幽霊少女と天穹塔

細胞国家君主

第1話

 私は、十六歳になった日に死ぬ。それは生まれたときからの決定事項だ。

 ——その、筈だったのだけれど。




 早朝の白い光がブラインドの隙間から差し込み、床に縞模様を描いている。身体を起こすと、鉄製のベッドが軋んだ音を立てた。ひんやりと湿っぽい空気が首筋に纏わる。徐々に明るさを増す狭い室内に浮かび上がるのは、木製の衣装戸棚と黄ばんだ洗面台、がたつく椅子が一脚、大きいだけが取り柄の薄いマットレスの乗ったベッド。脇机には遊戯盤と読み止しの本が置かれている。染みの浮いた壁は薄く、昨晩は遅くまで隣室の宿泊客の会話する声が低く時折高く響いてきていた。しかしたとえ静かな部屋だったとしてもすっかり眠れてしまえはしなかったのだ。もう何年も、浅い眠りを繰り返すだけの夜を過ごしている。

 鴉が啼き始めた。もう十数分もすれば日が街の上に姿をみんな晒してしまうだろう。

 蛇口を捻ると勢いよく水が流れ出、飛沫しぶきを辺りに飛び散らせた。瞼にこびりついた夢を洗い流すように、丁寧に顔を洗う。蛇口を絞め、息を吐いて顔を上げると、正面の鏡に映るいろのない瞳が探るような光を湛えこちらを見返していた。その視線から目を逸らして、手早くタオルで顔を拭った。

 階下で扉がひっきりなしに開閉する音がした。街が起きだしたのだ。通りを出入りする人々の気配、かまどに火が入り、煙突から煙が立ち上る。朝餉あさげの準備をする物音。鳥が色々の甲高い声で啼き交わしている。なんという鳥だろう。姿が見えれば分かるかもしれなかった、さんざん図鑑を眺めて過ごしてきたから。けれども外を見る気にはならなかった。この部屋の向きでは窓の向こうに塔が見える。ここに泊まりに来た最初の日、部屋に入ってすぐに彼はブラインドを下ろした。ここしか空いていなくて、と申し訳なさげに呟いた彼の表情にそれが分かった。

 戸棚に仕舞っていたカンバス地の肩掛け鞄からヘアブラシを取り出して、ベッドの端に腰掛けた。ブラシの背に張られた薔薇色のビロードは、十年以上使い込まれたせいで擦り切れて褪せている。古い物ばかりのこの部屋で、まだ新品の鞄とローブだけがどこか所在無げでよそよそしく見えた。

 腰のあたりまで伸びた髪にブラシを当てる。誰かが扉をノックした。小刻みに三回、一拍おいてもう二回。鍵が差し込まれ、回る音。振り向かなくても彼であることは分っていた。

 ギドは、おはようございます、と中に向かって声を掛けて、扉を閉めきちんと施錠してから室内に歩み入った。床にバックパックを下ろして椅子の上に朝食の入った紙袋を置き、背もたれにコートを掛ける。コートには払いきれずに残った滴が光っていた。

 夜明け前に、一瞬だけ雨が降ったんです。と、彼は言った。お天気雨、いや太陽はまだ出てなかったから違うのかな。今はもうすっかり晴れていますよ。まだ降るときじゃないのに、雲が堪えきれなくなって少し零してしまったのかもしれない。

 冗談に愛想笑いの一つも返ってこなくても彼はまったく気にも留めず、てきぱきとした動作で鞄から取り出した薬缶に水道から水を汲み、携帯焜炉で茶を沸かした。ふたつのブリキのコップを、取っ手に指を引掛けて器用に片手で持ち、椅子をベッドの脇に寄せる。彼から差し出されたコップを受け取り、一口含んだ。微かな薬っぽい味が口中に広がった。

 ギドは袋を開けてサンドイッチを取り出し、布団の上に並べた。卵と、にしんと、トマトと、これはコンビーフかな。お好きなのを召し上がってください。そう言うギドの目元に、つややかな黒い前髪がかかっていた。髪と同じ色の瞳は常に柔和な表情を浮かべているが、いつも真意を読み取らせなかった。彼が昨晩どこに行っていたのか、どんな用事があるのかも知らなかった。 

 この街に来て今日でもう一週間になる。あの日からは二十と少しの日が経った。

 ギルは向かいに置いた椅子に座ってこちらを見つめた。昨日は、と口を開いた。何をしていましたか? 夜はよく眠れました?

 そこで言葉を切ったが、返事が返ってこないことは分かっているので、また穏やかな口調で話をつづけた。少し掠れた柔らかなテノールが、応える者もいないまま室内を流れていく。

 予定より時間がかかってしまったので申し訳なかったですが、用事が済む目途が立ったんです。明日か明後日には出発できると思います。

 手で朝食を食べるように促され、スモークサーモンとクリームチーズの挟まったのを手に取った。ギドはそのことを分かっていたというように微笑んだ。実際に、必ず最初にそれを食べるのは変わらないんですね、と言って、彼は卵とレタスのサンドを一口齧った。

 ギド——ギドヴァルド・シーン——あの日、私を空の牢獄から連れ出したひとは、十一年前に別れたきり会わない同い年の幼馴染の名であるそれを名乗った。それ以来街から街を渡りながら、彼が時折思い出を零すたび、それをよすがに長い年月のうちに塗り潰されてしまった過去を取り戻そうとして私は遠く思いを馳せる。しかしそれらはあまりにも頼りなく朧気おぼろげで、空白はぼうとして知れず、しばしば全く知らない人と対峙しているような心細さを覚えた。それでも彼はいつも穏やかで優しかった。唯一私が記憶している通りに。

 お互い食べるだけ食べて終ったので、彼は立ち上がってパン屑を払いふたり分のコップを片付けた。それから、髪結いましょうか、と言って私の隣に腰掛けたので、素直に彼に背を向けた。背で緩やかに波打つのは、彼と同じように瞳と同じ、けれど彼とは正反対の淡い白金色。遙かから継承されてきた、天から贈られた呪いの証。それを彼の骨っぽい力強い指が優しくくしけずり纏めてゆく。

 陽にあたると光に溶けるようで本当に綺麗なのに、と手早くシニヨンに結い上げていきながらギドが言った。隠さなきゃいけないのがもったいないくらい。それから、ほいできました、とおどけたように笑った。髪を留めた透かし彫り細工のスティックバレッタは、再会の後最初に訪れた街で彼が贈ってくれたものだ。遅くなってしまったけど、十六歳の誕生日に。私にその小さな包みを渡しながら、彼は言った。

 私が死んでから、二十と少しの日が経った。

 何故、死んでいるはずの私がこうしてサンドイッチを食べ、髪を結ってもらい、朝と夜とを迎えているのか。それを思うとき、ここに座っているのは幽霊なのだと考えてみる。声を閉じ込め、務めを負っていながら何もかもを捨てた罪人のなれの果ての幽霊。

 朝日に中てられ、きっと、もうすぐ、消えるだろう。

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