第3話 こちら側のどこからでも切れる女

 ツルは事務所のビルの一階の裏口に向かい、二本目のたばこを吸った。せっかく作った三本目も吸おうかと思ったが、習慣のせいか二本目で満足したのでやめた。事務所を出てから戻るまで、およそ三十分程度経っていた。

 建物の中を通ってエレベータのある正面口まで出たとき、ツルは困惑して思わず立ち止まった。

 ビルの正面口からエレベータに至るまで、床に青いシートが敷いてあった。

 引越し作業でもするように、通路状の突起には緩衝材のカバーがかけてある。正面の自動ドアは現在の時間帯は動作しないはずだったが、左右に開け放たれており、そのドアも保護するように緩衝材カバーがかけてあった。エレベータの内側にいたっても保護されている。ツルがビルを出た時には一切なかったものが、この短時間ですべて敷き詰められたようだった。

 正面のドアの外を見てみると、黒いバンが二台停まっていた。窓ガラス越しに、ドライバー席で人影が動くのが見て取れた。

 業者が作業をするには妙な時間のように思えた。違和感と若干の不安を覚え、すぐに金を回収して立ち去ろうと思い、ツルはエレベータに向かった。そのときちょうど、エレベータ側から正面口に向かっていく作業服を着た男とすれ違った。すれ違いざま、男はツルに会釈した。何も言われないところをみると、エレベータはどうやら普通に使ってもいいらしい。

 ツルはエレベータに乗り、事務所のある五階のボタンを押し、ドアを閉じるボタンを押した。エレベータのドアが閉まる。ツルは大きくあくびして、目を瞑って首を回した。

 しばらくして、何かがおかしいことに気付いた。上がり始めるはずのエレベータが一向に動いておらず、止まったままになっている。見ると、エレベータのドアが完全に閉まっておらず、何かが引っかかっているような隙間が空いていた。ツルは閉じるボタンと開くボタンを連打してみるが、わずかに動きはするものの、それ以上は動かない。閉じ込められたのかと思い、ぞっとしてツルがドアに手をかけようとした瞬間に、何かが動いたのが見えた。

 外側から人の手が入ってきた。

 飛び上がりそうになったツルの目の前で、スーツの袖から伸びている人の手が、ドアを押し開くように指をかけた。その手の皮膚の表面に黒い模様のようなものが見えた。何かが書き込まれているようで、よく見てみるとそれがタトゥーであることに気付いた。小さいハサミから伸びて手首を一周するような、のタトゥーだった。

 ドアが開いた。そこには、スーツを着た見知らぬ女が一人立っていた。ツルと同じぐらいの背格好の、年齢も同じくらいの女だった。片方の鼻の穴にティッシュが突っ込まれているのを見て、ツルは思わず眉をひそめた。

 女はツルに対して軽く頭を下げると、そのままエレベータの中に身を滑り込ませてきた。狭いエレベータの中で、ツルはボタンのパネル側に少し避けた。女はボタンを押そうとしたのか少し身を乗り出したが、五階のボタンが点灯しているのを見てか、何もせず元の位置に戻った。

 ツルと女は同じ方向を向き、無言で立ったままドアが閉まるのを待った。

 ドアが閉まり、エレベータが上昇を始めた。

 女はそこで初めて気付いたような素振りで、鼻に詰めていたティッシュを抜いた。その先端が赤くなっているのが、横目でも見て取れた。女はそれを丸めると床に捨てた。

 ツルは落ち着かない気持ちで、エレベータの階数のランプが点灯するのを見た。二階を過ぎ、すぐに三階になる。

 そのときになって、ツルはこの状況がものだということに気付いた。女は、五階のボタンが押されているのを確認して何もしなかった。女は五階に用があるということだが、五階には椎木の事務所以外に何もない。女は椎木の事務所に何等か関係のある人間だということだ。そして、ツルが五階のボタンを押していたのを見て、ツルもまた椎木に関係がある人間だと、向こうも気付いているということだ。

 ツルは体温が二度ぐらい下がったような感覚を覚えた。一階にいた業者のような連中もこの女に関わりがあるに違いない。わざわざ夜の時間を選んでここにやってくる時点でまともな人間ではないだろうということがわかる。椎木に関わりのある警察かヤクザのどちらかだ。ただのガサ入れ程度のものであれば事前にツルにも連絡が来ているはずだが、椎木からは何も聞かされていない。

 エレベータが四階を通り過ぎた。ツルはドアが開いた瞬間に階段に向かって走ろうと考えた。ツルは信号が青に切り替わるのを待つような気持ちで、階数のランプが切り替わるのをじっと待った。

 五階に着き、ドアが開き始めるのと同時に、ツルは全力で動き出した。

 だが、ツルが逃げるよりも早く、女がツルの腕を掴んでいた。

 ツルは体の勢いをひっくり返されて体勢を崩した。そのまま引っ張られた方向に向かって倒れ込みそうになったが、女はそのままツルの体をエレベータの外に押し出して、廊下の壁に押し付けた。女は掴んだツルの腕を上に向かって折り曲げると、自分の体重をかけて固定し、もう一方の手はツルの頭を掴んでいた。二人分の体重が乗った状態でツルの頭が壁に叩きつけられる。ツルは腕と頭の痛みで思わず叫んだ。ツルは拘束から逃れようとして暴れたが、女は一切動じず、気づけばツルは床に倒されてうつ伏せに組み伏せられていた。五階の床にも、青い緩衝材のシートが貼られていることに、ツルは倒されてから気付いた。

「離せ、ボケ!」ツルが叫ぶと、女はツルの腕をさらに強い力で締め上げ、ツルはその痛みにまた唸り声を上げた。

 女は、まるで暴れる犬を落ち着かせるように、シッ、という音を何度も口から鳴らした。

「動くな」女ははっきりとした強い口調で言った。

「私は何もやってねえぞ!」ツルは叫んだ。

「何もやってない奴が急に逃げるか? とにかく、お前に用はない。そこで大人しくしていろ」

 金属の擦り合うような音がしたかと思うと、ツルは手首に何か冷たいものが触れたのを感じた。しばらくして、手錠をかけられたのだと気付いた。女はそのまま、ツルの両手を後ろ手に手錠で拘束すると、ツルの体を押さえつけていた脚をツルの体からどけた。

 女はツルの体を探るように肩から足まで叩いた。そうして、ツルのジャケットのポケットに入っていた事務所の鍵と、財布と携帯を取り出した。女は満足げに鍵を指でくるくる回しながら、事務所のドアに向かった。

 ツルは、女がツルに対して完全に背中を向けたのを見て、できるだけ動きが見えないよう慎重に、体を横向きに起こした。ツルは体を丸めて片膝を床につき、肩を支えにして下半身を持ち上げ、その勢いで起き上がると、それと同時に女のいる側と反対方向に走り出した。階段のほうまで走りきって、とにかくこの場から逃げようと考えた。

 だが、一メートルもしないあたりで、ツルの体は大きく後ろに引っ張られるようにして倒れた。

 ツルの体は、そのまま再び床に転がった。体が何かに引っ張られたというよりは、ツルの両腕にかけられた手錠が、何かに引っかかったような感覚だった。何が起きたのかわからず振り返るが、女はまだ事務所の扉のすぐ前にいて、ツルとの距離はとても手が届くようなものではない。

 女は、片手で首の後ろを押さえるような格好をした状態で、ツルのほうを見ていた。

 ツルはもう一度起き上がろうとするが、体を起こそうともがいている間に女のほうがツルまで近づいてきて、腕を掴んでツルを起こした。女はツルの体を事務所のほうへと引っ張っていく。

「ナイスファイト」女はツルの肩をポンポンと叩いてそう言った。「とりあえず中で話そう」

「私に用はないんじゃなかったのかよ」

「ないよ。本当にない」

「これから私をどうするつもりだ……」

「それを今から考えるんだ」

 女はツルを引きずるようにして事務所の中に入った。

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