スラム街編.22.満ち足りない
「――ゲホッ、ゴホッ」
ザバリと音を立てながら用意していた通路へと上がる……呑み込んでしまった水を吐き出してから着水する前に《配置》で移動すれば良かったと気付しましたが、それこそ今さらですね。
地下水脈というだけあって息が白くなるほど気温が低く、水分を吸収して体温を奪う制服が重く、濡れた髪が顔に張り付いて気持ち悪い。
「はぁ……はぁ……」
反省点は多々あります。未だに地球の意識が抜けず、激しい水流から放り出されて落下していくだけの人間は、頭上から吊り天井を落とせばそれだけで死ぬだろうと最後の詰めを怠った事です。
一連の罠で仕留め切れなくても、最終的に彼は受け身が取れずに落下していました……つまりは落下予想地点にさらなる罠を仕掛けていれば致命傷、ないし重傷を与えられていた筈でした。
途中で激流を寸断し、息継ぎを行った時にも驚きましたが、どうやらこの世界の人間は一定以上の質になると人間を辞めてしまう様ですね。
そして何よりも、私の戦闘技術があまりにも稚拙でした。
ダンジョンという、完全なる自らのホームで対峙したのは既にボロボロの相手……であるにも関わらずあのままでは勝つ事は出来なかったでしょう。
これではいけません。いずれ他のダンジョンを攻略する為に私自身がダンジョンの外で活動する時間が長くなるというのに、女神の使徒に追い詰められた際に最後の戦力でもあるというのに。
そして何よりも――強くならなければ自由にはなれないというのに。
しかし、まぁ……保険があって絶対に負けはしない確信がありましたので、彼はとても良い練習台にはなりましたね。自らの至らない部分も洗い出す事ができました。
……数々の力を奪われている筈のアークが現状でもあれほど強いとは思いませんでしたが。
「――くッ、フフ」
それにしても寒い――凍えるように寒いのに身体は煮え滾るように熱い。
身体の芯を貫く衝撃が、脳内から溢れ出る多幸感が癖になってしまいそうです。
「はっ、はっ、はっ――」
酩酊してしまったかの様に視界がグルグルと回って立っていられず、そのまま横向きに倒れてしまう。
下腹部から全身がバラバラになってしまう様な気がして、ナニかを守る様に身体を丸めてやり過ごそうとするも背筋を貫く快楽に腰が浮き、図らずとも寝返りを打つ形になる。
まるで全力疾走したかの如く荒れる呼吸……全身は冷え切っている筈なのに、吐き出される呼気は熱を伴ってタイルを曇らせていく。
「んっ、グッ――」
ガチガチと鳴ってしまう奥歯を収めるため、自らの指を噛み締めて血を滴らせる。
「ふふっ、ふは……アハハハ……」
この世界に来て初めて食べるご馳走はあまりにも複雑な味わいで、咀嚼すればする程に私に悦楽を与えてくれる。
いつもと違って即座に消化されないのはその大きさのせいでしょうか? この期に及んでもまだ足掻こうと、私のお腹の中で暴れて刺激を生み出す。
「――アッハッハッハッハッ!!!!」
もう何度も絶頂に達しているのに、未だに私の中で幸福感が溢れて止まらない。
ただの醜男を殺してコレですか? 今からこんな調子では私の身がもちません……いいえ、お腹が空いてるからこその歓喜なのでしょう。
「……はぁ、もう……もっと欲しい……」
早くこの飢餓状態から抜け出したい、もっと沢山の魂を頬張りたい。
色んな味を食べ比べて、お腹いっぱいになるまで満たされたい。
こんなの毒になると分かり切っていた筈なのに、欠食児童が半端にご馳走様を食べてしまって……むしろ更にお腹が空いてくる。
「くっ、ふぅ……はぁ……」
脳が痺れてしまうくらいの快楽に翻弄されたと思ったら、一転して頭がおかしくなってしまうそうな程の強烈な飢餓感に襲われる。
もっと食べたい、もっと味わいたいと、お腹が空いて空いて仕方がない。
【お、これはいつに増してもひでぇな】
あまりにも強烈な快楽と飢餓感に脳がバグってしまったのか、もうたった一つの事以外は考えられない。
上体だけを起こし、肩で息をしながらボンヤリとした視界で捕らえたアークにただ己の欲求のみを述べる。
「――もう、我慢できません」
【お前が望むなら】
「――給仕をなさい」
僅かな星明かりのみが頼りの新月の夜――草木すら眠り、静寂が耳に痛いこの時間帯のスラムに異形の影が無数に現れる。
感覚の鋭い者なら顔を顰めてしまう程の異質な気配を放つそれら……下水道へと続く
スラムの住人にとって馴染みのあるボロ布を羽織った
彼らは空腹に喘ぐ私の命令を遂行すべく、この掃き溜めの中に未だ残る命を刈り取っていく。
「――……」
気配に敏感な者が異常に気付いたとしても声を上げる事すら出来ずに息の根を止められ、その数秒後には死者の戦列に加わっていく。
『アァ――……ァ……』
魂はそれこそ残りカスに至るまで
スラムに於いては珍しい健康的な肉体を持ったギャングの遺体からはグールを、ガリガリに痩せ細った大多数の住人はスケルトンに、肉体の欠損が激しい者達はレイスへと……そうして新月の夜に行われる死者の行進は規模が大きくなってゆく。
「――ッ?! て、敵襲ー!!」
寝ずの番をしていた見張りが仲間の構成員を起こしますが最早なんの意味もありません。
既に数の差は覆せない程に開き、主力となる実力部隊はダンジョンに呑み込まれたばかりで居らず、元来大小複数の組織が乱立する烏合の衆を統率できる程の実力者なんて存在するはずもない。
組織的な抵抗など出来るわけもなく、魑魅魍魎の波に押し潰され、何が起きているのか理解する事すら出来ずに
「……ぅ?」
何が起きてるのか分からないまま、幼い子ども達が悪霊に生気を吸われ事切れる。
「あ、アァ……!!」
病に伏せた娼婦、飢えて動けない老人……寒空の下で寝転がるしかない彼ら彼女らを、骸骨がそっと介錯していく。
「いったいなにがっ――」
荒事に慣れた粗暴者だろうと関係なく、死者の波は全てを押し潰す。
「――アハッ」
夜空に鳴り響く凄惨な悲鳴にそっと耳を傾け、ダンジョンと化した地面に染み渡る血を全身で感じ取り、食べた端から運ばれて来る
私が死者を引き連れ歩く度に、私を中心として
拡張された五感は獲物が発する断末魔を聞き漏らさず、最期の死に顔をじっくりと眺め、芳醇な血の匂いを嗅ぎ取り私を悦ばしてくれる。
「美味しい、美味しい、美味しい、美味しい――」
全身で感じ取る食事の快楽にどうにかなってしまいそうで……けれども、それでも――
「――まだ足りない」
――その夜、スラムから全ての命が消え失せました。
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