第2話 火をくべる女

 遡ること四時間前。


 の波長は音で聞く。

 念写を行うときは、身体と精神の状態を特定のに合わせる。それは水面に特定の大きさと形の波を起こすことに似ていて、それがずれているとうまくいかないことが多い。周波数を合わせるように心身を念写のまで持っていく。

 経験則的に、音に意識を集中させることが波長を合わせるやり方としてもっとも適している、とツルは思っていた。

 ツルは鼻歌を歌うように、吐く息についでに乗せる程度の音量で、喉で適当な音程を鳴らす。

 ツルはマッチを箱から一本取り出し、火をつけた。パーティションと目張りで作った1メートル四方の空間が、火の明かりで照らされる。ツルはマッチの火を、目の前の机に置いてあるろうそくに移す。耳栓をして、額に上げていたアイマスクを目元まで下げる。

 ツルは自分の出す音に合わせて、自分の体が振動しているのを観察するように感じ取り、音に意識を集中して、波長が合うのを待つ。

 合った、と思ったら、ツルは両手で抱えたポラロイドカメラのシャッターボタンを押し込んだ。

 カメラのローラーが回り、感光したフィルムが排出されてくる音がする。ツルはアイマスクを上げて、カメラからフィルムを引っ張って取り出し、裏返して机の上に置いた。

 ツルが息を吐き出すとろうそくの火が揺れた。念写の間は無意識に呼吸を止めていることが多い。ツルは指を握って開くのを何度か繰り返しながら右手を揉んで、手の痺れる感覚が収まるまで待った。

 ツルは壁にかけたバインダーに挟んだ紙を見て、そこにあるリストから今撮った人間の名前を確認し、フィルムの裏に今日の日付とその名前を書き込む。そうしたら、リストで次の名前を確認する。次の名前を何度も頭の中で唱えると、アイマスクを下ろし、また念写する。

 それを今日のリストに記載されている十数人ぶん繰り返す。

 リストの最後の名前を撮り終えたのを確認すると、ツルは壁のバインダーを取り、積み上げたフィルムを一束に整えて、ろうそくの火を吹き消して小部屋を出た。

 ツルは頭の後ろで一つに束ねていた髪をほどいた。

 新宿三丁目の駅から歩いて数分ほどの雑居ビルのうち、五階に入居している会社の事務所の中の一角に、ツルの入っていた小部屋は作られている。事務所は電気もすべて消えており、ガラス戸の出入り口からわずかに入ってくる廊下の明かりでうっすらと室内が見える。事務所は一角に床より一段高い座敷と神棚があり、中央には応接用のソファと卓があるだけで、デスクの類はひとつもない。

 事務所は、ツル以外誰もいない。というより、この場所にツル以外の誰かがいるところを見たことがない。割り当てられた時間以外にこの事務所に出入りすることを禁じられているため、そもそも他人と会わないよう取り仕切られているのだが、それでも誰一人としてこの事務所に人間がいるのを見かけた覚えがない。

 壁の時計を確認してみると、二十時を回ったところだった。

 ツルは応接用の卓上にバインダーとフィルムの束を放り投げた。

 念写の後には、合わせた波長を外していくための儀式をする。それをしないでいると、手に痺れた感覚が残ったまましばらく戻らないことがある。気休めのようなものだが、それでもやるとやらないでは違いがある。

 当初、ツルはいろいろと調べた結果、一番近い神社まで出向いてそれを行っていたが、試行錯誤して効率化していくうち、事務所の神棚で代用しても問題ないことに気づいた。

 ツルは事務所のシンクで水道をひねり、手を洗い、水を口に含んでうがいをした。使い捨ての布巾とキッチンペーパーを一枚ずつ取り出し、キッチンペーパーは四つ折りにして、和紙の代わりに口に挟む。

 ツルは事務所の隅に立てかけられていたヨガマットを座敷の上で広げると、神棚に向かって一礼し、神棚をマットの上におろす。口に挟んだキッチンペーパーの隙間から息が漏れてかからないように気をつけながら、神棚からお札を取り出して脇に置く。布巾で神棚を一通り掃除してからお札を戻し、神棚を元の位置に戻し、また一礼する。

 それからツルは、マットの上で足を組んで目を瞑り、波長が外れるのを感じるまで待った。完全にが切り替わるまで、十五分ほどかかった。

 外すのに成功したあとは仕事に戻る。再び目を開けたツルは、座敷から降りてソファに向かった。

 ツルは携帯でライトをつけ、端末カバーを折り返してスタンド状にして卓上に置き、手元を照らす。事務所の電気は点かないようになっている。暗闇に慣れていた目に光が飛び込んできて、火花が散ったように目の前が明るくなり、ツルは目を細める。ツルはフィルムの束から、一番最初に撮ったものを取り出した。ツルの使っているポラロイドの現像時間はカラーでも十分程度なので、全てとっくに現像が済んでいる頃合いだ。

 ろうそくの火の目の前で撮影したフィルムには、どこか見知らぬ場所と、その中にある人影が写っていた。

 ツルは写真の中を一通り見回してみて、フレームに収まったやや遠くの電柱に、会社の広告のようなプレートが貼り付けられているのを見つけた。輪郭がぼやけていて文字がやや読みづらかったが、目を凝らしてその文字を読み取る。読み取った会社名をネットで検索して出てきた住所を、バインダーの名前のリストのうち、該当者の備考欄に丁目まで書き込む。

 フィルムの束から次のものを取り、同じように目印になるものがあれば住所を調べて書き込んでいく。何も手がかりになるようなものがなければ、備考欄には「不明」と書き込む。撮った順が後のものになっていくにつれ、写し出される風景の輪郭が鮮明になっていっているのが見て取れる。後のものでも、集中力が切れた状態で撮ったものなどは、文字が写っているとわかっても読み取れないほどにぼやけていたりする。

 ツルが何枚目かのフィルムを束から取って写真の面を見てみると、何も写っていなかった。目の前にあったろうそくの火も、何一つなく、まばらに感光の跡のような点がいくつかあるだけだ。

「お」

 思わず声が漏れる。

 真っ黒なものが写るのは、念写の失敗によるものではない。念写が失敗しているのであれば、ただカメラの目の前にあったろうそくの火だけが写ったフィルムが出てくるからだ。火すら写らずただ真っ黒であるというのは、ツルの念写において特別な意味がある。

 死んだのか、こいつ。

 ツルはフィルム裏の名前をリストの紙から見つけ出し、備考の欄に「死亡の疑い」と書いた。

 実際にその名前の人物と会ったこともなければ、どういう人間だったのかも知らないが、名前だけは毎回リストに出てくるのを見ていたので、ちょっとした知り合いが死んだのを知ったような気分だった。

 ツルは真っ黒のフィルムをしばらく見つめながら、裏に書いた名前を確認する。そして、そこに写っていた人間についてしばらく考えた。その名前の人物が、これまでどういう生活をしていて、なぜこのリストに名前が載る羽目になって、どのようにして死んだのかに思いを馳せた。単調なこの仕事の中で、死人が出たときが唯一の刺激といってよかった。

 数分もすると、ツルはそれを確認済の束の一番上に置き、次のフィルムを取った。

 すべてのフィルムの確認作業が終わると、時刻は二十二時になろうとしているところだった。ツルは脱力して背筋を伸ばす。首の骨が鳴るのを感じた。気が抜けるとあくびが出た。

 ツルは確認したフィルムの束を整えて、輪ゴムで縦横に縛った。ツルはソファの背に掛けていた白のトラックジャケットを拾い上げて羽織った。ツルは名前のリストとフィルムの束を持って、事務用品が入っている棚に向かった。

 ツルは、そのリストに載っている名前がどういう人間なのかは知らない。ツルが用意した写真と住所がどのようにして使われるかも知らない。ツルの仕事は、週に一回無人の事務所でただ念写を行って、リストとフィルムの束をレターパックで指定の住所に送るだけ。そうすれば、次の週には事務所に報酬の二万二千円が入った封筒が置かれている。生活をするにはギリギリすぎる金額だが、使う時間と労力に比べるとまあ割はいいのではないかと思う。ツルは事務用品の棚からクリアファイルを一枚取り出し、リストの紙をそこに入れた。

 それからツルは、足元に三つあるうち一つのゴミ箱の蓋を開け、その中の袋を取り出すと、机の上に運んだ。

 そこには、この一週間で事務所に届けられた郵便物の類が溜まっている。可燃ごみの回収日前になるとシュレッダーにかけられて捨てられてしまうものだが、その前に事務所に来ているツルはその中身を見ることができる。

 ツルは引き出しの中身を一旦すべて机の上に並べた。

 差出人や日付に注意しながら、ツルはそれを仕分けて並べていく。ほとんどは実際にただ廃棄されるだけの意味のないものだが、その中にがないか期待してツルはこの行為を繰り返していた。何か変わったものがないか、何か注意すべきものがないか、何かの材料として役に立ちそうなものがないか。

 今週の郵便物には、やけに同じものが多かった。数十通ほどの青色の封筒があり、差出人には"日本イーリアス株式会社"という名前が書いてある。封筒の中身は全てカラだった。もう一つ気になったのは、別の会社から一通だけ来ている茶封筒だ。こちらは中身が入っていて、開いてみると債権譲渡通知書と書かれた書類が入っていた。金を借りていた先で、債権の所有者がどうやら移ったらしい。譲渡先として、"神田莉子"という名前が書いてあった。大量の青い封筒も債権譲渡通知書も、妙だなとは思ったものの、決定的に何かに使える情報というようなものではない。ツルは落胆して、広げていた郵便物をすべてゴミ箱の中に戻した。念のため、日本イーリアスと神田莉子という名前だけ、後で調べようと思いボールペンで手に書き込んだ。

 それから、ツルはレターパックを事務用品の棚から取り出そうとして、そこで気づいた。

 レターパックの予備が一通もない。

 棚を覗き込んで隅まで探してみるが、どうやら補充されないまま切らしてしまったらしい。

「ウソだろ……」

 郵便局はもう閉まっているが、コンビニでも買えなくはない。とはいえ一通370円。ツルはジャケットのポケットに突っ込んでいた二つ折りの財布を開けてみる。千円札が一枚と小銭がいくらかしか入っていない。絶対に自腹で払いたくはないが、仮払いというシステムがこの仕事に存在しているのかそもそも確認した覚えがないし、あったとしても一時的とはいえ370円を手放すのは惜しい。

 ツルはしばらく室内を歩き回って、悩みに悩んだ末、携帯の連絡先から椎木シギを選んで電話をかけた。

 呼び出し音を聞きながら、ツルは鼓動が早くなっていくのを耳の奥で感じた。何かあったら電話していいとは言われているものの、この程度のことで気軽に連絡をしていいような相手ではないことに違いはない。

 しばらくすると呼び出し音が消え、留守番電話の音声につながった。

 つながらなかったことに落胆するとともに、どこか安堵の気持ちがあった。

「お疲れ様です。敷島です。これ聞いたら連絡ください」

 ツルは留守番電話のビープ音の後、そう吹き込んで電話を切った。

 ともかく、どうやら今日のところは手持ちの金で送付しなければならないようだ。ツルは事務用品の棚に入っている手巻き用たばこの葉のパックのうち、軽い腹いせのつもりで、未開封のものを取り出して開けた。手巻きの紙とフィルターも取り出して机の上に並べ、いつも二本のところ三本作った。葉を広げた紙に乗せ、唾液で紙面の糊を溶かして丸めて閉じる。そうして作ったたばこをポケットに入れた。

 ツルは転がっていたコンビニのビニール袋を拾い、そこに紙の入ったクリアファイルとフィルムの束を入れて事務所の外に出た。

 ツルは事務所のドアの鍵穴に鍵を差し込んで施錠した。ドアのガラス部分には、"有限会社エヌズ・プロ"という文字と、""の文字がある。ツルはドアを引いてみて、施錠されていることを確認してビルの外に向かった。

 ツルはエレベータでビルの一階まで降り、裏口に置いてある吸殻収集缶の近くで、持ってきたたばこを一本吸ってからビルから出て歩いた。末廣亭の前を横切ってそのまま大通りに出ると、新宿三丁目の駅のC4出口近くにあるファミリーマートに向かった。レジでレターパックライトを買い、そのまま店内のマルチプリンターの上で、宛先として指定されている住所をレターパックに書いた。差出人の欄には事務所の住所でもないどこかの住所と誰かの名前を、いつものように書いた。もらった領収書は財布にしまった。

 ツルは新宿三丁目の駅のC2出口前にある郵便ポストに向かい、そこにレターパックを投函した。仕事が終わった、という束の間の解放感を感じる。

 そのまま帰ろうと駅に向かって踵を返したところで、何かを忘れていることに気づいた。

 事務所から先週分の給料を回収していない。

 自分の間抜けさに呆れてしばらく立ち尽くしていたが、気を取り直して一旦事務所に戻ることにした。歩き始めたとき、顔に水滴が当たって冷たさを感じた。小雨が降り始めている。

 ツルはトラックジャケットのフードをかぶった。

 路地に入ったとき、背後でけたたましい音がしてツルは思わず振り返った。見ると、道の曲がり角にあった空き缶のごみ箱が蹴倒されて、中に入っていた空き缶があちこちに転がっていた。振り返ったツルの横を、スケートボードに乗った見知らぬ若い男が、携帯を片手に掲げたまますれ違っていった。どうやらその男が曲がり角でぶつかったようだ。

 ツルの足元に、空き缶の一つが転がってきた。ツルはそれを拾い上げると、走り去っていく男の頭を狙って、それを思い切り投げた。

 缶は当たらず、狙いのはるか手前に落ちて音を立てた。

 ツルは遠ざかっていく男の姿を、見えなくなるまでじっと見ていた。

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