婚約破棄されたスナギツネ令嬢、実は呪いで醜くなっていただけでした

宮之みやこ

前編

 細すぎる一重の目に、小さすぎる瞳の三百眼。あまりの目つきの悪さに、リュシエルにつけられたあだ名は『スナギツネ令嬢』だった。


「はあ…………」


 鏡の中の自分を覗き込んで、リュシエルは大きくため息をつく。

 

「なんで私だけ、こんな顔なのかしら……」


 言いながら頬を触ると、必要以上に「ぷにっ」とした感触がして、リュシエルはさらにため息をついた。

 

「頑張ってお手入れしているのに、やっぱり下ぶくれだわ……」


 毎日小顔に効くと噂の天然石のプレート使ってせっせとマッサージをしても、これまた小顔に効くと噂の顔面体操をしても、リュシエルの下ぶくれには全く効果がない。さらにお肌も、魔法が込められているという謳い文句の高価な香油を取り寄せて磨いているにも関わらず、若い令嬢らしいハリはなく、どこかくすんでさえいた。


「おねえさま、またためいきついてるの?」


 鈴を転がしたような可愛らしい声の持ち主は、リュシエルの年の離れた妹アンジェラだ。お日様の光を集めたような金髪に、緑色の瞳はこぼれそうなほど大きく、それでいて鼻や唇はこじんまりと小さく愛らしい。卵型の小さな顔はうっとりするほど綺麗なラインを描いており、その肌は輝くように艶やかで……つまり一言で表すなら、ものすごい美少女だ。六歳の今ですらこれなら、将来は間違いなく、匂い立つような美女に育つだろう。


「そうね……。ため息は幸せが逃げるって言うし、よくないわね。気をつけるわ」


 対するリュシエルは、“スナギツネ“とあだ名をつけられてしまうほどの細い目と三百眼だけでなく、ギリギリ金色と言えなくもないくすんだ黄と所々灰とが混じった髪色。さらには下ぶくれの顔に、肌までお粗末という、残念極まりない容姿をしていた。努力の甲斐あって体だけは引き締まっていたが、膨らむべきところが膨らまなかったせいで、そちらもやはりなんとも残念な感じになっている。


「お嬢様方の準備はできたのかな?」


 部屋に顔を覗かせたのは、兄のエドガーだ。こちらもまた、説明するがめんどくさくなるほどの美男子だった。

 

 (というより、我が家は私以外が全員美形なのよ……)

 

 リュシエルの生まれたベクレル侯爵家は、その家柄や財力もさることながら、恐ろしいほどの美形揃いと評判の一族だった。だがその一族の中で、唯一美形どころか、人並みの外見にすら恵まれなかったのがリュシエルというわけである。赤ん坊の頃は可愛かったらしいのだが、成長するにつれ家族との差は歴然となった。彼女は華麗なる一族の汚点と笑われ、挙げ句の果てに「スナギツネ令嬢」なんてあだ名さえつけられてしまう。


「本物のスナギツネは愛嬌があって可愛いじゃないか!」


 と、兄は言ってくれたが、リュシエルにとっては何の慰めにもならなかった。そのあだ名をつけたのが、この国の王太子であり、リュシエルの婚約者でもあるハージェス王子だった事も大きい。


「わたしはじゅんびできました! おねえさまは?」

「私も大丈夫よ」

「なら、行こうか。王太子殿下もお待ちだ」


 にっこりと麗しく微笑んだ兄とは対照的に、リュシエルは赤ら様に嫌な顔をした。今日はベクレル家主催のティーパーティーなのだが、そこにはハージェスも招待されている。婚約者なので当然と言えば当然なのだが、リュシエルにとっては、かなりありがたくない時間となるのが目に見えていた。


*


「おや、こんなところに可愛いスナギツネが紛れ込んでいるね?」


 予想通り、リュシエルが姿を表した途端、ハージェスはすぐさま彼女をからかった。途端に、彼に追従する若い貴族たちがくすくすと嫌な笑みを漏らす。


「……ごきげんよう、ハージェス様」


 苛立ちをグッと堪えて無理に笑顔を作れば、「おや? 目はどこに行ってしまったのかな? 細すぎて見えないね」などとさらに追い討ちをかけてくる。彼のタチの悪いところは、兄のエドガーや、リュシエルの両親が見ていないところでこういうことを言ってくる点だ。そういう狡猾さもまたリュシエルを苛立たせていた。黙っていれば見た目はいいのに、性格はほんと最低! と、心の中で毒づく。


「おねえさま、スナギツネってなあに?」

「とっても可愛い狐さんのことよ」

「そうさ。可愛すぎて図鑑で見た時は、すぐにリュシエルのことを思い出してしまったよ」


 ハージェスがそう言うと、周りがどっと笑った。リュシエルは心底うんざりしつつ、アンジェラの手を握る。


「ハージェス殿下、妹のお腹が空いているようなので、何か食べさせてきます。また後でお会いしましょう」

「ああ、そうだな。私も君に話がある。また後で会おうじゃないか」


 できれば二度と会いたくない。そんな本音は飲み込んで、リュシエルはアンジェラを連れてその場を離れた。幼い妹には、できるだけハージェスとその取り巻きには近寄らせたくなかった。


 アンジェラを気遣いながらその場から離れると、リュシエルたちを探していたかのように、一人の人物が足速に近づいてくる。その人物の顔を見て、リュシエルはホッと息をついた。


「リュシー、大丈夫か? また兄に何か言われていただろう」


 しかめ面でリュシエルのことを愛称で呼んだのは、ハージェスの弟であり、第二王子であるクロードだった。王譲りの金髪で、どこか軟派な雰囲気が漂うハージェスとは対照的に、クロードは王妃譲りの黒髪で、その目元はともすれば冷たいとも勘違いされがちな硬質な美貌を持った王子だ。


「お気遣いありがとうございます。いつものことなので、もう慣れてしまいました」


 軽くため息をつきながら答えると、「全く、ハージェスのやつ……」とクロードが文句を言っているのが聞こえた。


 ハージェスとクロード、そして兄のエドガーとリュシエルの四人は幼馴染だった。リュシエルたちの父、ベクレル侯爵が王の側近であるため、幼い頃より交流を持たされていたのだ。やがて大きくなり、兄のクロードはハージェスの側近に、リュシエルはハージェスの婚約者に収まったのだが……。


「兄は昔から軽薄なところがあったが、最近は特にひどい。今日はもう、私から離れない方がいい」

「ありがとうございます、クロード様」


 リュシエルは嬉しくなって微笑んだ。


 リュシエルにとって風当たりが強いこの社交界の中で、唯一クロード王子だけはいつも彼女の味方をしてくれていた。彼は決してリュシエルの外見をからかわなかったし、リュシエルの悪口を言うものがいれば、例えそれが実の兄でもきつく注意してくれた。そのせいで近年、ハージェスとクロードの関係がやや拗れ始めてしまっており、リュシエルは罪悪感を感じていたが、それでもありがたかった。彼以外に、ハージェスに注意できる貴族はいないからだ。


(ああ……クロード様が婚約者だったら、どんなに良かったことか)


 アンジェラの遊び相手になってくれているクロードを見ながら、ついそんなことを考えてしまう。

 クロードはその見た目だけでなく、中身まで清廉潔白だった。以前、ハージェスにひどくからかわれて落ち込んだリュシエルが「でもクロード様もやはり美しい女性がいいんでしょう」とひねくれて聞いた時にも、こう答えていた。


「外見の美しさはもちろん美点だと思うが、それが全てではない。私は外見が美しいだけの女性より、心が美しい女性の方がいいと思っている」


 と。

 その言葉は、たとえ慰めるための嘘だったとしても、リュシエルの心の支えになった。彼女が今こうして折れずに立っていられるのは、全てクロードのおかげと言っても過言ではない。時間が経つにつれ、彼に対する気持ちが恋へと変わっても、何も不思議なことではなかった。

 けれど残念なことにリュシエルはハージェスと婚約済みであり、クロードもまた他の令嬢と婚約しているため、二人の結婚は不可能だった。それでも、彼への溢れる思いは止められなかった。


(せめて、クロード様に誇ってもらえるよう、心は美しくありたい。)


 腐ってもリュシエルは侯爵家の長女であり、王太子の婚約者であり、将来の王妃なのだ。夫となる予定のハージェスとの仲は期待できそうにないし期待したくもないが、王国民に対して心根で恥じない王妃であるために、リュシエルは猛勉強した。一般的な貴族女性の教養はもちろん、帝王学から始まって、経済、歴史、地理、算術に加え、近隣諸国の言語も一通りたたき込んである。さらに慈善活動にも精を出し、国のあちこちの孤児院に寄付や慰問訪問をしていた。そのため、国民人気は悪くないどころか良い方なのだ。ハージェスはそれを「ご機嫌取りご苦労様」と笑っていたが、クロードが褒めてくれたので、リュシエルは気にしないことにしている。


「ああ、いたいた! リュシー、大変なの。ハージェス様が……」


 リュシエルがうっとりとクロードを眺めていると、リュシエルを外見で判断しない数少ない友達の伯爵令嬢が駆け寄ってくる。ハージェスという名前に反応したクロードも、伯爵令嬢の方を見た。


「どうしたの?」

「兄が何か?」

「それが……」


 伯爵令嬢は言いづらそうに口をモゴモゴとさせながら、そっとある方向を指さした。その方向を見て、リュシエルだけでなく、クロードまでがハッと息を呑む。


 そこにいたのは、ハージェスと、鮮やかな赤髪を結い上げた美しい女性だった。二人は親密そうに寄り添っており、女性の手はハージェスの腕に、ハージェスの手は女性の腰に回されている。


「モルガナ……?」


 クロードが呆然としたように呟いた。


(まさか……モルガナ嬢なの?)


 信じられない思いで、リュシエルも仲睦まじげに寄り添う二人を見た。


 モルガナ・フラヴィニー嬢。彼女は、リュシエルの生家であるベクレル侯爵家に筆頭する侯爵家の一人娘で、何を隠そう、クロードの婚約者だった。


 モルガナは艶やかな雰囲気を持つ美貌の女性で、そんな彼女に、クロードはまめまめしく尽くしていた。いつも贈り物を欠かさず、夜会ではリュシエルを放置するハージェスと違ってきっちりとエスコートし、側から見てもモルガナを愛し、大事にしているのがよく伝わってきていた。

 モルガナ本人はと言えば、クロードの態度にいつも満足そうにし、リュシエルを見るとあからさまに見下した目をしてきていたが、そもそもフラヴィニー侯爵家が一方的にベクレル侯爵家を敵視しているのを知っているため、リュシエルはなるべく気にしないようにしてきた。だが……。


(そのモルガナ嬢が、なぜハージェス様と……?)


 困惑するリュシエルの前に来ると、二人は立ち止まった。周りにいる人たちも、何事かとこちらに注目している。


「やあリュシエル、クロード。我が麗しの君が到着したから、紹介しようと思ってね。それに、君たちに話があるんだ」

「我が麗しの君……?」


 ハージェスはこの上なく上機嫌だった。その隣で腕を絡めて立っているモルガナも。


「そう。私たちは、真実の愛に目覚めたんだ。だからすまないが、私とは婚約破棄をしてもらおう。……それから、我が愚弟、クロードともね」


 リュシエルは絶句した。


(この人は……何を言っているの?)


「……国王陛下には、許可をとっているのか?」


 リュシエルが何も言えなくなっている隣で、クロードが様子を伺うように聞く。


「いや、これからさ。真っ向から行くと聞いてもらえないだろうからね。だがこうして既成事実を作ってしまえば、父も認めざるを得なくなろうだろう。……何せ彼女のお腹の中には子供がいる。そう、次代の国王となる子供が」


 子供という単語に、その場は騒然とした。少し離れたところで、兄のエドガーが憤怒の表情をしているのが見える。リュシエルの隣から、はあ、と盛大なため息が聞こえた。おそらくクロードだろう。リュシエルは何も言えず、ただ口をパクパクとさせていた。


(この人……この人達って……!)


 そんなリュシエルの反応に、モルガナが満足そうにお腹を撫でている。


(本当に頭がおかしいんじゃないのかしら!?)


 心の声が出てしまわないよう、リュシエルは慌てて手で口を押さえた。


(婚約者であるベクレル侯爵家主催のパーティーで! 主催者の顔に泥を塗るようなことをして! その上国王様の許可もなく! 挙げ句の果てには不実まで自ら露呈して……! 信じられない!)


 怒りよりも、呆れて物が言えなかった。いくらリュシエルが不器量だからと言って、仮にもハージェスはこの国を背負っていく王太子であり、モルガナも立派な侯爵家の娘なのだ。あまりにも責任と義務を無視した二人の行いに、リュシエルは心底引いていた。


(こんな……こんな男に国を任せたら、ヴァランタン王国が潰れる……)


 将来のことを考えると、気が遠くなる。実際に足元がふらついてしまい、そばにいたクロードが慌てて支えてくれなかったら、この場で倒れていたかもしれない。


「……アンジェラを、アンジェラをお兄さまに……」


 天使のようなあの子にこんな汚いものは見せられない。リュシエルが息も絶え絶えに言うと、いつの間にか近くに来ていたエドガーが即座にアンジェラを連れて行った。その顔は憤怒で真っ赤に染まっていた。


「君たちの反対は承知の上だよ。だが残念だね、クロード。モルガナは君より私の方がいいと言うんだ。潔く、彼女と私の幸せを願ってくれ」

「……そんなにうまく行くとは思わない方がいい」


 凍った場の空気には気づかず、嬉々として続けるハージェスに、クロードが低い声で答えた。


「おや? 実は相当応えているのか? すまない、弟の最愛の人を奪ってしまう形になって……」

「いや、そうではない。そんな女は好きにくれてやる。それよりも父があっさり許すとは思わない方がいいと言っているんだ。今まで兄上の婚約破棄を誰よりも拒否していたのは、国王陛下だということを忘れていないか?」


 クロードが冷静に、“国王陛下“という単語に力をこめて答えれば、ハージェスがグッと喉を詰まらせた。


(……そういえば、国王陛下はずっと反対していらしたわ……)


 実は、リュシエルとハージェスの婚約破棄の話が出たのはこれが初めてではない。過去には一度、ベクレル侯爵家から、そしてハージェスからは何度も国王に婚約破棄の希望が伝えられているのだが、普段ハージェスに甘い国王も、なぜかこの件に関してはがんとして首を縦に振らなかったのだ。そのためハージェスとモルガナも、強引に妊娠という手段をとることにしたのだろう。


「それ、は……。いや、しかし、彼女のお腹には子供がいるんだぞ? 他ならぬ私の子だ! 聞けば、お前とは手すら繋いだことのない、清い仲だったのだろう!?」

「そうだ」


 クロードが答える声は、どこか自慢げに聞こえた。不安そうに見上げれば、優しげな瞳がリュシエルを見つめる。


「これ以上話しても無駄だ。……行こう」


 クロードにそっと肩を押され、リュシエルはハージェスが何やらわめく声を聞きながらその場を後にした。ティーパーティーは急遽解散となり、両親が怒りながらもその対応に追われてバタバタとしていたが、リュシエルがその手伝いに駆り出されることはなかった。傷心だと思われたのだろう。実際呆然としていたから、その配慮はありがたかった。


*


「全く……! 今までもそうだったが、今度の今度だけは本当に許せない。俺はもう、ハージェスの側近などやめてやる」

「お兄さま、落ち着いてください。私は案外平気です」


 客間で、怒りすぎて、一人称が“俺“になっているエドガーをなだめようとする。


「すまないリュシー。頼りない兄を殴ってくれ。今まで私が我慢すればいつかはうまくいくのではないかと思っていたが、こんな事ならもっと早くにあのバカを殴っておくべきだった……」

「お兄さま、それ不敬罪にあたりますからお口には気をつけて。心の中で思う分には自由ですわ」


 注意すると、エドガーは無言で近くに置いてあったクッションを殴り始めた。兄がそんな行いをするのは初めてで、目を丸くして見ていると、クロードが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「……リュシーは大丈夫なのか?」

「私?」


 キョトンとして見返してから、リュシエルは言った。


「最初はあまりのバ……いえ、破天荒ぶりにびっくりしてしまったけれど、大丈夫どころかむしろ天にも昇る心地ですわ。私がハージェス様を好きになる要素、微塵もありませんもの」


 それは嘘ではなかった。ハージェスとの結婚は義務感から耐えているだけで、あの男を一生の伴侶にしないで済むのなら、修道院へ行ってもいいと真剣に考えたことすらあるくらいだ。


「王妃という地位に、未練は?」

「ないですわ。どちらかというと、ハージェス様が国王に就いて我が国は大丈夫なのか心配する気持ちが強いです。……今のは内緒にしてくださいね」


 しまったというように口を隠せば、クロードが笑った。途端に、胸が暖かくなる。リュシエルは、彼の笑った顔が大好きなのだ。


「ならよかった」

「……クロード殿下は、大丈夫ですか?」


 リュシエルは恐る恐る訪ねた。モルガナ嬢を愛し、大事にしていたのは他でもない、クロードなのだ。


「私は大丈夫だ。……なんとなくそんな予感がしていたからな」

「え?」

「そもそもあの二人、本気で愛し合っていないだろう」

「それは私も思った」


 いつの間にか立ち直ったらしいエドガーまでもが話に混じってきたので、リュシエルは驚いて目を見開いた。


「……なんとなくそうじゃないかとは思ってましたけれど……まさかみんなそう思っていたなんて」


 というのも、ハージェスとモルガナの間には、もちろん愛情もあるだろうが、それよりも手を取る利点の方が多かったのだ。ハージェスにとっては不満のある婚約者リュシエルを切れる上に、何かとたてついてくる弟の最愛の人を奪ったという優越感も満たせる最高の人選がモルガナであり、モルガナもまた、憎きベクレル侯爵家のリュシエルから婚約者を奪え、かつ第二王子の妃より、将来の王妃という立場の方が魅力的だ。


「だからって、あんまりなやり方ですけれど……」

「私も兄がそこまで馬鹿だとは思わなかった」


 はあ、と誰からともなくため息が漏れる。


「……けれど、考えようによってはリュシー。君は自由になったということだ」

「自由?」


 クロードの言葉にリュシエルがキョトンとすると、エドガーも力強く同意した。


「そうだよリュシー。もうお前はあんな男に煩わされる必要はないんだ。これからは好きな催しにだけ参加すればいいし、結婚だって、好きな男とできるようになる。どう見ても非があるのは向こうだし、誰もお前を責めたりはしないよ」


 労るような兄の言葉を聞いて、リュシエルの胸が高鳴る。


「好きな人と結婚……?」


 つい、知らず目がクロードの方を見てしまう。リュシエルにとっては大変喜ばしいことに、彼もまた、婚約者がいない状態に戻ったということに今さらながら気がついたのだ。


(もしかしたら、もしかしてだけれど、私とクロード殿下が結婚できる未来もあるんじゃ……?)


 そんな将来を想像して一瞬ソワソワしたが、すぐにその気持ちは萎んだ。鏡に写った自分の姿を見てしまったせいだ。

 どんなに浮かれても、彼女が“スナギツネ令嬢“と呼ばれる残念な容姿は変わらない。


 クロードがいくらリュシエルに優しいと言っても、それはあくまで彼が幼なじみだからであって、恋愛感情からではない。先ほどは動揺からか、珍しく「そんな女」などという汚い言葉を使っていたが、それまではリュシエルが羨むほどモルガナを大事にしていたのだ。今リュシエルが結婚をお願いすれば、兄であるハージェスがやらかした負い目もあり、もしかしたら優しいクロードはうなずいてくれるかもしれない。だが……。


(そんなのって、あんまりだと思うわ……)


 婚約者を兄に寝取られ、代わりに不器量な幼なじみを押し付けられたら、たまったものではないだろう。

 

 リュシエルは「はあ」と諦めのため息をついた。


「私には、できないと思います……」


 せっかく励まそうとしてくれている二人には申し訳ないが、それがリュシエルの正直な気持ちだった。



*



 ハージェス王太子の醜聞は、すぐに国中に広まった。元々、ヴァランタン王国は小さな国なのだ。その上、人々は平和で退屈しきっており、王家の醜聞は格好の娯楽だった。

 だが、そんな事態をよそに、三日経っても、一週間経っても、国王からは婚約破棄について何の連絡もなかった。国王の側近である父なら何か知っているはずなのだが、聞いても難しい顔をして首を横に振るばかり。


(……まさかこのまま婚約継続ということはないでしょうけれど、それにしても遅い……)


 普段は苛烈とも言えるほど即決即断の王であるというのに、珍しいことだった。

 

(まあ、婚約破棄できるなら、私はなんだっていいけれど)


ーーそうのんびり考えていたリュシエルの元に、驚きの知らせがもたらされたのは、それからさらに半月後だった。


「ナーバ帝国の皇女が、クロード様とお見合いのためにヴァランタンに来る!?」

「ああ」


 本当にハージェスの側近をやめて、クロードの側近になってしまったエドガーが言った。


「なんでも、クロード様の婚約破棄の噂を聞きつけたナーバ帝国の第一皇女、ヤーラ皇女が、婿としてクロード様を迎えたいらしいんだ」

「ナーバ帝国って、そんな……」


 ナーバ帝国は巨万の富を持つ南方の大国だ。ヴァランタンからはそう遠いわけではないが、肌の色も違えば、文化も風習もまるで違う国である。


「なぜそんな話に?」

「それが……どうもヤーラ皇女の婿取りで色々と揉めていたらしくてね」


 兄の話によれば、ナーバ帝国は今複雑な状況にあり、唯一の皇族であるにも関わらず、ヤーラ皇女は女帝にはなれないのだという。代わりに、ヤーラ皇女の婿となるものが、次期ナーバ帝国の君主になるらしい。


「君主って……つまりナーバの皇帝ってこと?」

「そう。だからヤーラ皇女には求婚が殺到してね。とは言え、選ぶ方もかなり慎重になる。吟味に吟味を重ねている最中に、どこからか、クロード様の婚約解消の話を聞いたらしい」

「だからって何故クロード様を? ヴァランタンは小さな国だし、ナーバにとってのメリットがよくわからないわ」

「クロード様は以前、大使としてナーバ帝国に行ったことがあるんだ。その時に、どうやらヤーラ皇女の父である皇帝にとても気に入られたらしい。おまけに、ヴァランタンが小国なのも都合が良かったようだ」


 リュシエルはわかったようなわからないような、複雑な表情をした。


(クロード様が、ナーバ帝国の皇帝に……?)


「それでね、リュシー。お前にこの話をしたのは、クロード様から直々に指名があったからなんだ」

「指名?」

「リュシーはナバル語を話せただろう? 当日、クロード様一人じゃカバーしきれない賓客の接待を、お前に手伝って欲しいらしいんだ」

「私が!?」

「ああ。ナバル語を話せて、かつ要人の接待もできる人となるとなかなかいなくてね……」


 リュシエルは考えた。確かに、ヴァランタン王国はナーバ帝国とはあまり接点を持ってこなかったため、ナバル語を話せる貴族階級のものはほとんどいないのだろう。だからこそリュシエルにその役目が回ってきたのだ。


(私の勉強の結果を試すいい場になるかも……。それに気になるわ。クロード殿下と結婚するかもしれないヤーラ皇女がどんな方なのか……)


 そこまで考えて、リュシエルは顔を上げた。


「……わかりました。私が行きます」


 こうして、リュシエルは通訳として、クロード王子の見合いの場に同席することとなったのだ。



*



 遠路はるばるやってきたナーバ帝国のヤーラ皇女は、褐色の肌に、黒曜石のような大きな瞳を持つ、異国情緒を感じさせる愛らしい美姫だった。滑らかなシルクのドレスには飾りとしていくつもの薄いベールが重ねられ、またヤーラ皇女の艶やかな黒髪と顔も、奥ゆかしく繊細なベールで覆っている。

 出迎えたクロードと並ぶ姿はまるで最初から一対の絵のようで、周りの人々からは自然とため息がもれた。リュシエルの心がじくりと傷む。


(この後に及んで、嫉妬なんかしている場合じゃないわ。私は私の役目を果たさないと。クロード様のためにも)


 ヴァランタン王国に、そしてクロードの顔に泥を塗らないためにも、リュシエルは精一杯のもてなしをした。クロードがヤーラと歓談している間はお付きの人たちが不自由しないよう手配したり、またクロードが違う要人と話している間はヤーラの話し相手になったりもした。ヤーラはナーバ帝国の歴史や文化についても勉強したリュシエルのことをとても気に入ってくれ、しまいにはクロードよりもリュシエルと過ごす時間が長くなったほどだ。


『貴女は本当に素敵な女性だわ、リュシー』


 上機嫌で愛称を呼ぶヤーラに、リュシエルは恥ずかしげに首を振ってみせた。


『そんな、私みたいな者に素敵だなんて。身に余る光栄ですわ』

『貴方の唯一の欠点は、その卑屈な態度ね。褒められたら、素直にありがとうとにっこり笑えばいいのに。貴女にはそれだけの価値があるわ』


 ヤーラは、事あるごとにリュシエルを褒めてくれた。その度にリュシエルはむず痒く、なんとなく困ってしまう。家族以外でこんなに褒められたのは、初めてだった。


『けれど、しょうがないわね。貴女にはそうなるよう、***がかけられているんですもの』

『ごめんなさい、今なんとおっしゃったのですか? 聞き取れなかったですわ』


 ヤーラはその質問に答える代わりに、リュシエルに向かって悲しげに微笑んでみせた。


『クロードを呼んできてくださる? 私、彼とお話しがしたいわ』

『すぐに呼んで参ります』


 リュシエルは慌ててクロードの元に行った。ヤーラが呼んでいることを話すと、クロードはすぐさま彼女の元に向かう。そうして二人で何か秘密ごとを囁き合うように、お互いの黒髪を寄せて話す二人の姿を、リュシエルはじっと見つめていた。


(本当に、いつ見ても絵になる二人だな……)


 ヤーラ皇女は文句なしに素敵な姫だった。そのヤーラの夫となり、ナーバの皇帝となれるのなら、これほど輝かしい未来もない。クロードにとっては間違いなくいい話だ。そう思うのに、リュシエルはどうしても応援することはできなかった。


(私が、クロード様と釣り合うような女性だったら……)


 自分が、クロードの妻になりたいと立候補できるような女性だったらどんなに良かったことだろう。だが現実には、リュシエルはスナギツネ令嬢と笑われるような容姿をしているのだ。ヤーラ皇女と比べると、地位も美貌も差がありすぎて、何一つ勝てない。リュシエルは諦めたように小さくため息をついた。

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