第4話-② をさらに追い詰める女
「話が見えてきたようだな」女は面白くなさそうに、ソファの背にもたれた。「ただ、何を、というのには答えられない。パスだ。イエスかノーかなら答えてもいい」
「……ここから何かを持ち出そうとしている?」もはや確認するまでもないが、ツルはそう言い直した。
女は頷いて紙を取り、ペンで答えを書き込んでツルのほうへ差し出した。
ツルは自分の答えについて迷ったが、どうやら本当のことを言ったほうが、この場は逃げ道がありそうだと思い、「忘れ物」と書いた。ツルは紙を差し出し、女の出した紙を取った。そこには、見るまでもなく「YES」と書かれていた。
「忘れ物?」ツルの書いた答えを見た瞬間、女は呆気に取られたようにそう言い、目を瞬かせた。「何を忘れた?」
「いや……」ツルは少し言い淀んだ。「先週の給料、を……」
「給料」女はすぐ立ち上がって言った。「どこにある?」
ツルは、いつも給料の入った封筒が置いてある当たりを示した。女はそこに向かい、書類立ての中や箱の中を探し始めた。
「違う、そこじゃない、その隣の……、それだ」
ツルの誘導に従って、給料の入った封筒を手にした女は、ツルに向き直りながら、糊のされていない封筒の口を開けて中身を覗いていた。封筒には、ボールペンで「敷」という字が書いてあり、それを囲うように丸がしてある。
「他には?」女はツルに言った。中身の金額を見て、他にも封筒があると思ったのかもしれない。
「いや……、それだけでいい」ツルは歯切れが悪くなりながらも言った。
女は封筒を持って、ツルの対面に座った。机の上に広げた、ツルの財布に入っていた現金をまとめて財布の中に戻した後、封筒を財布の隣に置いた。
「ならこれで……、問題は解決か?」女は拍子抜けしたようにそう言った。「他に用はないんだな?」
「あ、ああ……」ツルも何か釈然としないまま答えた。
「なら椎木に一切連絡せず、そのまま家に帰れ」
「違う、だからそれが無理だっつってんだ!」ツルは飛び上がって答えた。思い出した。どちらかというとそちらのほうが重要な問題なのだ。「今から何か盗むんだろ? それを黙って見過ごしましたって後から連絡しろってのか! いつ殺してもらえますかって自分から聞くようなもんだぞ!」
「わかってる。落ち着け、座れ」
「頼む、マジで、私はこの仕事を続けないといけないんだ。自分から棒に振るようなことはできない」
「椎木に何か握られているのか」女は考え込むように視線を伏せて言った。
「当たり前だ!」ツルは奥歯を噛み締めたまま、手を震わせながら言った。「そうでなきゃ上野で托鉢でもやってたほうがマシだ」
「とにかく、聞け」手錠のまま掴みかかりそうな勢いのツルを制するように、女は手を前に出してツルをなだめた。「そこに関しては心配はいらない」
女の言う意味がよくわからず怪訝な表情を浮かべているツルに向かって、女は続けた。
「私たちは今日、痕跡一つ残さずこの場を去る。下にいる連中はああ見えてプロフェッショナルだ。この手の仕事をやるのも一度や二度ではない。椎木には今日ここで起こることにお前が関係しているという発想自体そもそも浮かばないだろう。何なら、お前が来る前にすべて終わっていたことにしてもいい」
痕跡一つ残さない、という言い方が、何かを盗み出すということと一致せず、ツルは困惑した。
「私は今日ここでの仕事を終えたら、その結果をもって椎木に接触する」女は続けた。「私が求めているのは、それまで椎木を刺激しないことだ。事前に奴に情報を与えたくない」
女はそう言いながら、鍵を取り出してツルに見せた。ツルにかけられている手錠の鍵だろう。
「それを約束できるなら、私はお前をこのまま解放して、その後は一切お前に関わらないことを誓おう」女はツルの顔を見て言った。「どうだ?」
ツルも女の顔を見返したまま、考えた。何かを言おうとして、口が異様に渇いていることに気付いた。息も上がっており、脈拍も普段よりかなり上がっているような気がした。
女の話を受け入れても、問題ないはずだ。何も痕跡を残さない、という女の話が本当であれば、ツルはただ何も気づかなかったということにすればいい。そうすれば、それ以降も今までと変わらない。
そのとき、アラームのような電子音が室内に響いた。女はその音に驚いたように、一瞬身を跳ねさせ、自分の腕に目を落とした。女が自分の腕時計を操作すると、音は止まった。女の時計から発せられた音だったらしい。
「時間がない」女は言った。「決めろ」
「……わかった」沈黙の後、ツルは言った。「椎木に電話しないと約束する」
そう言った瞬間、何かが頭の中で引っかかったような気がした。
「ありがとう」女は一切感情の籠もっていない声でそう言った。「助かるよ」
女は立ち上がり、ツルのほうへ近づいた。ツルに向かって手を差し出すので、ツルは手錠のかかった両手を持ち上げた。女が手錠を持ち、鍵を差し込もうとする。そのとき、ツルの頭の中で言葉が自分の言った言葉が何度も反響した。椎木に電話をしない。椎木に、電話を、しない……?
「あ」
ツルが声を出して、女の手が止まった。
「……どうした?」ツルを怪しむように女が聞いた。
「いや……、」ツルはそう返したが、自分の声が聞こえなくなるくらいに鼓動の音が耳のすぐ奥で聞こえるのを感じた。
もう遅いんだ。ツルは思った。
電話はすでにしてしまっている。さらに悪いことには、レターパックが切れているというしょうもない理由で電話をしたにも関わらず、その理由を留守番電話に吹き込まなかった。ただ何かが起こっている、ということを示すような内容の電話を、ツルはすでにしてしまっているのだ。それはこの女が避けたがっている、椎木を刺激しないというポイントのど真ん中を撃ち抜いている。最初からこの話は破綻していたのだ。
それがこの女に知れたらどうなる?
ツルは、女の視線が秒ごとに鋭くなっていくのを感じていた。ひとまず、この間を何とかすべくツルは高速で頭を働かせた。
「……そこの壁に」考えた結果、ツルはそう言った。「金庫があるんだけど」
「金庫?」
「私は開け方を知ってる。何か探してるんだろ? その中は先に見ておいたほうがいいんじゃないか」
女は明らかにツルを
「場所はどこだ? 言ってみろ」
ツルは口頭で指示して、女を書類棚の一つのあたりまで移動させて、その棚を動かさせた。棚の影になっていた部分には膝くらいまでの高さの引き戸があり、それを開けた空間に金庫がすっぽり収められている。
金庫が本当にあったことを見て、女はますます困惑した様子でツルのことを見た。
「お前が開け方を知ってると?」女が聞いた。
ツルは頷いて見せた。
「……やってみろ」女が言った。「ただし、手錠を外すのはその後だ」
女に手招きされ、ツルは動かされた書類棚と女の間を通って、金庫の前まで行ってしゃがみ込んだ。ツルは金庫の扉に手を当てて、一度女のほうを見やった。女はツルから少し離れたところに立って、ツルを見下ろしている。
ツルは金庫に向き直った。ツルは金庫のダイヤルに片手を当て、もう片方の手で、戸棚の内側の壁板の、手前の部分に触れた。
実際のところ、ツルは金庫の開け方は知らない。
だが、その戸棚の壁板にテープで銃が貼り付けられていることは知っている。
ツルは、金庫のダイヤルを適当に回しながら、もう一方の手でテープを半分のところまで剥がし、そのまま両手を使って銃を引っぺがした。
ツルは立ち上がって振り向くと、天井に向けて一度撃った。
耳をつんざく破裂音が室内に反響し、虚を突かれた女は身をかがめてよろめきながら、ツルから何歩も引き下がった。ほとんど動物のような反射的な動きだった。排出された薬莢が地面に跳ねて立てた鈴のような音と、硝煙の焦げた臭いが続いた。ツルは心のどこかで事務所がビルの最上階にあって良かったと安堵していた。
ツルは銃を女に向けた。
「動くな」ツルは大声で言った。
女は崩した体勢を立て直そうとして、床に片膝をついている状態だった。女は目を見開いて瞬きせず、ツルをじっと見たままゆっくり両手を広げていった。女の呼吸が激しくなっているのがわかった。ツルも、こめかみのあたりで血管が激しく動いていて、自分が興奮状態になっていることに気づいていた。
「鍵を寄越せ」ツルは言った。
女は、手錠の鍵をツルに向かって床の上を滑らせた。ツルは足でそれを受け止めた。
「頭の後ろで手を組め」ツルは言った。
女はしばらく両手を広げた姿勢のまま動かず、ツルの指示に従おうとしなかった。どころか、ツルに向かって体を乗り出そうとしてきたのがわかったので、ツルは一歩引いて、真横に向けて銃をもう一度撃った。女の動きが止まった。
「動くな!」ツルはさっきよりも大きな声で言った。自分の声で頭蓋骨が振動しているのがはっきりわかった。
女は観念したように、両膝を床についた。その両手がゆっくり動き、頭の後ろで組まれる。その手首にある切り取り線のタトゥーが目に入った。
ツルは、耳鳴りのような音が聞こえ始めたのを感じた。
ツルは銃口を女に向けたまま、汗のにじんできた手で銃を握り直した。
少なくとも、血が流れなければならない。そうでなければ、椎木に説明がつかない。この女によって何かが持ち去られた後、椎木がそれを知った場合、椎木はツルの電話の用件を絶対に疑う。今のままでは筋が通らない。ツルは決して何もしなかったわけではなく、少なくとも何らかの抵抗をしたと思われる状況にしなければならない。
血が流れなければならない。ツルは考えた。問題は、肩か、脚か。
だが、ツルが決断するよりも早く、それは起こった。そのとき、ツルは耳鳴りのような音が大きくなると共に、女の手首にあるタトゥーが、薄いながらもネオンのように淡い緑がかった色を発していることに気づいた。
女が、タトゥーのある腕を動かしたのが見えた。
その瞬間、ツルは自分の体が引っ張られるのを感じた。
それは廊下で起きたことと同じ現象だった。ツルにかけられた手錠が糸で引っ張られるように動き、ツルの体がそれに引きずられている。この女が何かやっている。手錠が自分の意思を持ったように動き、ツルの腕を交差させるように動いた。そのまま可動域以上のところまで腕が曲げられそうになり、ツルは痛みで叫んだ。銃はいつの間にか手から落ちていた。ツルは痛みから逃れようとして、膝をついて体勢を変えようとするが、ほどくことができない。
耳鳴りのような音がより一層強く聞こえるようになった。そのとき、ツルは目に映るあらゆるものの動きがスローになったように思えた。
女は今や立ち上がり、ツルが滑り落した銃に向かって歩き、それを拾い上げようとしている。だが、拾い上げる直前で女の動きが止まった。女は何かに気づいたように、振り返ってどこかを見た。
ツルは女が何を見たのか確かめようとして、視線の先を追おうとした。
次の瞬間、目の前が真っ白に光った。
覚えているのはそこまでだ。
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