第8話-② 楽しみですね。じゃ、始めましょう。

 七枚撮ったところで二つ目のフィルムを開封し、カメラのカートリッジを交換した。そうして、さらに八枚を撮った。

 合計十五枚を撮り終えた直後、ツルはタオルの目隠しを外して、ラジウムパッチを片っ端から最後の一枚まで剥がしていった。剥がした部分の皮膚が、やけに感覚が鋭敏になっているような気がして気味が悪く感じた。毛穴が全部開いているような、どの部分に風が通ったのかという感覚まで感じられる。自分の呼吸による体の振動や、血管の中を血が通っていく動きまでも感じられるように思える。顔を上げたとき、ツルは若干のめまいと吐き気を感じた。さっきまで室内は完全に無音だったはずだが、草木が風に揺らされるようなざわめきが微かに聞こえるような気がする。

 そのとき、ツルは頬に水滴が伝っていくのを感じた。いつの間にか、全力で走った後のような汗が額に浮かんでいたことに気付いた。手を握って開くのを繰り返してみると、指先から手のひらにかけて痺れる感覚があった。

 ツルはひとまず深呼吸して、高くなっていた心拍数と乱れた呼吸を整えようとした。そして、自分の両手を見て、首を回して周りを見てみる。大丈夫だ。何も見えていないし、何も聞こえていない。

 ツルは立ち上がって、窓に貼り付けていた段ボールを剥がした。街灯の明かりが室内に入ってくる。ツルは室内の電気をつけた。暗闇に慣れていた目を守ろうとして、反射的に目を細めた。

 一瞬、背後に誰かが立っている気配を感じて振り返ったが、誰もいなかった。

 ツルはまくっていたシャツの袖を戻し、トラックジャケットを着た。

 ツルは床に座り直した。畳の上には、ラジウムパッチを全部貼った状態で撮った写真が十五枚伏せて並べてある。ツルはそのうちから、端にあるものをまず手に取った。祈るような気持ちで、ツルは写真を裏返し、そこに写っているものを見た。

 その瞬間、ツルは思わず喜びと興奮を声に出して拳を握った。写真には、。椎木神社の中で行うのと同等か、それ以上の鮮明さの写真になっていた。

 ツルは、携帯でカメラを起動して、その写真を撮影した。

 ツルは続けて、別の写真を取って裏返したが、二枚目はハズレだった。人の姿は一つも写っておらず、風景もコンクリートの壁の角が写っているのみで、住所のヒントになるような看板の類も写っていない。ツルはその写真を脇に押しやり、続けて次の写真を取った。三枚目はまたハズレだったが、四枚目には椎木らしき人物が写っていた。やや輪郭がぼやけてはいるが、何かの看板のようなものも合わせて写り込んでいる。ツルはその写真も携帯のカメラで撮った。

 そうして写真の確認を続けていった。

 そのうち、ある一枚の写真を見たときに、ツルは何か違和感を感じた。

 その一枚の写真を見て、映っているものの中で何かがと直感的に思ったが、それが何なのかははっきりとはわからなかった。

 それは、どこかの家の中を撮ったような写真だった。木目の床とふすまが写っていて、細長い廊下のような場所に見えた。その奥に、人の姿が写り込んでいる。足は素足で、その指の向きから、こちらを向いているということがわかった。顔の部分はろうそくの火の像が重なっていて、よく見えない。両手からは長く白い帯のようなものが地面に垂れていて、よく見るとそれが包帯であるということが見て取れた。

 手足の感じからして、椎木のようには見えなかった。その誰かは、上半身から膝の上までの長さの、袖口と裾の広がった服を着ていた。その服は、病院の検査衣のように見える。

 ツルがもっと細部を確認しようとして、その写真を覗き込むように見たとき、ツルはなぜその写真に違和感を感じたのか気づいた。と思ったのは、その風景だ。写真に写っている場所に、見覚えがありすぎるのだ。

 そこに写っているのは、

 その瞬間、写真の中から腕が、ツルの首を掴んだ。

 はっきりと、という感覚があった。喉を押されて、ツルの口から空気が漏れ出し、栓を抜いたような音が鳴った。ツルの体は押された勢いのままよろめいて後ろに倒れた。それからしばらくツルは咳き込んだ。

 ツルは自分の首に触れてみた。痛みはないが、何か熱を持っているように感じる。

 ツルは呼吸を整えようとしながら、思わず手放していたその写真を再び拾い上げた。

 そこに写っていた人影は消えていた。

 そのとき、バチンという大きな音がして、部屋の電気が消えて手元が真っ暗になった。部屋のどこかから衣擦れの音が聞こえたような気がした。ツルは手探りで携帯を見つけると、急いでライトを点灯させ、その明かりを使って逃げるように部屋を出て一階に走った。階段の途中で足を踏み外し、体勢を崩して七段ぐらいを転げ落ちてツルは床に倒れた。その途中で壁に頭を打ち、衝撃で手から携帯がすっぽ抜けて床に転がった。足首を誰かに掴まれたような感覚があり、反射的に振り払おうとしたが、難なく体は動いた。

 消えていた一階の電気がついた。

 目の前には誰もいない。

 ツルは起き上がると、ダイニングから伸びた廊下の先にある洗面台に行き、そこで鏡で首のあたりを見た。首の皮膚に特に異変はない。ツルはこめかみのあたりから血が出ていることに気付いた。階段から落ちたときにぶつけたあたりだ。

 ツルがこめかみの傷口に触れてみると、針で刺すような痛みが走った。

 痛みを感じた瞬間、右目に強い光を感じた。ジジジッと虫が羽ばたくような音がして、フラッシュを眼前で浴びせられているような光が連続して見え、右目が痙攣した。ツルは鏡に映った自分の姿で、右目からが何度も迸っているのを見た。

 幻覚だ。

 ツルが初めて念写をしたときも、同じような幻覚に襲われたことがある。そのときも、誰かが自分の周囲にいるような感覚があり、実際に体に触れられたような実感があったことを覚えている。起きながら悪夢を見ているのに近い。誰かがいるような感覚がするのも、寝起きの金縛りとさして変わらない。ツルはそう頭の中で何度も唱えて、精神を落ち着かせようとした。

 落ち着いて、いつものように波長を儀式をすればいい。

 そのとき、ツルはどこかから音が鳴り始めたのを聞いた。一定の間隔で低く鳴り響く音だった。二階へ続く階段のあたりから聞こえてくる。

 それは、携帯が振動している音だ。

 ツルが恐る恐る音のするほうへ歩いていくと、携帯の画面が光っているのが見えた。

 そこに、電話の着信を示す画面が表示されていた。

 発信者の名前はだった。

 ツルは心臓が跳ねるのを感じた。落ち着き始めていた呼吸が再び激しくなっていくのを耳で聞きながら、ツルは携帯を拾い上げ、応答のスワイプ操作をし、携帯を耳に当てた。

 電話口に向かって何かを言おうとしたが、うまく声が出なかった。ツルが声を出そうとしている間、電話の向こう側からも何も聞こえなかった。呼吸の音なのか風の音なのか、ノイズが時折聞こえるだけだった。

「……椎木さん?」ツルはようやくそれだけ言った。

『——しきしま』

 ツルは背筋に何か冷たいものが伝っていくのを感じた。

 聞こえてきたのは椎木の声ではなく、女の声だった。

『敷島、ツル——』

 それを最後に、電話は切れた。

 ツルが電話を耳に当てたまま、呆然と立っていると、ふと異臭を感じた。

 何かが焦げているような臭いがする。

 振り返ると、その臭いが階段から漂ってきているものだと気付いた。階段を途中まで昇ってみると、その原因がすぐにわかった。二階の部屋から火が出ている。部屋を飛び出したときに、ろうそくの火をひっくり返していたのかもしれない。

「——クソ!」

 ツルは叫んで、すぐさま玄関の外へ走って消火器を持った。二階の部屋にはまだ確認できていない写真が何枚もある。すぐに火をおさめれば写真が燃えて失われてしまうのに間に合うかもしれない。

 ツルは消化器を持って家の中に戻り、二階に向かって階段を駆け上った。

 そして、二階に上がり切る手前で立ち止まった。

 そこに誰かが立っていたからだ。

 それは両手に包帯を巻いて白の検査衣を着た、写真に写っていた誰かだ。写真ではろうそくの火が重なってよく見えなかったが、髪は長くぼさぼさで、唇は乾燥しきっているように白くなっており、両目は眠っているように閉じられている。顔を見る限り、女のようだった。

 写真の女はただそこに立っているだけで、何をするでもなく、動く様子もない。

 だが、ツルは自分がはっきりと恐怖を感じていることがわかった。自分が体を動かすことで、写真の女もそれに反応して動き出しそうな気がして、ツルは立ち止まったまま指先一つ動かせなくなった。写真の女の背後で、室内に火が燃え広がっているのが見える。

 幻覚だ。ツルは自分に言い聞かせながら、ゆっくりと目を閉じて、何度か深呼吸した。

 もう一度目を開いたとき、ツルは目を閉じたことを後悔した。

 写真の女は音もなく、ツルの眼前まで近づいてきていた。

 ツルの立っている場所の一段上までいつの間にか移動してきていて、そこでまたじっと立っている。ツルは呼吸が止まるのを感じた。

 すると、写真の女の両目が開いた。

 女の目はまっすぐツルのほうを向いていたが、どこか遠くを見ているように焦点が合っていないように見えた。すると、女の目が何かを探すように動き始めた。左右の虹彩が別々の方向に動き出しては、不規則に止まるのを繰り返している。左目がぐるぐると動き回る中で、右目の動きが止まったかと思うと、瞳孔とその左右でカーテンを開くように三つの穴が開き、すぐに閉じた。

 幻覚だ。ツルは再びそう唱えた。急げ、無視して通れ。ツルは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。ツルはそれから、大丈夫だ、と何度か頭の中で繰り返してから、階段を上がろうとして、前に向かって体を動かした。

 それと同時に、写真の女の腕が動いた。

 水の中にいるような緩慢な動きだったが、写真の女は腕を少しだけ上げ、ツルに向かって人差し指を向けた。ツルはその指先から、電気のようなものが走るのを見て取った。空から地上に向かって落ちる雷のように、女の指先から迸った電気は枝分かれして形を変えながらツルのほうに伸びてきて、ツルの手首のあたりに何度も触れた。細い針で何度も肌を叩かれているような刺激を感じた。その刺激が皮膚の内側まで食い込み、血管に触れて何かが流し込まれるような感覚がした。

 

 電気がツルの肌に触れるのに合わせて、ツルはまた自分の右目に火花が散ったような光が見えるのを感じた。

 通れない。ツルはそう思った。過去に見た幻覚と、は何かが違う。ツルの体は完全に硬直していて、進むことも戻ることもできなくなっていた。

 そのとき、破裂音が家の中に響き渡った。ガラスの割れる音だ。二階で窓が割れたのだと気付いた。そのとき、炎の勢いがいっそう増した。

 駄目だ。もうここを離れるしかない。

 その音に反応してツルの体の硬直が解けた。ツルは消火器をその場に捨てて、逃げることを選んだ。ツルは階段を駆け下りると、ダイニングのテーブルから財布だけ引っ掴んで、家の外へと走っていった。

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