第4話-① 追い詰められた女

 女はツルを片手で御しながら、もう一方の手で事務所の扉の鍵を開け、扉を開いた。ほとんど突き飛ばすように事務所の中にツルを押し込み、女は自分の背後で扉を閉めた。

 ツルは転びそうになりながら、ソファの上に倒れ込むようにして座った。

 女は薄暗い事務所の中を、品定めするようにぐるっと見回した。家具に始まり床も天井もすべて舐め回すように観察して、その度に指を折って何かを数えている。室内を歩き回り、引き出しという引き出しをすべて開けては中身を見ている。女は、壁にある電気のスイッチを押した。だが点灯しないのを見て、何度もスイッチを連打したあと、ツルに向き直った。

「電気は?」女がツルに聞いた。

「夜間は点かないようになってる」

「なんで」

「知らねえよ。節電だろ」

 ふむ、と答えたきり、女はまた室内の観察に戻った。すると、その視線が事務所の一角で止まった。ツルが念写に使っている小部屋のある場所だった。

「あれは?」女がまたツルに聞いた。

「知らない。入るなと言われてる」

 ツルは嘘をついたが、女はそれを無視して小部屋の中を覗き込んだ。すると、ほう、と声を上げてツルのほうに向き直った。

「おまえ、念写ができるのか」

 ツルは答えなかった。

 女は意に介さない様子で、一通り室内を観察し終わったあと、ツルの対面に腰を下ろした。

「とにかく……」女は顔を覆った両手の隙間からそう言った。女は、顔を洗うように手をゆっくり滑らせた。指に顔の皮膚が引っ張られて、下瞼の内側の肉の赤い部分が薄暗い中でも見えた。「名前を教えてもらおうか」

 女は、先ほどツルから奪い取った財布を取り出して中身を見た。身分証の類を確認しようとしているのだろう。だが、その途端に眉をひそめてツルの顔を見た。女は財布の中に入っていたいくらかの現金を机の上に広げると、財布をひっくり返して何度も振った。中に入れっぱなしにしていた三本目のたばこが落ちてきた以外は、何も出てこなかった。

 女は空の財布を放り投げると、額に手を当てた。

「持ち物は少なくしてる」ツルは少し得意げな気持ちになりながらそう言った。「こういうことがあるからな」

 女は頭を抱えてしばらく顔を伏せて黙った。かなり長いこと考え込んだあと、ツルを見て言った。

「何故わざわざ戻ってきた?」女は子供を咎めるような口調でそう言った。

 ツルはこれにどう答えるべきかどうか、少し考えた。正直に忘れた金を取りに来たと言ったところで、それで話が済んで解放されるとは思えない。それなら、これ以上不利な立場にならないためにも、可能な限り情報は与えないほうがいいのではないかと思った。

 女の口ぶりからして、女はツルがこのビルを一度出て行ったことは認識しているらしい。一階にいた連中の作業も、ツルが出ていくのを確認してからはじめるように事前に計画されていたのかもしれない。ツルの名前までは知らなかったところを見ると、今日この時間誰かがいるというぐらいのことまでしか知らなかったのだろう。

 ツルが答えないのに耐えかねてか、女が口を開いた。

「今日ここで見たことを黙っていると約束できるなら、見逃してやってもいい」

「できるワケねえだろ」ツルは奥歯を噛みしめながら即答した。この女が何をしようとしているにせよ、椎木への連絡は絶対にしなければならない。そうしなければ、最悪の場合ツル自身が招き入れたと椎木に判断されてしまう可能性もある。

「だろうな」女もそのあたりは推察がついているらしかった。

 女はまたしばらく思案するように黙り込むと、急に立ち上がった。室内を何かを探すように歩き回り、事務用品の棚からコピー用紙を何枚か持ってきて、ツルの前の机の上に置いた。

 女はツルの腕をいきなり掴んで体を持ち上げ、後ろを向かせると、ツルの手錠を片手だけ外した。ツルがその隙に逃げようと思う間もなく、女はツルの体の前で手錠をかけなおした。女はまたツルの対面に座った。

「聞け」女が言った。「私は今一分一秒が惜しいほど急いでいる。尋常じゃないほどに時間が惜しい。お前との腹の探り合いに付き合っている時間はない」

 女はそう言いながら、紙を折り曲げ、折り目に沿って手で切るのを何度か繰り返した。名刺大ほどの大きさの紙がいくつもできあがり、女はそれをツルの前の机に置いた。

「とはいえ、」女は指を立てて続けた。「お前にも事情があるだろうから、私が何者かわからない以上は言えないことも多いだろう。かといって、私も簡単に自分について話すわけにはいかない。そこで提案がある」

 女はスーツからペンを二本取り出して机の上に置いた。

「お互い同時に質問に答えるというのはどうだ。お互いに質問を出して、答える価値が釣り合っていると思ったら、紙に答えを書いて交換する」

「……どうしても答えられないものだったら?」ツルが言う。

「その場合はパスしても構わない。答えてもいいと思ったら、紙を取る。それを合図にしよう」

 ツルは考えた。ツルとしては、椎木に対してこの女の存在を伝えなくてよい、という理由が見つかればそれでいい。ツルがこの女に関与しておらず、ツルは椎木を裏切っていない、と証明する何かがあればよい。そんなものがあれば、の話だが。

 ツルが即答しないのを見て、女は続けた。

「このままじっと睨み合いを続けるか? 私の忍耐力が限界を迎えるほうが確実に先だと思うが」

「……わかった」ツルはまた少し考えて、応じた。

「よし」女は頷いて言った。「じゃあまず簡単なところから始めよう。名前は?」

「パス」ツルは答えた。

「……いいツラの皮だ」女は呆れたように天井を仰いだ。「それじゃあ……、お前は椎木の下で働いてどれくらいになる?」

 ツルは少し考えて、それから紙を取り、回答する合図を見せた。これくらいなら答えても構わないと思った。

 女は、ツルに向かって手で促した。今度はツルが質問できる番だ。

「……誰の指示で動いている?」ツルは頭を最大限絞ってそう言った。

「パス。それは私の質問に対して重すぎる」女は即答した。

 ツルは別の質問を考えるのに、また数秒間黙った。

「椎木に恨みがあって行動している?」ツルが聞いた。

 女は顎をくいと上げると、紙を取った。質問が釣り合ったようだ。

 それを見て、ツルは手元の紙に女の質問への答えとして、「三年半」と書いた。女も同じく紙に何かを書き込むと、紙を伏せてツルの方へ差し出した。ツルも同じようにして紙を女のほうに差し出し、女の出した紙を取ると同時に手を離した。

 女の紙には、「NO」と書いてあった。椎木に対する報復の類ではないらしい。

「一歩前進だな」女はツルの紙を見て、満足げに頷いてそう言った。「次に行こうか。今日、私がここに来ることを知っていた? 知っていた場合、いつから知っていた?」

 ツルは女の顔を見たまま、紙を手に取った。

「……椎木を殺すつもりか?」対する質問として、ツルはそう言った。

 女はすぐに紙を手に取った。

 ツルは紙に「YES」と書き、続けて「昨日から」と書いた。何も知らないと素直に答えるよりも、このほうが女にプレッシャーを与えられるのではないかと思った。

 ツルと女は机の上で紙を交換した。女の紙のほうには、「NO」と書かれていた。

「ルールを追加しよう」女は唐突に言った。先ほどまでとうってかわって声のトーンは低くなり、どこか冷酷な響きがあった。「次に明らかなウソとわかる回答をした場合、その時点でお前の首を絞めるなりして気絶させて別の場所に運ぶことにしよう。お前が昨日の時点でこのことを知っていたのはありえない。なぜなら私が今日ここに来るのを決めたのはだからな」

 女はツルの渡した紙を握り潰して投げ捨てた。ツルは手のひらにじっと汗がにじんでくるのを感じた。対等に質問できるような立場になって錯覚していたが、この状況の主導権を握っているのは依然あちら側なのだ。

「次、」女は続けて言った。「椎木に借りがある?」

 ツルは紙を取った。続けて対する質問を考えた。

「……殺さないまでも、椎木を痛めつけようとしている?」ツルは言った。

 女もすぐに紙を取った。ツルは紙に「YES」と書き、伏せて差し出した。

 女のほうの紙には、「NO」と書かれていた。椎木を痛めつけるような意図はないらしい。

 ツルはそれまでの女の答えから、女の目的が少し見えたような気がして、考えた。椎木に対する暗殺や暴行を目的にした計画ではない。報復行為ではなく、事務所荒らしや破壊行為を目的に事務所に侵入してきたわけでもない。加えて人を動員して、何かを持ち運ぶかのような、かなり大掛かりな準備をしている。女のこれまでの回答が嘘だったとしても、次の質問でそれを確かめる価値はありそうだ。

「次。椎木がいなくなることを望んでいる?」女の言葉で、ツルの考えは中断された。

 ツルはそれを聞いてすぐに紙を取ったが、少し悩んでから、紙を束の上に戻した。即答できる質問だと思ったが、よく考えるとどちらとも言えないことに気付いた。急に、今この場をどこかから椎木が見ているかもしれないという思いがよぎり、それを紙に書くこともはばかられた。

「……パス」ツルは考えた末にそう言った。

 ふむ、と女は何かに納得したように鼻を鳴らした。

「ここに戻ってきた目的は?」女は代わりに聞いた。

 ツルは答えるべきか迷ったが、今なら答えても問題がないように思えた。ツルは紙を手に取った。

 ツルは、次の自分からの質問をどういう言い方をすべきかしばらく考えてから、言った瞬間の反応を見るために、女の目を真っ直ぐに見たまま言った。

「……ここから何を持ち出そうとしている?」

 言った瞬間、女の目が見開くのが、はっきりと見て取れた。当たりだ、とツルは思った。気づかれたことに、女も気づいたようだった。

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