武蔵野合戦 ~全てを奪われた男・足利尊氏、その反攻~

四谷軒

01 全てを奪われた男

 正平七年(一三五二年)うるう二月。

 北朝の征夷大将軍・足利尊氏は追い詰められていた。


 観応かんのう擾乱じょうらんという――室町幕府内部の、弟の足利直義ただよしと執事・高師直こうのもろなおの対立に端を発する争いが起こった。

 やがて師直をたおした直義が、鎌倉にり、南朝と結ぶ動きを見せるに至り、尊氏は動いた。


 尊氏は、南朝にくだった。

 神器を返し、帝を廃し、大政を奉還した。

 これを、時の南朝の元号を冠して、正平一統という。

 こうして尊氏は、南朝より直義追討の綸旨りんじを得て、鎌倉への征旅にで、駿河するが薩埵峠さったとうげにて直義の軍を撃破した。

 鎌倉に入った尊氏は直義を捕えたが、その直義が急死してしまい、ついに観応の擾乱は終わった。


 ……こうして多くを犠牲にして内乱を制した尊氏であったが、その機を虎視眈々と狙っていた者がいた。


「時こそ、至れり」

 南朝の宰相、北畠親房きたばたけちかふさである。

 鎌倉幕府末期から後醍醐天皇の信頼があつく、建武の新政を機に、息子の顕家あきいえと共に政権に参画、以降、南朝を支えつづけて来た公卿である。

 いくさの中、顕家こそ失ったものの、その犀利さいりな頭脳はむしろ冴えわたり、今、尊氏を追い詰めるべく策動を開始した。


 親房はまず、尊氏の征夷大将軍の位を取り上げ、亡き後醍醐天皇の皇子・宗良むねよし親王にそれを与えた。

 同時に、新将軍・宗良親王に尊氏討伐を命じた。


「父の仇、今こそ」

 これに呼応した新田義宗にったよしむね義興よしおきらは上野こうずけにて挙兵、当初八百余騎であった軍勢は、鎌倉街道を南下するうちに、十万騎にまで至ったという。

 それはあたかも――義宗らの亡父ちち・新田義貞の鎌倉攻めのごときであった。


「さらば戦わん」

 尊氏は鎌倉を討って出た。だが、その隙を狙って、新田義興が別動隊を組織して鎌倉を襲撃、鎌倉に残っていた尊氏の次男・足利基氏の軍を撃破し、そのまま鎌倉を占領してしまった。

 同時に新田義宗率いる本隊は尊氏の軍を強襲、その攻勢は熾烈を極め、かろうじて尊氏は武蔵の石浜まで退くことができた。

 その石浜の尊氏の下に、さらなる凶報が届く。


みやこ義詮よしあきらが?」

 北畠親房は自ら軍を率い、京を急襲し、留守を守っていた尊氏の嫡子・義詮を近江に追い、さらに北朝の光厳、光明、崇光の上皇らと皇太子直仁親王をさらってしまった。


 こうして――足利尊氏は、帝、神器、京、鎌倉、将軍位の、その全てを奪われてしまった。

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