けしドッグ!/ネバラ、今今に消える女

犬飼バセンジー

けしドッグ!/ネバラ、今今に消える女

01: 幽径

第1話 掟に囚われた女

 ここに永遠の現象がある。死んだ哲学者がそう言った。

「……つまり、私はいま異世界にいるってことか?」ツルは聞いた。

「いや、違う」

 十和とおわと名乗ったその女は、ツルの言葉に一瞬だけ顔を上げたが、変わらず明らかな作り笑いのままそれだけ言うと、また手元の書類に目を落とし、作業に戻った。

「……もしくは私はもう死んでいて、この会話自体が仮想空間で行われているとか――」

「警告はしたよ」十和が手を止めて、ペンの頭をツルの顔に向かって突きつけた。「あまり非協力的な言動を続けるようなら、妨害行為として報告する必要がある」

「――#ハッシュタグムーンショット計画」

「報告しておこう」

 十和は手元の書類で、何かのチェックボックスにチェックを入れた。

 ムカつく奴だ。ツルは頭の中で十和にのラベルを貼った。

 ツルは椅子の背に体を預けた。

 窓も何もない扉ひとつの密閉された空間で感じる時間の流れは、外に比べて恐ろしく長いように感じられた。この部屋に叩き込まれてからどれくらいになるのか、ツルにはもはや見当もつかない。

 十和はそれきり何も言わず、しきりに何かを書いていたが、しばらくすると室内にアラームのような電子音が鳴り響いた。十和はその音を聞くなり、立ち上がって言った。

「よし。私は少し離席するが、体の様子はどうかな? 気分が悪くなったり、目眩がしたりは?」

「……腹が減って死にそうなんだけど」

「問題なさそうだね」

 十和は並べていた書類をまとめて持ち、ツルを一人部屋の中に残してどこかへ行った。

 ツルは、十和がすぐに戻ってこないことを確認すると、この隙に逃げ出せないかと思い体を動かそうとした。

 だが、ツルの両手にかけられた手錠は、鎖の中央が床から伸びているさらに別の鎖につながっており、腕を折り曲げた状態から伸ばすことすらできなかった。両足が拘束されている椅子は、それ自体が床にボルトで固定されており、ツルがいくら体を動かしても一ミリも動きそうになかった。

 頭がぼんやりしてうまく働かない。目覚める前後の記憶が判然としていないのを感じる。

 検査の一環だと言われて血を抜かれたような覚えがあるが、いまいちはっきりと思い出すことができない。それから見慣れない機械を使って、視界を横断する無数の赤いレーザーを何度も何度も見せられた覚えがある。目を瞑るとその残像が浮かんでくる。

 ツルは体を思うように動かせない苛立ちで舌打ちした。すると、その拍子に口内に異物感を感じた。奥歯の間に何かが挟まっているような感じがする。ツルが口を開けて親指でその部分に触れてみると、わずかな痛みと、小枝を折るような感触と共に何かが舌と歯の間に落ちた。

 反射的に手のひらにそれを吐き出してみると、血の付着した自分のだった。

 頭を壁に叩きつけられたときに、どうやら折れていたらしい。口から歯を取り出した拍子に飛び散った血の飛沫が、机の上と、ツルの着ていた白いトラックジャケットに散った。

 毎日眠りから覚めるたび、今日が人生で一番最悪な一日になるかもしれない、という予感がしていたが、どうやら今日が本当にその日らしい。

 ツルの奥歯が机の上に落ちて跳ねた。冷えた机の表面をプラスチックで叩くような軽い音を立てて、ツルの奥歯はランダムな方向に二回跳ねて転がった。ツルは思わず、虫を捕まえるように、手で覆って転がる歯を受け止めていた。指先で歯を拾い上げて、しばらく蛍光灯に照らしてその形状を観察してみる。なんとなく、ツルは歯を持った手を上げ、今度はさっきよりも高いところから落として跳ねる様子を見た。何か自分以外に動くものがあるというだけで、ずいぶんと気が紛れるように思えた。しばらくそうして落としてみたり、机の上で人形のように歩かせてみたり、鼻の穴に詰めてもう一方の穴を指でふさいで鼻息で吹き飛ばしたりして遊んだ。

「——いやあすまない、待たせたね」

 そうして何十分か経ったころ、十和が部屋に戻ってくるなりそう言った。

 ドアが急に開く音に驚いてしまい、ツルは机の上で転がっていた歯を捕まえ損ねた。歯はそのまま机の端から落ちていき、部屋の隅まで床を転がっていった。

 歯の転がっていった先をじっと見ているツルの視界の端から、十和のグレーのスーツの腕が入ってきて、持っていたマグカップを机に置いた。カップの表面には、どこかの都市のような風景を、赤を基調にしたフラットなデザインで描いた絵がプリントされていて、その上部に"Perfect Stranger"という文字があった。ツルはその絵がどこかで見覚えがあるような気がしたが、思い出せなかった。カップの中には、半分ほどまでコーヒーらしき液体が入っていた。それから十和は個包装のクッキーを二つとペットボトルの水を、ツルの前に置いた。

篝屋かがりやのエレベーターはね、とにかく待つのが困りどころなんだよ。ビルの大きさに対して台数がどうも少なすぎると思うね。第一呼んでから来るまでが遅いし、ようやく来たと思ったら満員だってことが多すぎるんだから――」

 喋りながらツルの対面に腰を下ろした十和は、そこで言葉を止めたかと思うと、ツルの顔を見て眉をひそめた。何かついているというように指で顎を示す。ツルが自分の指で顎に触れてみると、そこにも血がついていた。ツルは指同士を擦り合わせて付着した血を拭った。

「さて、」十和は何事もなかったように話し始めた。「話を始めようか」

「さっきまでのは何だったんだ」ツルは言った。

「会話して問題ないか確かめるための会話といったところかな」

「ああ、そう……」ツルは目玉を回して天井を仰ぎ見た。「私は合格したわけ?」

「ギリギリね」十和はわざとらしくウィンクしてみせながら言った。

 十和は、マグカップと共に持ち込んできていたスーツケースから、青いファイルバインダーを取り出して、机の上に置いた。何百枚でも入りそうな厚みのバインダーだった。バインダーの背には事件番号にあたるのだろう数字や、何かの情報が書き連ねてあった。そのうちの提出元組織の欄には、と殴り書きされている。どうやらへのリブランディングが完了した今でも、内部的には"東京都反社対策部"のままらしい。十和が首から提げている顔写真付きのカードをあしらうデザインは、昔の堅苦しい組織名の面影がかけらもないほどに洗練されている。

「さて、じゃあ改めて――、」十和はバインダーを開き、そこにある書類に書いてあるらしい内容を読み上げた。「敷島しきしま・ツル、RAPラップ登録番号03-12088……」

 RAP――反社会的勢力情報管理台帳レコーズ・オブ・アンチソーシャル・パーソナリティの略称で、個人・組織を問わず種々の犯罪者などの情報が登録されているデータベースのことだ。

 十和は続く内容を黙ったまま目を通し、口を結んで何やら難しい顔を作り、うんうん頷いてみせた。

「なるほど、この経歴じゃあまず一般企業は受かるまい」

 余計なお世話だ、とツルは思った。

 十和はバインダーに閉じられたファイルをパラパラとめくっては、何かを考え込むように唇に指を当てて黙った。

「キミと話したいことはいくつかあるが……、まずはの話からしよう」

 十和はマグカップからコーヒーを啜った後、バインダーから何かを取り出した。輪ゴムで留められた写真の束のように見えた。

「我々の見立てによると……、今からおよそ四時間前、」十和はちらりと自分の腕時計を見た。「椎木シギ神社において銃の発砲があったと見られている」

 十和は言いながら、写真の束から一枚を引き抜き、ツルにその内容を見せた。そこに写っているのは、ツルの見慣れた場所だった。写真はその天井と思しき場所を撮影していて、そこに穴が開いているのが見える。十和はその写真を机の上に置いた。

「それも二度ね」

 十和は別の写真を見せながらそう言った。同じ場所の、壁に開いた穴を撮影した写真だった。十和は二枚目の写真も机の上に置いた。

「まずは、そこに至るまでの経緯について、キミの視点で見たものをすべて話してもらいたいと思っている」十和は言った。「キミの置かれた状況については、その後で説明させてもらおう」

 十和は、それから他の写真についても一枚ずつツルに見せてから律儀に机に並べていった。ポラロイドカメラが写ったもの、セミオートの拳銃が一丁写ったもの、形の歪んだ手巻きたばこが一本写ったもの、その他もろもろ。

 十和はそれを並べ終わると、いつでもどうぞと言わんばかりにツルに向かって手を広げてみせた。

「……私の見たままでいいんだな」

 ツルが言うと、十和は無言のまま頷いた。

「わかった、よく聞けよ」ツルはそう言うと、喉を一度鳴らした。「昔々、あるところに……」

「ああ、一つ言い忘れていた」十和が指を立てて、ツルの言葉を遮った。「今日、私はキミのカウンセラーとしてここに来ている。二時間までは相談無料ということになっているが、それ以降は別途清算が必要になるので、そのつもりでいてほしい。言っておくが、私の時間単価は非常に高いよ」

「そうかよ……」

 ツルは空気を漏らすように小さくため息をついた。すると、歯の抜けた部分を風が通り抜けていくのを感じた。ツルは椅子の背に体をもたれかけた。ツルは室内を見回して、見知らぬ部屋の中に自分の体が拘束されているという事実を確認すると、なんでこんなことになったんだ、と再確認するように思った。全身の筋肉から力が抜けて行って重くなり、夢の中にいるような感覚を覚えた。

 十和は作り笑いを顔に貼り付けたまま、ツルの言葉を待っている。

 永遠というのは幻想だ。ツルは自分に言い聞かせるようにそう思った。

 それに気づかない奴だけが、少し長く続くだけのものを永遠だと思い込んでいる。

 ツルは十和が机の上に置いたペットボトルを手に取り、フタを開けて水を口に含んだ。

 ツルは水で口をゆすいで飲み下すと、話を始めた。

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