第7話 聖女、メンヘラ化

 ひなは入ってきた直後、キラキラと黒い瞳を輝かせていた。けれど、アイザックとコーデリアが互いの手を固く握りしめているのに気づいた瞬間、般若のように険しい表情になる。


「……アイザックさま? 何を、しているんですか?」


 その声は今までの彼女からは考えられないほど低く冷たい。まるで夫の浮気現場に乗り込んできた本妻のようだ。


(って殿下の婚約者は私だから、責められる理由は全くないんですけれどね!?)


 前世では向こうの立場が圧倒的に上で、ついでに現世でも向こうの方が上なせいで(なんてったって聖女さま)強気に出られないのが悲しい。しかしコーデリアとて、悪いことはしていない。……はずだ。


「聖女殿……」


 コーデリアにだけ聞こえる小さな声で呟いてアイザックが立ち上り、コーデリアとひなの間に立つ。まるで庇ってくれているようだと感じるのは、思い上がりだろうか。


「アイザックさま。この人と婚約破棄するって、言っていましたよね?」


 そう言ったひなの顔は引きつっている。


「聖女殿。……すまないが、やはり私は自分の気持ちに嘘をつくことはできない。彼女と婚約破棄は――しない」

「嘘っ! なんで!?」


 動揺して叫んだひなは、けれどすぐに静かになった。そしてじっとりとした目でアイザックを見つめる。


「……国が滅んだとしても、ですか? 前も言いましたけど、結婚してくれないなら聖獣に頼んで国を滅ぼしてもいいんです。そうしたら、アイザックさまが国を滅ぼす原因になっちゃうんですよ?」

「国を滅ぼすのは私ではない。原因は私でも、実行するのは貴女だ。聖女殿」


 そう言い放ったアイザックの瞳は、凪いだ水面のように落ち着いている。ひく、とひなの顔が引きつった。


「聖女殿、どうか冷静になって考えてほしい。国を滅ぼしたとしても貴女には何の利点もない。それどころか災厄扱いされ、人々から背を向けられることになる。私は貴女にそんな存在になって欲しくない」


 どうやら彼は、説得を試みることにしたらしい。コーデリアは固唾を呑んで行方を見守ることにした。恋愛経験がなくてもわかる。この状況では、どう考えても下手に口出して刺激しない方がいい。


「なんで……なんでそんなこと言うの!? アイザックさまがひなと結婚してくれれば、ひなだってそんなことしなくていいし、みんな幸せになれるのに!」


 ひなの口調から敬語が消える。そういう時は本当にイライラしている証拠だった。前世でのひなの癖を思い出し、コーデリアはハラハラしながら成り行きを見守った。


「……貴女の気持ちは嬉しいが、私は彼女と共に歩んでいきたいんだ」


 そう言った途端、ひながギロッとコーデリアをにらんだ。恐ろしい瞳だった。


 同時に、コーデリアはその瞳を知っていた。まだ前世のひなと一緒に行動していた時、よく他の女の子がそういう目でひなを見ていたから。


――それは嫉妬の目。


(まさかひながそんな目をするなんて……)


 ひなはいつも嫉妬される側だった。ニコッと微笑むだけで欲しいものを手に入れ、賞賛され、求められる人生。嫉妬で靴を隠されても、先生(もちろん男)を味方につけ、次の日にはもっといい靴を手に入れてケロッとしているような、そういう世界の住人。


 そんなひなが、聖女らしからぬ嫉妬と憎悪を浮かべてコーデリアを睨んでいる。


(そもそも男性に振られるひななんてあり得なかったのに。……もう、私の知っているひなとは違う人なのかもしれない)


 前世の記憶を持ちながら今の人生を歩んでいるのはコーデリアであり、決して加奈ではない。ひなもまだ自分でひなと名乗っているものの、今はエルリーナであり、以前のひなとは違うのかもしれない。


 やがてひなはコーデリアから視線を外すと、悲しそうな顔で笑った。


「……大丈夫。大丈夫だよ。“アイザックさま”は、聖女が望めば最後には来てくれるって、ひな知ってるから……」


 原作のシナリオのことを言っているのだろうか。今の状況を受け入れるつもりは全くないらしい。


「見ててください、アイザックさま。冷静にならなきゃいけないのはひなじゃなくてアイザックさまなんだってこと、きっとわかるようになりますから」


 そう言って立ち去ったひなの目は、怒っているようにも、泣きそうなようにも見えた。


(……っていうか、ひな、メンヘラ化していません!?)


 ひなが部屋から出て行ったのを見てから、コーデリアはぶるっと肩を振るわせた。


 ひなは確実に何か企んでいる。厄介なことでなければいいが、「国を滅ぼす」なんて脅してきた彼女のことだ。九十九パーセント厄介ごとだろう。


(そもそも好きな人を脅すって、それでうまくいくわけがないわよね……?)


 脅しで恋が実るのであれば、コーデリアもとっくに使っている。恋愛経験ゼロの彼女にすらわかりそうなことを、過去あれだけ色んなイケメンをはべらせてきたひなに何故わからないのだろう。


 考えていると、前に立っていたアイザックが振り向いた。その顔には苦渋がにじんでいる。


「すまない……。うまく伝えられなかった」

「いえ、今のは殿下のせいではないと思いますわ」


 アイザックはこの上なくはっきりと気持ちを告げていた。ただ、受け取る側に問題がありすぎたのだ。


「だがまだ話し合う機会はあるはずだ。決着がつくまで、ジャンを君の身辺警備につけよう。正直今の聖女殿は何をするかわからない」


(殿下が私のことを心配してくださっている……!? なんてお優しい……!)


 真剣にコーデリアのことを案じる眼差しにキュンとしつつも、力強く首を横に振る。


「いえ、ジャンは結構ですわ。だって私は“賢者”の称号持ちで、ジャンより強いんですもの」


 称号“賢者”とは、わかりやすく言えば魔法技能における最上級クラスの称号だ。

 この国では扱える魔法の技術によってそれぞれ称号が決まっており、その最高位が賢者と呼ばれていた。賢者はこの国では数えられるほどしかおらず、珍しい闇魔法使いでその称号を持っているのは、コーデリアただ一人だったりする。


「確かに君は強いが、それでも心配だ。なにせ相手は聖獣。いざとなったらジャンを囮にして逃げてほしい」


(あっ地味に殿下もジャンの扱いがひどいですわね?)


 言葉には出さず心の中で呟いたのだが、目に気持ちが表れてしまっていたらしい。アイザックがやや気まずそうに付け足した。


「……もちろん、ジャンならなんとか生き延びてくれると信じている」


 信頼ゆえの発言……と自分を納得させてから、コーデリアは首をひねる。


「やはり、聖女さまは聖獣をけしかけてくるのかしら……」


 先ほどから言っている聖獣というのは、この国の建国記にも出てくる聖なる狼フェンリルのこと。


 建国記によると、フェンリルは元々獰猛で凶暴な怪物だったが、聖なる乙女に出会ったことで聖獣へと姿を転じたのだという。その聖なる乙女がラキセン王国初代王妃であり、聖女の始まりともなる伝説の乙女だった。


 以降ラキセン王国の守り神となったフェンリルは、千年以上もこの国を守り続けてきている。そして数百年に一度、フェンリルの加護を受けた聖女が現れるたびに、その託宣によって新たな王が決まるという流れだった。


「そもそも聖女さまは国を滅ぼすなんて言っていますけれど、そんな恐ろしいことできるんですの?」

「聖獣は、聖女と聖女の愛するものを守るために動くと聞く。裏返せば、聖女にとって守る価値がないものを破壊することもあるらしい」


 言いながら、二人はゾッとしたように顔を見合わせた。国を守るべき聖獣が、国を滅ぼす。……考えるだけで恐ろしい。


(こう言っては失礼だけど、今回の聖女、絶対人選を間違えていると思いますわ……)


 元々女神は、加奈とひなの設定とやらを間違えていた前科がある。また間違えていたとしても不思議ではなかった。


「……やはり、私が諦めて彼女と結婚するしかないのだろうか」

「殿下……」


 眉間を抑えて苦悩するアイザックを、コーデリアは心配そうに見つめた。


 冷静に考えれば、アイザックが聖女と結婚することで国は滅びずにすみ、彼が王にもなれるため、いいこと尽くしなのは間違いない。ある意味政略結婚というか、王族の責務として考えるなら、諸手もろてを挙げて受け入れるべきなのだ。


(原作の中でも、コーデリアはこんな気持ちだったのかもしれませんわね)


 だからこそ、彼を愛する悪役令嬢コーデリアは、自ら身を引いて聖女と結婚することを勧めたのだろう。……けれど。


(だからってあんまりですわ! 原作のように思い合っているならともかく、力あるもの聖女に望まれれば、他に好きな人がいても結婚しなきゃいけないって、乙女ゲームにしてはちっともときめかない展開ですわよ!)


 推しには、身も心も幸せになってもらいたい。そのために自分にできることはないかと頭を悩ませ、顔を上げた。


「わかりましたわ。それなら私、聖獣をぶっ飛ばせるようもっと魔力を磨いてまいります!」

「――すまない、今なんて?」


 アイザックが信じられないものを見る目でコーデリアを見た。

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