第5話-② ムッシュのパンはパリの味がする

 ツルは十和の言った内容を咀嚼するため考え込んだ。

「やってもらえるかな」十和は言って、カメラをツルのほうに向けて押した。

 ツルは、カメラの上に手を置き、しばらく考えたのち、口を開いた。

「……できない」

「誤解のないよう言っておくが、これはじゃないんだ」十和は優しく笑ってそう言った。「もしキミがこれを拒否するのならば、そのままキミを起訴することになるんだよ。キミは交渉できる立場にない」

「そんなことはわかってる」ツルは十和の語尾にかぶせるようにして言った。「だけど、今の私の状態じゃできないと言っている」

「……説明してもらえるかな?」

「私の念写は一週間に一回しかできない」ツルは嘘をついた。「ただでさえついさっき何十枚も撮ってきたばっかりなんだ、今まともなものが撮れるだけの力はもう残ってない」

 十和は考え込んだ。

 ツルは続けた。

「それに、椎木神社に作ってある念写の部屋はあれでも特別製なんだよ。精度が上がるように環境を整えているし、を抑えるようにもなっている」

「ふむ……」

 十和は唇に指を当ててさらに考え込んだ。騙し通せるか半信半疑だったが、どうやら十和にとっては一考に値する内容だったらしい。一週間、という点を除けばツルの話は事実なので、リアリティを与えられたのかもしれない。

 十和は、ツルの言ったことを完全には信用していない様子だったが、しばらくした後に口を開いた。

「……いいだろう、期限は今日じゃなく、一週間後ということにしよう」

 よし、とツルは内心で喜んだが、表情に出ないように奥歯で頬を噛んだ。ひとまず一週間、首がつながった。

 続けて十和が言った。

「部屋もこちらで用意する。可能な限り椎木神社と同等なものを用意させてみよう」

「……用意? どういうことだ? 一週間後に椎木神社でやればいいだろ」

「すまないが、それはもう無理だ」十和は、そう言うと一枚の写真をツルに見せた。「椎木神社はさきほど解体が終わった」

 十和の見せた写真は、椎木神社場所を正面から写したものだった。室内は文字通り、もぬけの殻になっていた。室内はあらゆる家具や備品がきれいさっぱり失われているだけにとどまらず、電灯を含めた、ひっぺがされた挙句に根こそぎ持ち去られていた。ドアは取り払われて枠だけになっていて、その色と形だけが唯一元々の風景の面影を残している。

 そのとき、、という"切り取り線のタトゥーの女"の言葉をツルは思い出していた。

 何を持ち出すか、という質問には答えられないとも言った。今思えば、そこに関して嘘はついていなかったということだ。あの女が持ち出そうとしていたものはで、、最初から根こそぎ事務所にあるものを奪い去るつもりでいたということだから。

「……お前ら、一体何企んでる?」ツルが言った。

「すまないが、何も教えることはできない」十和は言った。「それから、キミには今日から一週間のうち、欠かさずこれを使ってもらう」

 十和はそう言って、机の上に何かを置いた。それは薬が入っているような紙箱で、十和はその端を開け、中から拳ぐらいの大きさの、薄いオレンジ色のシールのようなものを取り出すと、ツルの前に差し出した。

「……なんだそりゃ」

「QESの入墨インクのエネルギー源に相当する物質を、体外から供給するものだ」十和は言った。「これを肌に貼ることで、一時的にだがレベル1QESと同等の霊能向上が図れる。キミの念写にも効果があるだろう。一週間これを定期的に使用して、期日までに霊能をベストな状態まで整えておいてもらいたい」

「QESの……?」ツルは訝しんで聞いた。

松本道別まつもとちわきという明治の霊術家がいてね。支流として取り入れたものはいくつもあるが、アカホタルのQESの根幹は彼の著述にある思想がベースになっている」

 ツルはその名前に覚えがあった。いつだったか、"霊学講座"と書かれた本が家の本棚の片隅に並んでいるのを見た覚えがある。読みはしなかったので詳しい内容までは知らないが、その本が主題としているある単語については、ツルは覚えがある。

か……」

「その通り」

 つまり、"切り取り線のタトゥーの女"がやって見せたような現象の動力源としての、というところか。

「今、それを一枚、手首のあたりに貼ってごらん」十和は言った。「それをもって、キミがこの取引に合意したものとみなそう」

 ツルはパッチを手に取り、台紙からシールを剥がした。

 ツルはそれを持ったまま、このまま十和の言う通りに従うべきか迷った。そのラジウムパッチを貼ることは、レベル1QESを受けるのとほぼ同義だ。それが一線を越える行為であるような、踏み入れたら最後元に戻れなくなる罠であるような感覚を覚える。

 十和が口を開いたのはそのときだった。

「キミの心の声がよくわかるよ」

 ツルは顔を上げて十和を見た。

「不安を感じていると思う。それはとても理解できる。でもね、よく想像してごらん」

 十和は、口元に笑みを浮かべたまま、ツルに向かって指を立てていた。

「君の人生はもう既に一度壊れている」十和は続けた。「一度ゆでられた卵は元には戻らない。今この瞬間を、更生するチャンスだと考えてみてはどうかな」

「私は元から反抗しているつもりはない」ツルは思わず言い返していた。

「そう思っていることが一番の問題だ」十和はわずかに身を乗り出したが、柔らかな口調のまま言った。「やけになっている子供に反抗をしている自覚はない。的確なやり方を知らない、何をしでかすかわからない素人の捨身の反抗が、社会にとっては一番の脅威なんだよ。コミュニティに所属せず、他人の意見を聞こうとしない。孤独で絶望的な状況にどんどん追い詰められていくうち、気づけば極端な行動を取らざるを得なくなる。そうなる前に必要なステップの一つは、まず他人を信頼して、耳を傾けることだ」

 ツルは目を閉じて十和の言葉を途中から聞き流した。なんで今日初対面の人間にここまでボロクソに言われないといけないんだ。

「将来のどこかで、いつか圧倒的なが起こって人生が変わるんじゃないか、と考えたことはないかな。これは私自身の経験として断言してもいいが、。保証のない希望を待つよりも一つずつ自分を取り巻く状況の事実を見るべきだ。そして、事実をありのままに教えてくれるのは一体誰だと思う?」十和は、コーヒーの入ったマグカップを回して、絵の一部をツルに見せると、"Perfect Stranger"というラベルを指で叩いて言った。「だ」

 ツルは無意識のうちに、強い力で両手を握っていることに気付いた。と、同時に、十和のマグカップに描かれているイラストとタイトルがツルの頭の中で結びつき、それが何だったのか思い出した。いつだか話題になっていた海外の本だ。改めてマグカップを見てみると、タイトルの下のあたりに、何か独特のタッチで書かれた文字があることに気付いた。それは、サインのようなものに見えた。

「……それ、私物か?」ツルはマグカップを指して聞いた。

 十和は、いきなりツルがマグカップについて聞いたことに虚をつかれた様子だったが、すぐ答えた。

「ああ、そうだよ。和訳が出る前からのファンでね」

 へえ、と言ったきりツルは黙った。それ以降話が続かないことに、十和はやや困惑した様子だった。

 ツルは、を腕に貼り付けた。

 手を握って開くのを繰り返してみるが、感覚に大きな変わりはなかった。

「チームへようこそ」それを見ていた十和が言った。

 十和はそれから、ツルにかけられていた手錠と足枷を外した。ようやく体を自由に動かせるようになり、ツルが手首をさすると、滞っていた血液が巡っていくのを感じるような気がした。

「それじゃあ、一週間後を楽しみにしているよ」十和が言った。

「期限になったら私はどうすればいい?」

「心配ない。その日が来たらを向かわせよう。仮にキミがどこかへ逃亡を試みるような素振りを見せたら、その場合も同じく迎えを出す。常に監視されていると思っておいたほうがいい」

「そうかよ……」

 ツルは立ち上がり、部屋から出ようと振り向いた。

「キミは正しい選択をした」十和は、ツルの背中に向かって声をかけた。「誇るべきことだ」

 ツルは十和に向き直ると、片手を机の上に置いた。

 十和の顔をじっと見つめてから、ツルは聞いた。

「今の私の心の声がわかるか?」

 十和は、幼い子供を相手にするように微笑んでから言った。

「私もすべてがわかるわけじゃない。教えてごらん」

 ツルは十和のマグカップを掴んだ。半分程度残っていた冷えたコーヒーを床に捨てるついでに腕を振りかぶり、ツルはカップを壁に向かって思い切り投げつけた。カップは壁に当たると同時に砕け、けたたましい音を立てた。破片が地面にばらばら落ちていき、壁にはわずかにカップの中に残っていたコーヒーが付着して、水滴が垂れた。

 ツルはカップが砕ける様を見届けると、十和に向かって笑顔を見せた。

今日きょう死ね」ツルは言った。

 固まったままの十和に背を向けて、ツルは部屋から出た。

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