安楽のハツネ

有上久

安楽のハツネ

淀んだ風が吹いた。

早朝にはまだ早い、日もまだ見えぬ朝に吹いた風は街の一角を撫で、角張った白い建物にのった声をその奥の平屋に届ける。

そしてその声で、白い髪の女性が目覚める。

整頓されたきれいな小物に溢れた部屋の布団が動く。そこから上体を起こし、黒く大きくくぼんだ目をこすり、ほのかに甘い声で伸びをした。

右耳に詰め物をし、洗面台に向かい一つ溜息をつき、無理に見える笑顔を作る。

朝食は食べずに彼女は着替えを始めた。

「リョウジさん。そろそろ楽にしないとかな....」

薄青のブラウスをつけ、鏡に移る痣を撫でた。ほんの少しだけ何かを痛めたような表情を残し家を出る。

誰一人いない暗い道を小走りで進み、白い建物の前へと歩いていく。

その白い建物の前に立つと、彼女はかばんを漁り始める。かばんの中のものを探し当てる前にその建物の電灯がついた。

「ハツネさん。リョウジさんが....」

老いた男の声に導かれるように彼女は中へ進む。自動ドアが閉じ、中へ進んだ彼女が声の主と話をし、病院のような内装をした建物内を二人が進む。

「リョウジさんがとうとう.....楽にしてほしいと」

老いた男は悲しそうに聞こえる声で告げると、老人の躓くような足音と、彼女の確かな足音がただ響いた。

淀んだ風は建物の中でも吹いた。

風の吹いたほうを彼女は見てまたつぶやく。

「今日は二人なんですね」

老いた男は顔に悲しみを宿したようで、何も言わずにまた導いた。

『勇士:リョウジ』とかかれた部屋の前に立ち扉が開く。そこにはとても苦痛にまみれた顔で、彼女を待っていた男がいた。

顔に刻まれた刃物傷や潰れた耳、骨のかたちもいくぶんか変だ。刺青が入ってるのも確認できる。

だが、かつての勇姿を思わせる体の節々に現れている名誉に対し、彼の肉体は骨と皮だけでできていた。

彼はハツネを見て、苦痛を抱きながら、安息の表情を見せた。

最期の力を振り絞るように立ち上がり、ゆらめく脚でハツネに近づく。

「なぁ、センセェ。あんた言ってたよな」

「センセェが思う、俺にとってのホント、一つだけ言ってくれるって」

脚が揺れ、それでもハツネのもとに歩かんと前に進む。

「ここの人と色んな話をしたよ。俺が不幸にした人、幸福にした人。たくさんいる、たくさんいるって」

苦痛に顔が歪んだ。しかし男はまだ歩く。顔には幾度も安堵が浮かぶ。

「わかんなかったけどさ、あの世にいくまでに何ができるかってさ、たくさん考えたんだよ。センセェとも、ここの人とも」

とうとう脚が折れ、それでも男はハツネに進む。

「俺の人生って無駄だったんだよなぁって。でも、無駄な人生なんて誰も同じなんだよなぁって」

その、ホントを最期に聞きたいのだ。この男は。

「センセェ。俺って、何をしに産まれたんだ?」

ハツネのくぼんだ目を男が見た。

男の意思を強く持った目をハツネが覗き込んだ。

「リョウジさん。あなたが産まれた本当の理由は.....」

リョウジが崩れ落ちる前に、その意思を強く持ち続けた目が閉じる前に。

「あなたが誰かに与えるためです。それが善でも悪でも、生でも死でも」

その答えにリョウジは苦痛で歪めた顔を、そっとほころばせ、そして______

それは力なく崩れ落ちた。首に差し込んだその薬で、脳は完全に停止した。

「タニザワさん。次の人のところに行きます。患者さんに任せるのは申し訳ありませんが、いつものところに電話を」

タニザワと呼ばれた老人ははっと頷き、ポケットから電話を取り出しかけはじめる。

「.....ハツネさん」

老人はダイヤルが回る音を聞きながら顔を向けずに尋ねる。

「ホントなのか?あれは」

彼女は答えず、そのまま歩いていった。

ふと暖かい風が吹き、そのまま淀んだ風に混ざっていった。

その風が混ざったところに一つのポスターがある。

誰も写ってない白い建物の写真に、場所の名前とその解説が書いてある。

『ハツネ医院』

『あなたが最期まで人として、答えを探せる終わりの住まい』

それは淀んだ風に揺れていた。

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