥睨する天穹塔の見透かすような視線を、絶えず感じていた。誰かと目が合った途端に、笑っていた人々が石のように冷たい表情で私を指さしてくるような気がしていた。夢に見たように、軽蔑に唇を歪ませ、この国賊の背信者、と言って。

 ギドの屋台の誘いに頑なに首を振りながら、まるでそれが命綱であるとでも言うように、繋がれたギドの手を必死に見つめて歩いていた私は、急に立ち止まった彼の背にぶつかりそうになり慌てて立ち止まった。振り返った彼が、顔を上げてみてください、と微笑んで言うと同時に突然音楽が耳に飛び込んできた。つい私は、顔を上げてギドの肩越しに向こうを覗いた。

 いつの間にか通りを抜け広場に出ていた。あまりの煌めきに一瞬我を忘れ、思わず前に進み出ていた。古く褪せたガス燈を繋いで幾つもの角灯が張り渡され、緩く夜風に揺れながら暖かい色の光を放っている。ちらちらと影を躍らす硝子細工。その影の中で笑う収穫祭の人形たち。丁寧に切り取られた紙の飾りやリボンの数々。それらが一面に吊るされて広場を彩っている。月の明かりも霞むほどに煌びやかで華やかな空間が、眼前に広がっていた。

 そしてその力強さでもって私の怯えも消し去ってしまった音楽は、広場の中央に植えられた大樹の根元から生まれていた。大きく差し伸べられた枝の下に席を構える楽団が、陽気な音色を鳴らしている。その周りにあでやかに着飾った女達が円を描いて、そのよく通る歌声を存分に響かせながら踊りを披露していた。奔放に見えながら統一されたステップでリズムに乗る彼女たちは、宝石を撒き散らしているような笑顔で、自分たちを取り囲む観衆の熱気を煽り否応なく祭りに巻き込んでいく。若い連中の一団が一緒に踊ろうと手を高く上げてはしゃいでいた。つい乗せられたのか控えめにタップを踏んで見せる老紳士がいる。歌を聞き真似で歌おうとして声を張り上げる子供がいる。皆が一様に頬を上気させ、聖なる一夜にすべてを燃やしてしまおうとしてこの騒乱を謳歌していた。思いもよらぬことが起こりそうな予感と期待。何もかもが素晴らしく夢の中のようでいて、でもどれもこれもが力強く私を取り囲んでいた。

 この興奮には覚えがある。そう感じた時、ギドが懐かしいですね、とこぼした。いつのまにか隣になっていた彼は私に笑いかけて言った。

 一度だけ、どうしても行きたいと言う貴女とこっそり宮院を抜け出して祭りを見に来たことがありましたね。初めて見た林檎飴を、食べてみたくて仕方なかったのに二人とも銅貨の一枚も持ってなくて。それでもあちこち見て回るだけでも楽しくて、それで最後に来たのがここの広場だった。

 そうだった。朧気ながら、その時も明るく照らされていた広場が記憶に浮かび上がった。何故か、食べた飴の、舌に触るつやつやしさも甘酸っぱさも思い出せる気がする。誰が買ってくれたのだったか? しかしギドはそれ以上のことを語らなかった。あるいは幼い私があまりの食べたさに想像で記憶を作ってしまったのかもしれなかった。

 不意に拍手が沸き起こった。曲が終わったのだ。そして広場は夢から覚めたように人々のざわめきであふれた。そこらじゅうで絶えず笑い声や会話が飛び交い、それらは世界中の砂粒を数え終わるまで待とうが尽きないようだった。しかし再び音が流れだしたとき、永遠に止まないかと思われた喧噪は驚くほど素早く息を潜め、代わりに皆が声を揃えて歌い出した。民謡だ。古くから伝わり、昔からそして今も必ず子供に教え継がれている、誰もが知るそのメロディ。知っている。覚えている。懐かしさに体が震えた。最後に見に来た広場で演奏されていたのがこの曲だった。その時も皆がこうして歌い出して、私はほんの数回聞いたことがあるだけのその曲を、必死に思い出しながら皆の真似をして歌ったのだ。初めて見る世界に自分も入りたくて。宮院にはない光で彩られたこの世界の一員に少しでもなってみたくて。そこに参加できれば、自分が自分でないくらい強い存在になって、どんなこともできるようになれる気がしていた。広場を埋め尽くすほどの群衆が声を一つにしたその歌声は、大きな振動する空気の一塊になって、弱く光る星を揺らした。心が浮き立つのを抑えきれず、気づけば声にならない声を唇がかたどっていた。


 歌っていいんですよ、とギドが言った。暫く彼が黙り込んでいたことに気がつかなかった私は、唐突に発せられた彼の言葉にぎょっとしてギドを振り仰いだ。いつも穏やかな黒い瞳が、見たこともないほど、きつく、熱っぽく光ってこちらを見ていた。一瞬言われた言葉の意味を掴めなかった。しかし理解した途端に、取り返しのつかないことをしてしまった時のように体が冷たく痺れるのを感じた。思わず私は彼から後退ろうとしたが、彼の手が獲物を捕らえる蛇のような素早さで私の手首を強く掴んで離さなかった。

 歌っていいんですよ、と言い聞かせるように彼は繰り返した。周りに聞こえないように低く抑えられたその声は、しかし歌声に搔き消されることもなく真っ直ぐに私を刺した。

 貴女も、歌っていいんだ。言葉を忘れたわけじゃないでしょう? 喉を潰されたわけでもないでしょう? 貴女は生きているんだ。預言者としての役目は終わったんだ。貴女は生きたまま自由になったんだ。

 彼が次々放つ言葉は、まるで目の前に振り翳された、熱した火掻棒のように私を慄かせた。初めて見る様子で迫ってくる彼は知らない人のようで、私を不安にさせた。迷子の子供が親だと思って駆け寄った相手が、全くの他人だった時のような気持ちだった。

 神の声など知ったことじゃない。そんな背負わされた呪いのような務めなどどうでもいい。誰の許可もいらない。貴女は、自分の意志で、自分の言葉を、口にすることができるのに。

 ギドが口を閉じてしまうと、張り詰めた沈黙が見つめ合ったままの二人の間に流れた。私を離さない彼の視線が繰り返し私を責め立て、息苦しく緊張して、身じろぎもできなかった。

 突然酔っぱらいが発した調子外れの大声が、沈黙を裂いて二人を雑踏に引き戻した。ギドは私の表情にはっとして手を解いた。そして一歩下がると、ふ、と目を伏せ、すみません、と言った。

 歩き出した彼はもう私の手を取らなかった。私も繋ぎ直しはしなかった。広場を横切り反対の通りに入って、互いに黙ったまま歩いて行った。

 しばらく経ってから、努めて明るい声で、夕ご飯を食べに行きましょう、とギドが言った。この先に知り合いがやっている店があるんです。なかなか繁盛しているようで、きっと美味しいと思いますよ。

 彼は大通りを外れて横道に入っていった。遠くなった音楽が僅かに通りを伝って響いてくるだけで、広場の明かりも届かなくなり、建物の窓から漏れてくる明かりの下、所々に立ったまま言葉を交わしたり菓子を口に運んだりしている人の姿があった。一息つこうと祭りの喧騒から抜け出してきた人々の、冷めかけた興奮の気怠い熱が辺りに漂っていた。

 ギドはバーンズビルという店の前で足を止めた。鶏のモチーフの看板が角灯の下で揺れる煉瓦造りの建物で、扉を開けると温かな匂いと人の話す声が通りに溢れ出した。

 賑わう席の向こうから背の曲がった男が入口に寄ってきて、いらっしゃいませ、と言った。細い黒髪をぺったりと後ろに撫でつけており、小さいがよく動く目は自分が担当しているホールで起こることは何一つ見逃しはしないと言っているようだった。

「何名様でいらっしゃいますか」

「ベック・バーンズビルに会いたい」

 ギドは問いには答えず率直にそう告げた。店員は一瞬不審げに眉を顰めたが、恭しい態度を崩すことなく言った。

「失礼ですがお名前を頂戴しても?」

「アポは必要ない。ガイドを果たせと言えば分かる」

 店員は逡巡するような態度を見せたが、ギドに、伝えてきてくれ、と促され頷いた。

「……かしこまりました。お席でお待ちください、メニューを運ばせます」

 奥まったテーブル席でふたり同じものを食べながら、ギドはいつも通りのギドに戻っていた。広場での荒々しさは幻だったかのように鳴りを潜め、穏やかな表情で、美味しいですね、と笑った。私は頷いて、ハーブの匂いのする湯気が立ち上る椀から一匙掬った。熱いシチューが喉を伝って腹に落ち、身体がほっと解れるのを感じた。食事中もギドは先の店員との会話の意図を特に言いはしなかった。

 食事を終えた後、初めに話した店員がギドを呼びに来た。席で戸惑っている私をギドは振り返って言った。

「フィル、貴女も来てください。会ってほしい人がいます」


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