寡夫イサム編
寡夫イサム.呼び名
ハツネ医院の病室は基本的に住民の自由な要望に合わせて作成されている。
イサムさんは特に部屋に凝っている。薄明かりが目に馴染むような、洋風のホテルのような一室を作り上げた。
『寡夫:イサム』と書いてあるその部屋はいつ来てもいい匂いがする。
扉をあけると、耳がもう遠いのか、中の老人は私に気づかず今日も酒をやった。
酒をやっても暴れることはない。ただ彼にとっては酒は忘れられない過去の証らしい。
「すいません。往診ですよ。イサムさん」
往診に来た私を見てイサムさんは優しく微笑んだ。しわくちゃの痩せた顔がとてもまぶしい。
「ハツネ先生が来るのであれば、お酒は控えるべきでしたね」
イサムさんは酒を恥じるようにしまうと、腰を下ろして診断を受ける。
「今日も目立った不調はありませんか?」
数値は悪くなり続ける。長くはないだろう。長くないのだから、苦痛は徹底的に避ける。それがハツネ医院の役目だから。
「そうですね。今日も悪い夢をみたくらいです。ほら、例の幼馴染の」
頭の中で人をつなげた。この人はすごく交友範囲が広い。幼馴染だけでも聞く限り五人はいた。
「なるほど。イサキさんについての夢でしたか?」
イサキさんはこのイサムさんの幼馴染の一人で、先立ってしまった妻でもある。
「あはは.....あの毒婦の間男の話です」
とても穏やかな口調でイサムさんは言った。
彼との約束は2つある。心配事は必ず言うこと。
もう一つは、ふたりきりの場合、人名は心のうちで呼んでる名前で言うこと。
「そうですか....タカシさんとどういう悪い夢を見ました?」
「はい。あの間男と初めて喧嘩したときの夢ですね。あのときは毒婦をとりあって、詐欺師のまえで喧嘩しましたっけ」
本当に心のうちでこう呼んでいるから、穏やかな口調で流暢に話す。
優しさ感じるのは単語の棘棘しさに対して、あまりにも気品ある話し方をするからだ。
「その時に、間男はお前にはこれから負けないからな、と言われたのを覚えてますね」
ここまでは雑談だけれども、ここからは治療だ。喉をならしてイサムさんに話しかける。
「それはいい夢ではないんですか?」
お酒で紅潮していたイサムさんの顔が冷たい笑顔に変わる。
「はい。恨んでいました」
言葉が続く、続くのだ。私は椅子に座り聞く準備をした。
間男とは6つからの仲でしたか。
小さい頃から失礼なやつでしてね、何度も蹴られたり殴られたりしたのです。殴り返すことはしませんでしたが。
その間男の弟の詐欺師と、近所に住んでいた毒婦。それとナカエの四人でいつも遊んでいました。
その間男も毒婦が好きでしてね、間男からは幾度も勝負を挑まれてたんですよ。
毒婦は強い男は好きと言っていました。なので単純な間男は喧嘩を挑むも、体格が遥かに上の私は疲れるまでそれを避けたり防いだり。
そのせいで私は目立ってしまいまして、様々な人に様々な問題を解決するように頼まれたり、その時の担任の極悪人に頼み事をされたり。
なによりナカエがその時に嫌な顔をしていました。
だから間男との思い出は嫌なことばかりですね.....いつか痛い目見るだろうと思っていました。
まぁ、痛い目をみたのは先に亡くなったナカエですが....
体を揺らした。イサムさんは記憶の中から戻ってくる。
「気分は晴れましたか?ナカエさんのところにももうそろそろでしょう?」
イサムさんは気づけば流している滂沱の涙に、戸惑いつつもまた微笑んだ。
「すいませんねどうも。昔の話をすると涙もろくて」
照れたように笑った。また彼は酒を飲む。美味しそうな焼酎だなぁ。
「いいえ。数値は相変わらずで、気分が悪いのでなければ、タカシさんから励ましの手紙が届いてます。これで何件目でしたっけ?」
「はい。間男からは30通目ですね。相変わらず律儀なやつだなぁ」
イサムさんは笑みを漏らした。ほんとうによく笑う老人だ。
雑談を終え、席を立つ頃にタカシさんは要件を思い出したようで声をかけてくる。
「ああ。それで鬼畜医者さん」
「私は今度の講演にはいけるのでしょうか.....皆が待っています」
イサムさんはとても立場も人望もある。だが手元の数値ではとても....
「行くのは難しいので、今回もカメラ越しですね。準備はしましょうか」
イサムさんは渋い顔をしたが、仕方あるまいと喉で息をする。
「ハツネ先生が言うなら仕方ないですね。皆には回線越しで会いましょう」
本当に屈託ない顔で笑うのです。
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