03: 洞門

第9話 自己愛主義天使

 ツルは家から逃げ出した後、上板橋から東武東上線で池袋まで行き、ほぼ抜け殻のような状態でとりあえず山手線に乗った。

 車内で空いた席に座ると、ツルは目を閉じて精神が落ち着くのをひたすら待った。

 精神を落ち着かせて念写のが完全に消えるまで、一時間ほどかかった。とりあえず今日一晩を過ごせる場所を探そうと頭の隅でぼんやりと考えていたが、どこに向かうべきかはっきり判断ができなかったので座りっぱなしのままでいると、いつの間にか山手線は一周してまた池袋に着いていた。

 家から逃げ出したあと、ツルはできるだけ遠くに離れようとひたすら歩いた。その途中、何度も後ろを振り返ったが、あの写真の女の姿はあれ以降は一度も見えなかった。一分おきぐらいの間隔で起きていた目の痙攣と火花の幻覚が続いていたが、精神の昂りが落ち着くとともに頻度も下がり、今はほとんど起きなくなっていた。光に反応して目が痛むことがあったので、ツルはできる限り目を細め、光を直視しないよう歩いた。

 ふと気を緩めると、あの写真の女の目がところが思い出されて、目を閉じるのが恐ろしかった。できるだけ人通りがあるところに行って、気を紛らわしたい気分だった。

 ツルは携帯で着信履歴の画面を見た。そこには、何度見ても間違いなく椎木からの着信履歴が表示されている。あの電話自体は、幻覚の類ではなかったということだ。しかし、電話の向こう側の声は椎木のものではなかった。今思い返してみても間違いない。あれは、""

 念写の結果からして椎木は生存していて逃亡したようだが、携帯電話はあの女に奪われたらしい。襲われた結果奪われたのか、携帯も何もかも置いて出て行った拠点に踏み込まれたのかは微妙なところだが、椎木が使うのは常にと呼ばれる使い捨ての携帯電話だから、後者の可能性のほうが高い。そこであの女が携帯に入っていたツルの留守電を聞いて、着信履歴から掛けてきたのだろう。

 敷島ツル、と確かめるようにあの女が言っていたのを思い出す。

 まるで、顔と名前が一致した、と言わんばかりの声だった。

 ツルは家の中に残っていたもので、何か持ってくるべき重要なものがあったかどうか考えた。家を出てすぐ消防に通報はしたものの、火の回りようからして中にあったものはすべて焼失しているだろう。しばらく考えたが、ノートPCが多少残念だったくらいで、他にはさして大事なものも何もないということに気付いた。生活用品なんかを合算してみると総額としてはそこそこの額になるので惜しいといえば惜しいが、絶対に失いたくなかった、と思えるようなものは何一つなかった。家自体も椎木から解放されたらすぐに出ていくか取り壊すかするつもりだったし、ちょっと順序が前後したくらいのものだ。

 とはいえ、手持ちの現金がもう底をつきかけているのが問題だった。適当なネットカフェに入るのでもぎりぎり足りないぐらいの金額しか残っていない。とりあえず現金が必要だ。

 あまり気は進まないが、ひとまず今晩の分だけでもしかない。

 ツルがそう思ったとき、ちょうど秋葉原の駅についたので、ツルはそこで降りた。降りた頃には、時刻は二十時を回っていた。

 昭和通り口から外に出ると、ツルは周辺の適当なドラッグストアを見繕って中に入り、化粧品の試供品がある場所に向かった。試供品として何が使えるか確認しながら、まず化粧下地のスキンスムーザーを塗った。棚の間に立てかけられた鏡で自分の顔を見てみると、目がかなり充血していることに気付き、充血ケア効果のある目薬を両目にさした。アイボリーカラーのファンデーションを顔全体に塗り、ピンクグロウのフェイスパウダーを乗せていき、ヘーゼルのパレットでシェーディングをした。アッシュブラウンのアイブロウで眉を書き、オリーブブラウンの細芯アイブロウで下瞼に涙袋を描いた。コーラルピンクのアイシャドウを上瞼と涙袋に塗り、目尻の部分だけにやや濃い色を足した。それからラメの入った色を取り、黒目の真上に当たる部分と下瞼の目頭の部分に乗せた後、黒のアイライナーを入れた。最後にリップを塗った。

 ツルは出来上がった自分の顔を鏡で見ながら、柔和な感じの笑顔を作ろうとしてみたが、引きつったような表情しか浮かべられなかった。ツルはそれから一枚入りの使い捨てマスクを買い、その場で開封して着けた。

 ツルは外に出ると周囲を見渡してみて、待ち合わせをしているわけでもなくかつ、どこかに急いでいるというわけでもなさそうな、一人で行動している男がいないか探した。該当するような男がいないのを見て取ると、少し広場で待つつもりで、駅前に並んだ自動販売機に千円札を入れ、ペットボトルの炭酸水を買った。お釣りで出てきた小銭をポケットに入れた。

 ペットボトルを自動販売機から取り上げようとしたときに、どこかで防犯ブザーのような音が大音量で鳴り始め、ツルは驚いて身を跳ねさせた。

 音のしたほうに振り向いてみると、その先にメガホンのようなものを持った二十代ぐらいの男がいて、それを通して何かを叫んでいた。また防犯ブザーの音が鳴り、その音もメガホンから来ているようだった。メガホンの男の前にはまた別の男がいて、迷惑そうにそれを振り払おうとしていたが、メガホンの男は執拗につきまとい、何かを叫んでは防犯ブザーの音を鳴らした。携帯を片手に掲げているところを見ると、どうやらメガホンの男はそれを録画しているようだ。

 またTikTokか、と思いながらも同時に、あいつでいいか、とツルは思った。

 ツルがメガホンの男に近づいて声をかける隙ができるのを待っていると、ツルの真横からまた別の電子音がした。ふと見ると、二十代ぐらいの黒髪の男がそこに立っていて、不愉快そうな顔で携帯を両手で掲げているところだった。方向からしてメガホンの男にカメラを向けているようだった。聞こえた音は録画を開始した音だ。十秒もしないうちに男は携帯を掲げていた腕を下げて、どこかにやついた顔で携帯を操作しながら歩き始めた。

 ふむ、とツルは少し考え、どっちを選んでもいいな、と思い、ポケットから五百円玉を取り出した。

 表が出たらメガホンを持って撮ってる奴のほうに、裏が出たら撮ってる奴を撮ってた奴のほうにしよう。

 ツルは五百円玉を指で弾いて飛ばして掴み、手の甲に伏せた。

 裏だった。

 ツルは、広場から離れて歩いていく黒髪の男の背中を追いかけて歩き出した。数メートルの距離を保って後ろをついていったが、人通りが少しまばらになったあたりでツルは小走りになって黒髪の男の真横まで出ると、男の肩に軽く自分の肩をぶつけた。

 男はいきなり体をぶつけられたことに驚いて、警戒した様子でツルのことを見た。

「さっき何撮ってたん? 見してよ」ツルは知人に声をかけるような調子で男に言った。

 男がツルの顔を見てきたので、ツルは目元だけで可能な限り柔和な笑みを浮かべた。それを見て敵意がないことを感じたのか、男は自分の携帯を操作して、先ほど撮っていたメガホンの男の動画をツルに見せた。十秒ほどの動画だった。

 ツルはマスクをあごまで下げた。

「どっかに上げんの?」ツルは聞いた。

 男はTwitterに上げるつもりだと答えた。そこから何往復か、ツルと男は会話を交わした。ツルはいくらか男の言うことに笑っても見せた。

 今からどこ行くの、とツルが聞くと、男は喫茶店らしき店の名前を出した。どっち、と聞いて方角を確認すると、だったらこっちのほうが近いよ、とツルは適当なことを言って、より人気のない路地のほうに男を誘導した。ビルとビルの間の細い通りだった。

「なんかここ雰囲気いいじゃん」ツルはそう言って、男に振り向いた。「ね、ちょっと撮ってよ」

 ツルは自分の携帯を取り出して、ロックを解除して男に渡した。男は若干戸惑いつつも、それを受け取った。ツルは男の肩越しに画面を指差し、操作を指示した。

「あー、カメラはね、それ。そしたらそっちのボタン押して……」

 男の注意が完全に携帯の画面に向かったところで、ツルは近くにあった立て看板の重しを持ち上げると、それで思い切り男の後頭部を殴った。男は前のめりになって倒れた。その手からすっぽ抜けたツルの携帯が地面に落ちた。ツルは男が体勢を立て直す前に追撃をしようと身構えていたが、男は既に気絶しているようで動かなかった。

 ツルは息をつくと、重石を看板の下の元の位置に戻した。

 ツルは男の体を探り、持っているものを漁った。紙巻たばこのパックとライター、長財布が出てきた。長財布を開けてみて、思った以上に札が入っているのを見てツルはほっとした。札を全て抜き取り自分のポケットに入れ、たばこのパックから一本取り出してライターで火をつけると、転がった男の上にそれらを全て投げ落とした。

 ツルは自分の携帯がどのあたりに落ちたのかを探して、少し離れたところで転がっているのを見つけた。

 そこまで歩いて携帯を拾い上げると、ツルは嘆息した。画面の左下から右上にかけて無数のヒビが入っていた。

 ツルはそのままそこを立ち去るつもりだったが踵を返して、男の転がっているところまで戻った。ツルは再び男の長財布を拾い上げると、カードのポケットを探って、運転免許証があるのを見つけた。ツルは免許証を引き抜くと、別のポケットから男が持っていたたばこのパックとライターも取り出した。

 ツルはたばこを一本くわえてライターで火をつけると、続けてライターの火で免許証を裏から炙り、簡単に曲げられるくらいになるまで柔らかくなったら、免許証を半分にねじ切って、倒れている男の上に投げ捨てた。

 それからツルは踊るような足取りで、というかほとんど踊りながら、その場を後にした。

 ツルはいつの間にか、自分がずっと笑顔になっていることに気付いた。

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