第三十話

 半刻後(およそ一時間後)、俺は寝付けず、市之新の部屋を出て縁側えんがわに行った。そして座って、ぼーっとしながら優しく光り輝く月を見ていた。


 すると美玖さんが、やってきて声をかけてきた。

「うん、どうした誠兵衛せいべえ? 眠れないのか?」

「ああ、がらにもなく明日のこととか昔のことを思い出して、眠れねえんだ……」

「その話し方と凶暴きょうぼうな表情。『血啜ちすすり』を手にしていなくても、そうなるのか?」

「ああ、夜になると俺の凶暴性が引き出され、筋力や速さが上昇する。それが『血啜り』の神通力じんつうりきだ……」

「そうか……」


 美玖さんは切れ長の目で俺を見つめると、となりに座り聞いてきた。

「明日のことが気になるのは分かるが、昔のこととは何だ? よかったら聞くぞ?」

「でもこれは、俺の問題だから……」

「そうかも知れんが、それで明日の戦いに支障ししょうが出ては困る。それに私はまだ、お前のことを弟子でしだと思っているぞ」

「そうか……」とつぶやくと俺は、昔のことを話し出した。


   ●


 二年前。誠兵衛が、沖石おきいし道場を出てからのこと。誠兵衛は金はあるが腕力わんりょくが無い人たちの用心棒ようじんぼうをして、生活費をかせいでいた。まだ『血啜り』は、持っていなかった。


 その日も、ある商人の用心棒をしていた。江戸と上野こうずけの国の往復おうふくの用心棒を、小判一枚で引き受けていた。上野国での商談しょうだんを済ませ、江戸に帰る途中の夜だった。やはり月が優しく輝いていた。


 山道を二人で歩いていると突然、右から男が現れた。見ると灰色の着物を着て、右手に刀を持っていた。浪人ろうにんのようだった。そして左腕が無かった。


 男はギラギラとした目をしていたが、静かに告げた。

り金をすべて、渡してもらおう……」


「ひいい!」と、おびえる商人の前に出て、誠兵衛は言い放った。

「僕の後ろに、かくれていてください!」


「た、頼みます!」と商人は誠兵衛の後ろで、おびえ続けた。


 誠兵衛は、抜刀ばっとうした。

「残念ながら、有り金を渡すわけにはいきません。これは後ろの方が、一生懸命に稼いだお金なので」


 すると男は、言い放った。

「それがどうした?! 俺だって金がいるんだ! 俺にはつまと、まだおさない二人の子供がいる。なのに関ヶ原せきがはらの戦いで、左腕を失った。それから、ろくに稼いでいない! 傘張かさはりすら、ろくに出来ん!」


 そして誠兵衛に、刀を振り下ろした。


 ざん


 上段で受けた誠兵衛は、思った。この男の剣術は、おそらく我流がりゅうだろう。斬を受けてみて分かったが、剣筋けんすじが悪い。だが、必死の気迫きはくを感じる。それが、ある程度の強さのさむらい一撃いちげきにまでしている。


 男は、語り出した。

「だから我が家の生活費は、妻が遊郭ゆうかくで稼いでいる。妻は『あなたが働けないのは、あなたのせいじゃない。関ヶ原の戦いが悪いのよ』と言ってくれる。

 だが俺は知っている。妻が遊郭から帰ってくると、いつも泣いているのを。それから食事の支度したくをしてくれるのを……。

 何なんだ、俺は?! 俺は妻を、あんな風に泣かせるために夫婦になった訳ではない!」


 男は、右腕だけの攻撃を続けた。


 はらい!


 それを右で受けた誠兵衛は、思った。なるほど、それがこの男の気迫の理由か……。


 取りあえず誠兵衛は、いつもの手段を使うことにした。今までも用心棒をしていた時、追いはぎにおそわれたことがある。大抵たいていは複数人だ。だが一番前にいる相手を、得意の居合術いあいじゅつで腹部をる。そうすると追いはぎたちは誠兵衛の強さが分かり、戦意せんい喪失そうしつする。


 実際、誠兵衛は強かった。四番刀よんばんがたなとはいえ江戸で最強と言われた剣客集団けんきゃくしゅうだん四刀しとうの一人だったからだ。


 そして誠兵衛は、この男にも居合術を放った。誠兵衛の刀は、さやから飛び出すと目にもとまらぬ速さで、男の腹部ふくぶを水平に斬った。


 男の腹部から血が、にじみでた。だが男は、ひるまなかった。

「こんなものがどうした? 俺には金が必要なんだ。有り金をよこせ!」

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