豪傑院さゆりVS殺戮オランウータン

尾八原ジュージ

豪傑院さゆりVS殺戮オランウータン

 その夜、人々が寝静まった鍋釜島なべかましま家の山荘を、突如として血風が襲った。

 静寂を破ったのは、鍋釜島家の主人の部屋から聞こえた叫び声と、何やら争うような物音である。令嬢の誕生日祝いに集まった招待客や使用人などの面々が、続々と部屋の前に集まってきた。

「旦那様!」

「鍋釜島さん!」

 来客や使用人が呼びかけるが、ドアが開く気配はなかった。頑丈に作られたドアは、多少押したり引いたりしたところでびくともしない。

 混乱が人々を満たすなか、突如として部屋の中の音がやんだ。不気味な静寂が訪れた。

「ま、マスターキーを持ってまいります!」

 悪夢から醒めたような顔付きでどこかに走っていったのは、この屋敷の老執事である。それと入れ替わるように、ひとりの令嬢が寝ぼけ眼をこすりながら姿を現した。

「ふわ……皆様、一体何事ですの?」

 愛らしいおちょぼ口に手を当て、欠伸をかみ殺しながら一同に尋ねたのは、招待客のひとり、豪傑院ごうけついんさゆりである。彼女は鍋釜島家の令嬢・皿子の友人であり、ほかの来客たちと同じくパーティーに招かれていたのだ。

「ごめんなさいね、わたくし寝起きが悪いものですから……なにか騒がしい様子でしたけれど、何が起こりましたの?」

「まぁ、さゆり様がいらしたわ!」

 ネグリジェの上にガウンをまとった皿子さらこが声をかけた。「お父様の部屋から、叫び声や大きな物音がしましたの! 今、執事の箸本はしもとがマスターキーを探しに行ったのですけども……」

「まぁ、鍋釜島様に何かあったのかしら。心配ですわね」

 さゆりは上品に会釈しながら人々の間を縫い、ドアの前に立つとノックをした。やはり返事はない。

 かつて何人もの豪傑を輩出し、自身もまた日本一の豪傑を目指さんとする豪傑院さゆりは、閉ざされたドアの奥からすでに血と闘争の気配を感じ取っていた。

「……皿子さま、後で弁償いたしますわね」

 さゆりはドアノブを握り締めた。

 黒い絹色のような髪に雪白の滑らかな肌、伏せた睫毛は長く、形のいい顎は猛々しく縦に割れている。さゆりの大木の幹のような首筋に、一瞬太い血管が浮き上がり、屈強な腕の筋肉が盛り上がる……と、「ヌン!」と一発の気合いと共に、ドアの蝶番が壁からめりめりと剥がれた。

「ドアノブがねじ切れるところでしたわ」

 さゆりは廊下の壁に、外したドアを丁寧に立てかけた。その間に、皿子をはじめとする人々は鍋釜島氏の部屋に殺到していた。

「きゃーっ! お父様!」

 誰かが電灯のスイッチを入れると、絹を裂くような皿子の悲鳴が上がった。

 豪華な調度品に彩られた主の寝室は、今や見る影がないほどに荒れ果てていた。赤いカーペットの上には、この山荘の主である鍋釜島鍋之進なべのしんが変わり果てた姿で横たわっている。首をほとんど360度捻られたその凄まじい様子を見れば、彼が息絶えているのは一目で明らかであった。

「なんと……これは密室殺人だ!」

 そう叫んだのは、鍋釜島氏の弟、瓶二郎びんじろう氏である。彼もまた姪の誕生日を祝うために、この屋敷を訪れていたのだ。

「密室殺人ですって!?」

 人々の間にどよめきが広がっていく。瓶二郎氏はうなずいた。

「ああ、そうだ。この部屋の入り口は一ヵ所、今まで閉ざされていたこのドアだけだ。バルコニーに出るための掃き出し窓は内側から鍵がかかっている。唯一開いているのはあの天窓くらいだが……」

 そう言って彼は天井を見上げた。三メートル近くも高さのある天井には大きな天窓があり、今そこは半開きになっている。

「外壁をよじ登ってあそこから侵入するのは、たとえそれなりの装備があったとしても危険だし、常人にできることではない」

「叔父様! では犯人はどうやってこの部屋に……?」

「わからん……この様子ではどう考えても自殺ではないしな……」

 密室殺人という衝撃的な言葉に沸き立つ人々、その中でさゆりはひとり、うかない顔をしていた。皿子は友人の表情にいち早く気を留め、声をかけた。

「さゆり様、どうかなさいまして?」

「いえ……どうも引っかかるのですわ。この部屋には殺意が感じられない。このような凶行に走る人間が持つべき、明確な殺意や悪意というものが……ねぇ皿子様、わたくしたち、ここに来る途中でニュースを聞いていたでしょう? 覚えていらっしゃって?」

「そういえばそうでしたわね。リムジンのカーラジオがニュースを流していましたわ」

 皿子がほっそりとした指先を口元にあてて呟いた。

「たしか、この山にある遺伝子研究所から、実験体のオランウータンが逃げ出したとか……まぁ! さゆり様ったら、まさかオランウータンが犯人だとでもおっしゃるの?」

「あら、そう荒唐無稽な話でもなくってよ」

 さゆりは太い腕を組み、顎の割れ目に右手を当てて考え事をするポーズをとっている。「オランウータンでしたら、あの天窓から室内に入ることができるわね。馬鹿力で部屋中を荒らしまわり、鍋釜島様の首を捻って殺害することも……ご存じかしら、オランウータンの握力は推定200キロとも言われていますのよ?」

「まぁ……でも、そんな獣がこの部屋に入ってきたのだとしたら……今どこにいるのでしょう?」

 皿子がそう呟いた次の瞬間であった。突如として大きなクローゼットの扉が開き、茶色い毛皮をまとった獣が飛び出してきた! その体長は約二メートル、通常サイズを遥かに超える巨大なオランウータンである! オランウータンは手近にいた招待客のひとりを掴むと、やにわに壁に投げつけた。衝撃音と共に、壁が血に染まった。

 一瞬にして部屋は怒号と悲鳴に満ちた。

 オランウータンの胸の毛は血で汚れていた。おそらく鍋釜島氏が死に際に喀血したものであろう。オランウータンの握力は推定200キロ……皿子はそのことを思い出し、恐怖で気絶しそうになった。

 人々の悲鳴によってますます興奮したオランウータンの手が、暴力の気配を孕みつつ今度は皿子に伸びる。その時、白い岩のような手が獣の腕をつかみ、万力のように締め上げ始めた!

「さゆり様!」

 皿子の前に立ち塞がったのは誰であろう、豪傑院さゆりその人である! 身長はほぼ互角、しかし体格と筋力は一見してオランウータンが勝っているようだ。一方でさゆりは格闘の技と気迫を振り絞って、生身で殺戮オランウータンと対峙しているのであった。

「危険ですわ、さゆり様!」

「ここで退いては豪傑院の名が泣いてよ!」

 さゆりはなおもオランウータンの首を締め上げる。オランウータンももちろん黙ってやられてはいない。長い腕を伸ばし、反対にさゆりの首を締め返し始めた。さゆりの色白の顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。

 皿子はじめ他の人々は、それを見守ることしかできなかった。と、そこに戻ってきたのは執事の箸本である。

「これはどうしたことです? 部屋の扉がこんなところに……」

「あっ箸本! 何ですの? それは」

 皿子が大声を上げた。箸本は手に持ったダイナマイトの束を掲げた。

「それがお嬢様、私も混乱してうっかり忘れておりましたが、実はこの部屋にはマスターキーがないのです。そこで、いざというときはこれで扉を破壊せよと、旦那様から仰せつかっていたのでございます」

「箸本さん、そのダイナマイトをくださいまし!」

 苦しい息の下からさゆりが声をかけた。

「豪傑院様!? ど、どうなさったのですか!?」

「説明は後でしてよ! 早く!」

 箸本は動揺しつつも、さゆりが伸ばした右手にダイナマイトを握らせた。

「全員を部屋の外に!」

「か、かしこまりました」

「さゆり様!」

 彼女の思惑に気づいた皿子が手を伸ばすも、箸本に背中を押されて部屋の外に追い出されてしまう。

「ご心配なく皿子様! 豪傑院の令嬢たるわたくしが、こんなエテ公に負ける道理がなくてよ!」

 首を一際強く締めつけられたオランウータンが思わず口を開ける。その鋭い牙が並ぶ口中に、さゆりはダイナマイトの束を押し込んだ。

「おいたが過ぎてよ、お猿さん」

 そう言うと彼女は導火線の近くで指を鳴らした。凄まじい摩擦によって火花が散り、導火線に引火する。

「さゆり様ーーッ!!」

 皿子は廊下の奥から虚しく手を伸べて叫んだ。直後、爆発音が屋敷中に轟き、激しい揺れが人々を襲った。彼女はたまらずその場に倒れ込んだ。

「うう、さゆり様……」

「皿子さま、お立ちになれて?」

 眼前に手が差し出された。陶器のように白く、岩のように逞しいその手を、皿子は信じられない気持ちで握りしめた。

「さゆり様!!」

 そこに立っていたのは誰あろう、自爆したはずの豪傑院さゆりその人であった! しかも見た感じ、ほぼ無傷である。

「うふふ、防火加工を施したネグリジェを着ていてよかったわ」

「さゆり様ってば! わたくし、本当に心配してよ……!」

 皿子は泣きながら友人に抱きついた。さゆりはその肩を優しく抱き返した。

「皿子様ったら、乙女が簡単に涙を見せてはいけなくってよ……」

 さゆりはふと、部屋の中を振り返った。立ち昇る煙の中に、黒焦げになった小山のようなオランウータンの死体が見えた。

(あなたも知らない場所で恐がっていただけなのでしょうね、可哀想に……どうか許してちょうだいね)

 こうして豪傑院さゆりは人知れず、強敵の死を悼んだのであった。

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豪傑院さゆりVS殺戮オランウータン 尾八原ジュージ @zi-yon

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