第7話 具のないみそ汁を作る女

 ツルは久しぶりの外の空気を感じた。ドアが開いた瞬間、冷たい外の風が流れ込んできて、ツルは全身の緊張が解けたような気持ちになった。

 エレベータが着いた先は、だだっ広い駐車場だった。オレンジ色の電灯があたりを照らしていて、コンクリートの地面には白線が引かれており、停まっている車にはやたらと黒いものが目立つ。ビルの中に連れ込まれる際、同じような風景を見たような記憶がある。

 遠くに見える坂になっている部分が、そこに差し込んでいる自然の光で照らされているのが見えた。外はいつの間にか朝になっていたらしい。ツルは陽の光が見える方向に向かって歩き出した。

 男が最後に投げて寄越した折り鶴を開いてみると、それはというスマートウォッチの使用マニュアルだった。見たところ、ツルの手首に装着させられたものと同じもののようだった。

 マニュアルの上には手書きの下手くそな絵がでかでかと描かれており、ツルらしき人物の手首にはめられた時計から点線が伸びていて、アカホタルのロゴをデフォルメしたようなものの絵につながっていた。時計を通してアカホタルが監視をしているという図のようにも見える。

 男が寄越した紙袋の中には、ツルの持ち物が入っていた。

 ツルはまず、紙袋から携帯を取り出した。ツルの携帯の電源は入りっぱなしで、充電は残り10%を切っていた。携帯が手元に戻ってきたことにツルは安心した。モバイルスイカの残金が二千円ほど残っていたからだ。

 椎木からの折り返しの電話は、入っていなかった。

 ツルが地図のアプリを起動してGPSで現在位置を確認すると、有楽町のうちでも皇居に近いエリアが表示された。十和の言った通り、ツルがいたのは篝屋のビルらしい。

 ツルは次に財布を取り出して中身を見て、そこに入っている金額が捕まる前と変わっていないかどうか確認した。財布に入っている金額自体は変わりなかったが、今週回収できたはずの二万二千円が入っていない。ツルは、"切り取り線のタトゥーの女"が給与の封筒をツルの財布の横に並べたところを思い返してみて、結局あのまま封筒自体は回収できなかったのだということに気付いた。

 ツルはこらえようとしたが抑えきれず、苛立ちに任せて言葉にならない叫び声を上げ、勢い余って近くに停まっていた黒い車のドアを蹴り飛ばした。後部座席のドアの一部に、軽いへこみができた。

 ツルは荒くなった息を整えようとしながら歩き始め、地上に向かって行った。

 まず何をするべきか考えようとしたところで、思い切り腹が鳴った。

 とりあえず家に帰って飯を食おう。腹が減って死にそうだ。

 朝方の通りは人も車もまばらだった。几帳面に両脇に並んだ四角い建物の間を歩き、ツルは帝国劇場の前を通って、東京国際フォーラムの対面にあるビックカメラに入ると、そこでポラロイドカメラ用のフィルムを買った。椎木神社がああなった以上、予備のフィルムは買う以外に入手方法がなかった。生活に影響が出ないギリギリの範囲で、一パック8枚入りを二つ買った。レトロリバイバルブームの影響でポラロイドフィルムは以前ほど高価なものではなくなったとはいえ、五千円弱の出費になった。

 それから、ツルはD6出口から東京メトロの有楽町駅に入った。到着まで電源が持ちそうになかったので、モバイルスイカで券売機から紙の切符を買い、ツルは携帯の電源を落とした。

 ツルは有楽町線で池袋まで行き、そこで東武東上線に乗り換えて上板橋で降りた。駅から10分ほど歩いたところにツルの家があるが、ツルは途中で北口のイトーヨーカドーに寄り、夕食に使おうと思ってサバ缶と紙パックのカットトマトを買い、皿付きのアロマキャンドル一つとガムテープと梅しばを合わせて買った。それから出口近くの持ち帰り自由の段ボールが積まれた場所に行き、そこから段ボールを持てるだけ持ち、備え付けのビニールひもで背負える形に縛って背負った。

 スーパーを出て道路を隔てた場所にある専用の駐車場を横切り、左に曲がってあとは道なりに進むとツルの家に着く。

 その家は1960年ごろに建てられた家で、元は平屋だったという。周囲をぐるっとコンクリートの壁で囲まれた、いわゆるという風体の木造二階建ての家だ。数年前までは敷島家の持ち物だったのだが、ある時期からはツルのである椎木の名義で管理されることになった。庭先には梅の木が植えられているが、今の時期は葉が全て落ちて枝だけになっている。とてもツル一人では管理できるものではないので、椎木がたまに清掃や剪定の業者を送ってくれることになっていて、そのため毎月一万五千円の管理費を給料天引きで椎木に納めることになっていた。

 ツルは敷島と表札の掲げられた横にある、錆びて赤くなった戸を開けて家の庭に入り、玄関の引き戸を開けて家に入った。

 家にはツル以外誰もいない。

 玄関を開けるともう一枚木製の引き戸がある。そこを通って戸を閉めると、しんと静まり返った家の中で自分の呼吸の音がやけにうるさく聞こえてくる。ツルはその場に段ボールを降ろした。

 玄関から向かって左の部屋は寝室として使っており布団が敷きっぱなしになっていて、右側はダイニングがある。ツルはダイニングに入って電気を点け、テーブルの上に買ってきたものを置くと、そこに置きっぱなしになっているノートPCをスリープから立ち上げて、Spotifyでお気に入りの中から適当な音楽を流して、同時にブラウザでYoutubeのタブを二つ開き、登録チャンネルの新着動画のうち適当なものを二つ再生した。

 ツルは梅しばを何個か食って小腹を満たしながら、大鍋に水を入れてコンロの火にかけた。その横でフライパンでオリーブオイルを熱し、乾燥にんにくチップスを水で戻したあとに水気を取ったものと、細切れになっている赤唐辛子を炒め、味が染みたころになったらトマトとサバ缶の中身を汁ごと入れ、顆粒だしを入れ、蓋をして火を少し弱めた。大鍋のほうで湯が沸いたので、お椀一杯分の量を小鍋に移しておき、大鍋には塩と備蓄のパスタの麺を入れ、携帯のタイマーで十分を測った。十分後、麺が茹でられたらフライパンに合流させて混ぜ合わせた。大鍋のゆで汁は捨て、開いたコンロに小鍋をかけると、顆粒だしを入れて味噌を溶いた。

 そうして作ったサバとトマトソースのパスタと具のないみそ汁をテーブルに並べ、ノートPCの前で食った。

 食った後、気づいたら食べ終わった皿を横に押しのけて、机の上でそのまま寝ていた。流しっぱなしになっていたYoutubeの動画がゲームの実況に変わっていたのか、そこから流れてきた銃と爆発の音で目が覚めた。ツルは口の端から垂れていたよだれを拭った。それから水道水をコップに汲んで飲んだ。ずいぶん長い夢を見ていたような気がするが、PCで時間を確認すると、寝ていたのは三時間ぐらいだったようだ。窓の外はすっかり暗くなっていた。

 ツルは手首に痛みを感じた。寝ている間に頭をそこに乗せていたせいか、みまもりウォッチの盤面が皮膚にくっきり赤く跡を残していた。右腕にはが貼られている。これまで起こったことはどうやら夢の類ではなかったらしい。かすれて消えかけているが、手の甲にはボールペンで書いた"日本イーリアス株式会社"と"神田莉子"の文字がある。

 が起きているという実感が改めて湧いてきて、ツルは頭の中にアドレナリンが満ちていくのを感じた。

 RAPの記録は、後見人からの推薦状があれば記録抹消を申請できるというルールがある。椎木がツルの後見人となったとき、椎木は推薦状を書く条件についてツルに話した。一定の期間、自分の下で働いていれば、推薦状を書いてやってもいいと約束した。

 椎木が出した期間はだった。ツルにとってそれは気の遠くなるような時間だった。

 椎木を殺してやろうと思って計画を立てたことも何度となくあるが、結局殺したところで別の後見人があてがわれるだけだと知ってからは、下手に厄介な後見人を引くリスクを冒すよりは、椎木の下で耐え忍んでいたほうがまだマシなのではないかと思うようになった。そうして待ち続けていれば、いつかの機会が訪れるのではないかと思っていた。

 そして、今の状況こそが、これまでずっと待ち望んでいたものではないか、とツルは思った。

 椎木の本業はだ。大金を払った依頼者に新しい身分を作って、新しい人生とその先の安全を保証するのが椎木がもともと専門としているところだ。人一人の足跡を隠して絶つことに長けた人間ならば、自分一人で消息を絶って隠れることなど造作もないだろう。ツルがかけた電話一本がきっかけで、異変を察知した椎木が潜伏モードになった可能性はありうる。まともな方法で椎木を見つけることは、たとえアカホタルのような組織であろうと簡単にはできないだろう。それでもなお、アカホタルが椎木を探そうとしているのであれば、その背景にはかなり大きながある。

 椎木の商売は、椎木が依頼者の情報について、その後一切において口を割らないという信頼のもと成り立っている。椎木は約束を破らない。そのことだけは、絶対と言っていい。信頼が失われれば、椎木は全てを失う。どころか、あらゆる方面から報復を受ける可能性もあるだろう。椎木にとって、客の情報を売ることは即刻死につながる。

 そして、アカホタルにとってみれば、椎木は反社会的分子の逃亡先の巨大データベースそのものだ。

 アカホタルに捕まることは、椎木にとっては最も避けたいことのはずだ。ツルが椎木の居場所を握って、それをいつでもアカホタルに伝えられることを突きつけて脅せば、椎木はまず間違いなくツルのRAP記録抹消の推薦状を吐き出すだろう。

 そのためには、十和から稼いだ一週間という期間のうちに、アカホタルよりも先に椎木の居場所を特定し、直接その場に出向いて椎木にそのことを知らしめる必要がある。

 ツルが念写で椎木を撮れば、ある程度の場所は絞り込めるかもしれない。だが、そこから先の具体的な地点の特定はまともにやれば時間がかかる。探偵事務所なんかに調査を依頼したとしても、まず間違いなく一週間以上はかかるだろう。それでは遅すぎる。そもそもそんな依頼を出す金もない。

 ツルはその他に方法がないか考えた。写真から場所を特定する能力があり、素早く、かつ金がかからないもの。しばらく考えて、ツルはに思い当たった。少し迷ったが、それ以外にやりようがないと思った。

 炎上かじ特定ウォッチだ。

 ツルはノートPCを閉じた。

 ツルはカメラとフィルムを持ち、ダイニングから出て、玄関口の対面、二階への階段の前に立った。二階への階段は途中で九十度左に曲がっていて、その向こう側は下の階からでは見えない。

 二階のなら、椎木神社と同等の条件で空間を作れると思った。事実、ツルが最初に念写を成功させたのはその部屋だ。

 二階に上がるのはいつ以来だろうか。

 ツルはいつの間にか手に汗がにじんできていることに気付いて、何度か深呼吸した。大丈夫、と言い聞かせるように頭の中で何度も唱える。精神が一度乱れると、それが呼水よびみずになって悪い思考が連鎖的に舞い込んでくることがあるので、そうならないよう事前に心の水面を可能な限りなだらかにしておく。

 大丈夫、何も起こらない。何も見えない。何も聞こえない。

 ツルは段ボールの束を持ち上げて肩にかけると、二階へ上がった。

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