私が自転車を走らせる理由(わけ)

一帆

水神様に願いを

 ―― 玉川上水。


 いつものデートコース。瑞樹みずきと二人、たわいもない話をしながら歩いていた道。瑞樹が「川の流れにそって歩こう」と言うから、いつも上流から下流にむけて歩いていた道。そんな二人の思い出がたくさん詰まった道を、自転車で逆走する。

 

 ―― ゴールは小金井橋の近くの水神様!


 夏の名残の日差しと秋の風が体にあたる。こぼれそうな涙を必死で抑えながら、玉川上水に沿って西へ自転車を走らせる。


 ―― 思い返せば、今日は、朝から最悪の一日だった。


 はねてる前髪、仕上げられなかったレポート、白紙のままの進路希望調査、……、考えなきゃいけないことだらけで頭がいっぱいだった。だから、昨日の夜遅く届いていた瑞樹みずきのお母さんからの「明日、朝、学校に行く前に病院に来てほしい」というメールを読み損ねてしまっていた。


 ―― 手術が早まっただなんて……!!


 私は足に力を入れて自転車のペダルを漕ぐ。桜通りを走っていると新武蔵境通りにぶつかった。いちょう橋だ。右手は境浄水場。ここには国木田独歩の石碑がある。『今より三年前の夏のことであった』という書き出しの石碑は、夏の間に伸び放題に伸びた草に囲まれても、相変わらずずしんと座っていた。

 今から三年前、中学三年生の秋の初め、私と瑞樹は初めてここへ来た。その時も、今日みたいにとてもよく晴れた日で、ヤブランの紫色の小さな花が石碑のまわりにひっそりと咲いていた。 


 瑞樹みずきは玉川上水が好きだった。付き合いだした当初、「玉川上水のどこが好きなの?」って聞いたことがある。



***

「最初は歴史からハマったんだ。江戸時代初期に羽村から四谷大木戸まで約43kmの距離を、100mごとに21cm下げていくっていう工事をしたんだ」

「……それってすごいことなの?」

「そりゃそうさ。このいちょう橋がだいたい10mだから、この長さを2cm下げて水が自然に流れるようにしたんだ」

「へぇ」

「玉川上水はずっと人の暮らしを支えてきた。まあ、人食い川なんて言われたこともあるけどね……」

「人食い川?」

「昔はすごい水量だったから、人が溺れることもあったんだって。太宰治が入水自殺したことでも有名だしね。でも、僕は国木田独歩の『武蔵野』の描写の方が好きだなぁ。『水と水とがもつれてからまって、揉みあって、みずから音を発する』ってとこ。まあ、今はそのころの水量がないから、想像しかできないけどね」

***



 泣き出したくなって、乱暴に自転車を漕ぐ。右手は境浄水場、左手は玉川上水の道をぎゅっぎゅっと足に力を入れて漕ぐ。

 今の季節、玉川上水の植物たちは、夏の日差しを受けて、その勢いを加速させていた。ツル性の植物は自由気ままにそのツルを伸ばし、木に絡まり、自分達も絡まり、どこが上でどこが下なのかさえわからない。絡まれている木も、枝を伸ばし、葉を伸ばし、少しでも太陽に近づこうと手を伸ばしている。



***

幸桜さくら、あれがヘクソカズラ。小さな白い花なのに、ひどい名前だよね。 葉をもむと臭いにおいがするけど、やってみる?」

「遠慮しておく……」

「こっちのハート形で先が長くとがっている大きな葉はオニドコロ」

「じゃあ、あっちは?」

「あれはヤマノイモ。オニドコロに似てるけど、つるの巻き方が違う」

***


 今でも私は、オニドコロとヤマノイモの違いが判らずじまい。


 ―― 私は瑞樹がいないと、だめなんだよぉ!


 怒りの先を自転車にむけて、ぎゅっぎゅっと足に力を入れて漕ぐ。

 

 サラサラ。

 サラサラ。


 水が流れる音。でも、どこが岸で、水がどこを流れているかよくわからない。


 リィリィリィ。

 ジジジ。


 小さな虫たちの声は聞こえるのに、目を凝らしても見つけられない。


 自転車を走らせていると、ザーザーザーという水の音が次第に大きくなる。『境水衛所跡』だ。私は、自転車をとめて、境水衛所跡にある橋の上から眺める。上流側には芥留あくたどめ柵があるから、葉やペットボトルがぷかぷかと浮いていた。瑞樹が熱く語った『武蔵野』の水のイメージはない。それでも、かすかに見える水面に緑がおち、きらきらと輝いている。


 ザーザーザー。

 ザーザーザー。


 水の音を探して、下流側を見る。下流側の左手は二手に分かれている。本流と、千川上水への分水部分だ。千川上水への水路は、コンクリートで作られた真っ暗な闇。ザーザーザーという大きな水音は、千川上水へ流れ落ちる水の音だった。まわりを見ると橋のすぐそばでススキが揺れている。


***

「武蔵野台地は、北は荒川と入間川、南は多摩川に囲まれた洪積台地なんだ。台地上にはレキ層、さらには関東ローム層が堆積していて、地下水は低い位置。武蔵野台地が原野だった理由は水が足りなかったからなんだ」

「原野って?」

「一面、ススキ草原だったってこと。この土地は水はけがよくて木は育ちにくかった。玉川上水は、この地を人が住める土地にし、林を作ったんだ。

 玉川上水は武蔵野台地の尾根部分を流れていて、いくつもの分水がある。千川上水もその一つ。羽村の取水口で入ってきた水は、江戸の町に届けるだけのものじゃなくて、このあたりの作物を作るための水でもあったんだ。原野の武蔵野もすごく魅力的だけど、僕は桜や落葉樹が立ち並ぶ武蔵野の方が好きだな。だって……」

「だって?」

***


 あの時、瑞樹は真っ赤になって黙ってしまった。黒縁の眼鏡を何度もあげたりさげたりして、目をパシパシさせていた。そんな瑞樹が可愛らしくてほっぺにキスしたいって思ったのに、キスする勇気がなかったことを思い出す。


―― キスしておけばよかった……。


 「もしものときのこともあると覚悟してください」とお医者様がかなり難しい顔をしていたと、瑞樹のお母さんが教えてくれた。大きな機械に囲まれた瑞樹は、陶器のような青白い顔をしていた。


『……さ……く……ら……』


 瑞樹に呼ばれたような気がして私はまわりを見る。真っ赤な彼岸花ひがんばなが目にとまる。途端、ザーザーという水が落ちる音が大きくなり、だんだん、世界の境界があいまいになっていく。


 私は彼岸花に向かって歩き出した。彼岸花は私が近づくと、すぅーっと消えて、少し先に見える。

 彼岸花を追いかけていくと、次第に周りに木が現れた。コナラ、クヌギ……。足元には、細長いどんぐりと丸っこいどんぐりがころころと転がっているから、そうかなと思うだけだけど。


 サクサク。

 サクサク。


 落ち葉を踏みしめるたび、乾いた音がする。


 しばらく歩くと、サクラとミズキも現れた。この二種類の木は、不思議なことにどれもこれも花が咲いていた。風に揺られて、ミズキの白い花とサクラの花が揺れる。


 ひらり。

 ひらり。


 音もなく、桜の花びらが落ちる。私は数枚拾うと、そっと手の中に閉じ込める。




***

「小金井橋あたりは江戸時代からの桜の名所なんだよ。川崎平右衛門って人が植えたんだけど、理由は土手を花見客に踏み固めさせたかったとか、桜の花びらに水を浄化させる作用があったからとかいろいろ言われているけどね」

「桜の花びらに水を浄化させる作用があるの?」

「さあ、僕にはわからない。でも、桜は、神の力が宿る神聖な樹木だと考えられていたからね」

「私も瑞樹の病気を治せる力があったらいいのに……」

「幸桜には、十分癒されているよ。だから、もしもの時は――」

「そんなこと言わないで!! それより、あの赤い祠は?」

「水神様だよ」

「水神様。水神様。どうか、瑞樹の病気を治してください。瑞樹とずっと一緒に入れますように……」

****



 遠くの方で、ザーザーザーと水の音がする。私が音のする方へ歩いていくと、少し先に人の姿が見えた。少しだけ左肩を下げたあの立ち方、左手を後ろのポケットに入れている姿。見間違えようがない! 


「瑞樹!!」


 私が来るのを知っていたかのように、ゆっくりと、後姿の男の人が振り返る。


「やぁ、幸桜……。見てごらん。これが僕の見たかった玉川上水だよ……」


 瑞樹が指さした先には、川が流れていた。瑞樹が玉川上水というのだから、玉川上水なんだろうと思う。瑞樹が見せてくれた江戸時代の歌川広重の絵のように、とうとうと水が流れている。銀色の水面は、きらきらしていて美しい。力強い澄み通った水の音ってこんな感じなんだ。


「幸桜。最期に君に会えて、話すことができて、本当によかった。これで、もう思い残すことはない」

「待って!! 瑞樹。私を一人にしないで。瑞樹にはまだ生きてほしいの!!」


 私は、瑞樹がどこかに行ってしまわないよう、慌てて瑞樹の腕をつかもうと手を伸ばした。手の中に入れていた桜の花びらがひらりひらりと玉川上水の中に落ちていく。……、すべての桜の花びらが水面に届くと同時に、水面が銀色に輝き……。そして、水面が山のようにもりあがり――。


『その願い、叶えてやろう』


 ごおーっと音とともに、真っ白な龍があらわれた。


「水神様??」


 龍は自分の身を震わせ、鱗についていた玉川上水の水を雨のように浴びせ、一度私たちの頭上で旋回すると、雲一つない真っ青な空高く昇って行った。


 龍が消えた先には金色に輝く太陽があり、あまりのまぶしさに私は思わず目をつぶった……。






***

「くら……、さくらちゃん、幸桜ちゃん」


私の肩を遠慮がちに叩きながら、声をかける女性がいた。


「? 瑞樹のお母さん?? 瑞樹は? 瑞樹はど……」

「さっきちょっとだけ目を覚ましたわ。もう、大丈夫だろうってお医者様が……」



                              おしまい

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私が自転車を走らせる理由(わけ) 一帆 @kazuho21

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