第16話 宣告
4月26日
前から気になっていた、部屋の柱の汚れを掃除した。古い木造アパートだから、本来ベージュのはずの木の柱が、手垢のようなもので黒く汚れていたのだ。スポンジに石鹸水を含ませて、柱をこすった。茶色く汚れた水が柱を伝わって下へ垂れた。畳を汚さないように柱の根元にタオルを当てた。何度も何度も石鹸水を付けてはこする作業を繰り返した。だいぶ汚れが落ちて、他の柱と同じ程度のベージュ色になった。
人間のつらい思い出や自分に不利な現実も、こんなふうにこすって落とせたらどんなに楽になれるか。みんながそんなことできたら、世の中平和になるのに。いや、みんなに都合のいいことばかりでは、矛盾だらけの世の中になってしまうか? そんなことを考えながら、柱を磨くのも楽しい時間だった。
僕はこういった手作業は昔から好きだった。プラモデルを作ったり、壊れた置物を張り合わせたり、夜中に突然食器棚の掃除を始めたり。最後のはちょっと別の原因があったのかもしれないが。
夜、いつものメンバーが我が家に集まり、美沙さんに電話した。最初僕がしゃべり、次に山崎に替わった。しばらくして、また僕に戻ってきた。
「美沙さんが、高広に替わってって」
僕は、山崎から受話器を受け取った。
「暗い話です」
美沙さんが切り出してきた。
「うん?」
「高広君と私ってどういう関係だと思う?」
「ん~。難しいね」
「私は、山崎君と私の関係と同じだと思ってる」
「僕は、それ以上になりたいって期待してるんだけど」
「期待されると、ちょっと困るんだよね」
「期待されると困る? それ以上になりたいっていう期待をもって、今までいろいろしてきたわけだけど。でも、実際はそっちの言うとおり、山崎と同じなんだろうね」
「ゴールデンウィーク前に伝えておこうと思って。『付き合っててくれる?』って聞かれた時、あの時は、大学に合格して浮かれてたから、いい加減な気持ちで『いいですよ』なんて、答えちゃったの。」
「うん、僕、その時から期待しちゃったんだよ」
不穏な空気を察知して、山崎と石原は隣の部屋へ移動し、ふすまを閉めた。
「ああ、それと前、私のアパートに来たでしょう。あれがちょっとね。私にも世間体っていうか、うん」
「あれは、僕もまずかったなって、後になって思った。電話した時から渋ってたでしょう。でも、あの時は話がしたかったんだよ。まだこっちに電話がなかったし、喫茶店とかでは長話できないでしょう」
「で、前に夜遅く、うちに電話したよね。私が出なかった時」
「ああ、あの時も3人で集まってて、電話かけようぜってなって。あれ、11時半ごろだっけ?」
「ううん。12時過ぎてた」
「そうだっけ。え、でもなんで電話あったこと知ってんの?」
「本当は、私、あの時いたもん。で、うるさかったから、電話の上に布団かけおいたの」
「・・・・・・うん、分かりました。もうそっちに行くことはないけど、電話ぐらいなら、たまにしてもいい?」
「うん、みんなと一緒の時ならね」
「そっちの気持ちが分かって、僕もすっきりしたよ。誰かに替わる?」
「ううん。いい。あっ、やっぱり山崎君に替わって」
「うん」
ふすまを開けて、山崎を呼んだ。
「お前に替わってって」
「もしもし。うん。うん。分かった。じゃあ」
と言って、山崎は電話を切った。
「美沙さんがね、高広君に謝っておいてって」
山崎たちは3時までいて、帰ったが、僕はひとり、空が白むまで眠れなかった。僕が、次に目覚めたのは、午後3時半。当然、授業は全欠。コーヒーで寝起きの頭を覚ましながら、考えた。
昨日の電話、彼女の理屈はこうだ。「『付き合ってもいい』と言ったのは、大学に合格したうれしさのあまり、調子に乗って、つい犯してしまった過ちであり、本心ではなかった。アパートへ押しかけたことや、深夜に電話したことなども別れを正当化する根拠になる。ゴールデンウィークになって地元へ帰ると、面倒なことになるので、リセットするなら今だ」簡単に言えば、「過ちだから、なかったことにして。あなたもひどいことしたんだから相子でしょ」ということだ。
確かにそれが事実だと思う。僕は、相手がどう感じるかは二の次にして、自分の気持ちだけを指針にして行動していたことに気が付いた。だが、それは僕には制御できないものだった。それほど、彼女に夢中になってしまっていた。彼女への愛情が大きくなるにつれ、僕の視界を塞ぎ、相手の顔が見えなくなっていた。それが、彼女が過ちを取り消したくなった原因の一つであった可能性は十分にある。
昨日の彼女の理屈も理解はできたが、理屈で感情はコントロールできない。たとえ、覚悟ができていたとはいえ、実際に宣告されると、感情は否応なく高ぶる。
僕の感情は、彼女への愛情が、その大部分を占めていた。その愛情が大きく膨張した原因が、”つい”から生じた過ちだったといわれても、「あ、そうですか」と簡単にリセットできるものではない。喜怒哀楽でいえば、最大派閥だった”喜”のうち、かなりの部分が”怒”へ鞍替えした。
美沙さんが新しい生活を始めるに当たって、身辺整理した結果、僕は、”つい犯してしまった過ち”として片付けられた。僕は、それまでの人生で最大の屈辱を味わった。
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