第11話 フェンリル、ご乱心

 体ごと持っていかれそうな強い突風に煽られて、コーデリアは床に膝をついた。顔を上げて見れば、ひなが一人だけ平然と立っている。その隣には、ひなより二回りは大きいであろう、禍々しい巨大な獣が現れていた。


(あれが……聖獣フェンリル!?)


 フェンリルは体こそ真白だったが、濁った闇色の瞳は憎悪で吊り上がり、大きく開かれた口からは涎がダラダラと垂れている。大きな白い牙が、刃のような鋭さで光っている。飢えた狼ですら、ここまで恐ろしい形相はしていないだろう。


(原作と全然違うじゃない!)


 コーデリアは心の中で叫んだ。


 原作のフェンリルは美しい獣で、澱んだ空気をひと睨みで吹き飛ばしてしまうほど、神聖で気高い獣だった。


 前世のコーデリア加奈は、フェンリルのこともすごく気に入って、アイザックと同じぐらいグッズも買った。……だと言うのに。


(これじゃ……これじゃ本当にただの怪物みたい……!)


 好きだったフェンリルの面影はどこにもない。恐ろしさよりも悲しさの方が優ってきて、コーデリアは咄嗟に口を覆って涙をこらえた。


「……加奈ちゃんのせいだよ。加奈ちゃんが、私の言うこと聞いてくれないのが悪いんだからね」


 いつの間にか目の前にゆらりと立ったひなが、濁った目でコーデリアを見下ろす。


(この期に及んで……!)


――ぶちんと、堪忍袋の緒が切れる音がした。コーデリアはすくっと立ち上がると、思い切り右手を振り上げる。


 パァンッ!


 頬を弾く乾いた音が、謁見の間に響いた。


「いい加減にしなさい!」


 もう、周りの目などもうどうでもよかった。


「わがままを言って困らせているのはどっちなのか、よく考えなさい! 今まではなんでも望みが叶って来たかもしれないけれど、今は違うのよ! 私はもう加奈じゃないし、あなたもひなではないわ! しっかりと目を見開いて、現実を見なさい!」


 ひなは打たれた頬を抑えて、ぺたりと地面に座り込んだ。その呆然とした姿は、初めて親に怒られた子供のよう。コーデリアの心がちくりと痛んだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


「そこで見ていなさい! あなたのわがままで国が滅ぼされそうになっているけれど、そんなことはさせないわ。私が止めてみせるから!」


 これは完全に強がりだったが、その言葉は同時に自分に発破をかけることにもなった。


(そうよ! フェンリルがなんだって言うのよ! こちとら転生者で女神さまから譲り受けたチート機能持ちなんですからね! 多分!)


 ギンッ! と音を立てそうな勢いでフェンリルを睨みつける。

 禍々しい獣は太い牙を剥き出しにして、今にも飛びかからんばかりの勢いでこちらを睨んでいた。その恐ろしい姿にぶるっと震えが走ったが、強く手を握って自分を奮い立たせる。


 そして。


 ゴッ! と風を切る音がしたのと、フェンリルがコーデリアに飛びかかってきたのは同時だった。


 予想よりもずっと早い動きに、反応がコンマ1秒遅れた。その間に、フェンリルの巨大なおとがいがコーデリアの目の前に迫っていた。のど元に迫る、ギラリと光る鋭い牙。遠くで母の悲痛な叫び声が聞こえた気がした。


(しまった! 遅れ、をっ……!)


 頭の中に“死”の文字がよぎった次の瞬間、コーデリアは横から突っ込んできた誰かによって吹っ飛ばされた。先ほどまで彼女が立っていた場所で、ガチンと牙が空振る音がする。


「きゃあ!」

「逃げろ!」


 強かに体を打ち付けられた後に聞こえたのは、切羽詰まったアイザックの声だった。どうやら彼が助けてくれたらしい。


「あ、ありがとうございますわ……!」


 体を起こすと、アイザックがものすごい速さで魔法を展開しているのが見えた。瞬く間に分厚い水でできた防御璧が二人の周囲に張り巡らされ、何本もの鋭い水の槍が作り上げられていく。


「殿下! ここは私が! 水魔法は、聖獣にはあまり……!」

「わかっている! だが、君だけが戦っているのをただ見ていろと!?」


 水魔法は癒しの魔法であり、攻撃力は低い。さらに聖獣に対して闇魔法以外のほとんどの魔法は威力が半減する。それは彼もわかっているのだろう。


 案の定、アイザックから放たれた水魔法は、フェンリルの太い前脚によっていとも簡単に叩き落とされた。張っていた防御魔法も、鋭い爪のひと掻きでバシャ! という水音とともに無に帰る。かと思うと、巨大な牙が現れ――アイザックの右腕にめり込んだ。


「ぐっ……!」

「殿下!」


 ジャンが咄嗟に火の塊をフェンリルの顔面にぶつけて若干勢いを削いだものの、牙は容赦なかった。メキメキという恐ろしい音とともに辺りに鮮血が飛び散る。その色があまりに赤くて、コーデリアの頭にカッと血がのぼった。


「ジャン! 拘束を手伝ってくれ! コーデリアは今のうちに逃げるんだ!」


 苦痛に顔を歪めながら、アイザックが息も絶え絶えに叫んだ。見れば、アイザックは嚙みつかれたまま、いくつもの水の鎖を展開してフェンリルを拘束しようとしていた。


(殿下に……何てことを!)


 怒りに顔を染めたまま、コーデリアは立ち上がって勢いよく駆け出した。目標はフェンリルだ。走りながら右手に、全ての魔力を集める。


「しっかりしなさい! あなたは聖なる狼! 皆を守るのが役目でしょう!?」


 叫びながら、未だアイザックの腕に噛み付いて離れないフェンリルの横っ面に、渾身の右ストレート――ありったけの闇魔法を添えて――を、ぶちかました。


 ドォン!!! と言う音ともにフェンリルの体が吹っ飛ぶ。


 解放されたアイザックが、ドッと尻餅をつく。はずみで勢いよく血が噴き出した。


 すぐさまアイザックが自分自身に治癒魔法をかけはじめるが、なかなか傷は塞がらない。どうやらフェンリルの与えた傷はただの傷ではないようだ。コーデリアは駆け寄り、泣きそうになりながら叫んだ。


「どなたか! ほかに水魔法の使い手はいらっしゃらないの!? 早く来て!」


 アイザックの右腕からはまだ血が溢れ出ており、今や大きな血だまりを作っている。水魔法使いたちが慌ててかけよってきたが、かけた治癒魔法が片っ端からはじかれていく。何やら普通の傷とは違うらしい。何もできない悔しさに、コーデリアは拳で床を叩いた。


(ああ、私が聖魔法使いだったら!)


 そこまで考えてはたと思いつく。


「ひな! あなたこっちにいらっしゃい! 殿下の傷を治して差し上げて!」


 まだ呆然と座り込んでいたひなは、コーデリアの怒声にビクッと肩を揺らせた。そんな彼女を半ば引きずるようにしてアイザックのそばに連れてくると「ほら! 治療!」と背中を押す。


 が、ひなはオロオロとするだけで、一向に魔法を発動させようとはしない。


「何しているの!? 早く傷を治してあげて! 貴女しかできないのよ!?」

「そんなこと言われてもわかんないよ! 魔法なんて使ったことないもん!」

「貴女ね! それでも聖女なの!?」

「フェンリルさえ呼び出せれば十分でしょ!?」


 そう言って、また拗ねた子供のようにぷいっとそっぽを向いてしまう。


(ああもう、この子は……。待って、そういえばフェンリルは!?)


 ハッとしてコーデリアは慌ててフェンリルを殴り飛ばしたあたりを見た。


 見れば、そこに元々あったはずの玉座は消え失せていた。代わりに壁には亀裂が走り、崩れてボロボロになった玉座と思しき物体と、白い巨大な獣が横たわっている。


(やだ、もしかして私、国王陛下を潰しちゃったの……?)


 サァーっと血の気が引いていく。

 いくら聖獣を倒すためとはいえ、フェンリルをぶつけて陛下を潰してしまいました、なんてことになったら、間違いなく一家全員縛り首だ。

 慌てて助けを求めるように彷徨わせた視線の先で、騎士に庇われている国王の姿を発見して心から安堵する。


(よ、良かった! 近衛騎士の皆さま本当にありがとうございます……!)


 国王だけでなく、コーデリア一家の命も救われたことにホッとしつつ、またアイザックに視線を戻す。水魔法使いたちを総動員したおかげか、先ほどよりは少しだけ流れ出る血が減っている。……気がする。


(早く殿下に専門の治療を受けさせないと! 今のうちに、フェンリルが動けなくなるまで闇魔法をお見舞いしてやらなくては!)


 聖獣をボコボコにしようなんて全国民に非難されそうだが、アイザックのためなら関係ない。それに今のフェンリルはもはや聖獣とは呼べなかった。


 もう一度渾身の闇魔法を撃つべく力を集め始めたコーデリアの前で、ガラガラと壁が崩れ落ちる音がした。

 かと思うと、がれきの中から巨大な体がのっそりと起き上がる。


 ブルブルと、犬が水を振り払うように全身を揺らせ――フェンリルが頭に響く低い不思議な声で喋った。


『……今のはいい拳だったな。おかげで目が覚めたぞ』


 先程とは打って変わって、神々しく輝く金色の瞳が、真っ直ぐにコーデリアを見つめていた。

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