第11話 幸せの頂点
次に、僕の写真アルバムを出して二人で見た。小さなガラステーブルは、母さんが持ってきたお茶のグラスと、コーヒーの入ったマグカップが占領していたので、アルバムをカーペットの上において見た。
小学校の水泳大会の写真やら、中学の部活・遠足など、ページをめくりながら僕が説明した。高校の卒業アルバムも二人で一緒に見直した。修学旅行の写真や体育大会の写真。共有している想い出だった。
カセットテープはすでに何度も交換し、今はロッド・スチュワートの「リーズン トゥ ビリーブ」が流れていた。
90度の位置関係で僕の左に美沙さんが座っている。二人とも床に座り、下を向いているから、お互いの頭と肩の距離が近い。床についている僕の左手をあげれば、美沙さんの肩に触れることができる。肩どころか背中にまで手を回すことができる。それに気づいたとたん、急に心臓がドキドキし始めた。その時特別に何かしようと思ったわけではない。ただ可能だと気付いただけだ。だが、次の瞬間には何かしようと考えてしまった。
説明する声が上ずってくるのが自分でも分かった。相手に気づかれまいと必死にこらえるが、呼吸が整わない。うまく息を吐けないのだ。しばらく黙ってしまった。
「どうしたの?」
と美沙さんが顔をあげた。目が合った。距離が近い。彼女は僕の異変に気が付いた。彼女は視線をカーペットの上のアルバムに戻した。僕は左手を彼女の右肩へ載せた。【告白はした。付き合ってくれるとも言ってくれた。今まで外でのデートは1回しかしていないけど、お互いの家には2回行き来している。自宅デートを入れればデートの回数は3回目だ。】これからしようとしていることを許してくれるのだろうかと推測するとともに、そのことの正当性を必死になって構築した。拒絶されたときの言い訳も考えた。
僕は右手も彼女の左肩へ載せた。引き寄せた。彼女の髪が僕の頬に触れる。彼女は下を向いたままだ。二人とも床に座っているから、胸同士は接していない。だから、猛烈な勢いで打っている僕の鼓動が相手に伝わらないのは、僕にとっては幸いだった。こんなドキドキしているのを知られたら恥ずかしかった。
「いいよ」
その時突然、美沙さんが顔をあげて、はっきりした口調で言った。僕は肩に載せていた手を引っ込めた。
「抱きしめるだけならいいよ。キスはちょっと」
そう言うと、崩していた脚を正座に座り直し、上半身をまっすぐに起こした。両手は膝の上で重ね、顔は下向き加減。目はじっと閉じていた。僕は身体の向きを90度左周りにふって、正座に座りなおした。僕の右脚が美沙さんの右脚に、太腿の長さ分だけ接している。恐る恐る両手でそっと美沙さんの肩をつかみ、引き寄せた。次に肩をつかんでいた両手を背中へ回し、右の頬が美沙さんの髪に触れるまで顔を近づけた。腕に力を込めて、強く抱きしめ、自分の頬を美沙さんの頬に押し付けた。胸のドキドキが相手に伝わってしまうことも気にせずに。そのまま動きを止め、じっとしていた。
時間がどれだけ経ったのか分からなかった。10秒なのか、1分なのか。時間は分からなかったが、何度か呼吸をしてから、身体を離した。身体の向きを90度の位置に戻し、しばらく二人とも黙っていた。
「抱きしめるだけならって言ったのに、ほっぺを押し付けるなんて反則だぞ」
はにかみながら、美沙さんは言った。僕は黙ったまま、自分の太腿を掻いた。
時刻は夜7時になっていた。外はもう暗かったから、父さんに彼女の家まで車で送ってほしいと頼んだ。途中、いつもコーヒー豆を買う喫茶店に寄った。父さんは僕たちをテーブルの同じ側へ座るよう促し、自分は向かい合うように座った。ウェイトレスが注文を取りに来た。美沙さんが、あっと言って、バツの悪そうな顔をした。ウェイトレスは美沙さんの中学からの同級生の朋美さんだった。朋美さんはニヤニヤしながら、注文を受け、注文内容を繰り返した。
美沙さんは、父さんと屈託なく話をした。一人暮らしをするから、料理の勉強をしようかなと思っているとか。父さんは最後に、「ふたりで、青春の一部を共有して、いい思い出を作ってほしい」と聖書的な話をした。僕の方が恥ずかしかった。
送っていく車の中で、美沙さんが僕に聞いた。
「朋美ちゃんがいること知ってたの?」
僕は何度もその喫茶店に行っていたから、
「バイトしてるのは知っていたけど、今日いるかどうかは知らなかった」
と答えた。
その夜、僕は有頂天だった。クラスで一番人気だった女の子と付き合い、二人だけの時間を共有していた。そして、その事実は自分で公表せずとも、クラスメイト達に周知されていた。幸せを芯まで噛みしめていた。しかし、この瞬間が人生最大の喜びのすでに頂点だった。
僕は、今日の出来事を何度も何度も思い返した。すると 、僕は二人の関係に微妙な変化を疑い始めた。告白して以来、僕の立場がだんだん弱くなっているような気がしたのだ。「付き合ってください」「いいですよ」は、依頼と承諾だ。より好きである方が、「付き合ってください」と依頼し、受けた側が承諾する。「惚れたが負け」だ。僕たちの場合、僕が「より好きである方」であることははっきりしている。僕にとって美沙さんは、今や「愛する女性」だ。付き合っている相手という特別な存在であり、絶対的な愛情の対象者なのだ。僕を受け入れてくれたことで、僕の美沙さんへの愛情は一気に増大した。美沙さんの側が、そこまででないことは明らかだ。「より好きである方」とは、つまり相対的に愛情の量が多い方だ。愛情のより多い方が、相手により多くのことを求める。つまり、承諾を得る必要が多くなる。これが、「惚れたが負け」のメカニズムだ。
4月7日
電話をした。昨日アパートへ鏡台やら布団やら山ほどの荷物を運んだらしい。
美沙さんが、1歳年上のお姉さんに、一昨日僕の家へ行ったと話したら、とても驚かれたと言っていた。「男がこの家に来るのはまだ分かるけど、まさか、あなたがひとりで男の家へ行くなんて、信じられない」と。やはり、美沙さんが一人で僕の家に来たことは、家族から見ても、相当意外な行動だったようだ。
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