第43話

~咲子サイド~


幼い頃交通事故で片足を失ったけれど、あたしは健常者たちと変わらない日常を歩んでいた。



障害者専用の学校に通い、人並みに勉強もできていた。



「いけない。教科書を忘れて来ちゃった……」



校舎を出たところで不意に忘れ物に気がつき、あたしは校舎を振り返った。



あたしが使っている教室は3階にある。



ここから戻って教科書を取って来るには、少しめんどくさいと思える距離だった。



けれどこの学校にはエレベーターが設置されているし、今日出された宿題で必要な教科書だから、どうしても取りに戻らないといけなかった。



仕方なく、一緒にいた友人に声をかけて、あたしは1人で教室へ戻ることになったのだ。



「咲子ちゃん」



校舎へ入る寸前で声をかけられ、あたしはそちらへ振り向いた。



立っていのは前原君だ。



前原君は同じクラスの男子生徒で、大人しくてあまり会話をしたことがない。



「なに?」



首を傾げてそう聞くと、前原君はおずおずと近づいてきた。



太陽の光で前原君の義手が光っている。



「あの……少し話があるんだ」



そう言う前原君の頬はほんのり赤く染まっていて、前原君の心中を察してしまった。



あたしは困って眉を下げた。



昔から、あたしは男子に気に入られることが多かった。



けれどあたしは片足がないことに加えて、生まれつき体も弱い。



こんな自分に男子たちを付き合わせるわけにはいかないのだ。



最初は好きだと思っていても、すぐにあたしのことが重荷になることは目に見えている。



それなら、最初から誰のことも好きにならず、1人の時間を満喫したいと考えていたのだ。



「ごめん。あたし忘れ物を取りにいかないといけないの」



あたしは早口にそう言うと、前原君の気持ちを聞く前に車いすを操作して移動させた。



けれども前原君は執拗についてこようとはしなかった。



きっと、あたしの気持ちを察してくれたのだろう。



そう考えて安堵し、エレベーターのボタンを押す。



この時間はもうエレベーターを使用している生徒がいないから、箱はすぐに降りてきてくれた。



いつもと同じようにエレベーターに乗り、そして車いす用の低い位置にあるボタンで3階を押す。



次に閉まるボタンを押そうとした……その瞬間だった。



ガンッ! と音がして、閉まりかけた扉に手がかけられたのだ。



義手が箱の中の電灯によって刃物のように光って見えた。



顔を見せたのは前原君だった。



「前原君……」



前原君の顔はどこか必死だった。



あたしを睨み付けているようにも見えて、恐怖心を抱かずにはいられなかった。



「なんの用事? 話なら後でちゃんと聞くから」



とにかくエレベーターから下りてもらおうと思って早口で言った。



しかし前原君は無言でエレベーターに乗り込んできたのだ。



車いすから見上げる前原君の顔はとても怖かった。



頭上から電気が降り注ぎ、顔半分が影に隠れて黒く染まっている。



しかし目だけはランランと輝き、あたしを見つめているのだ。



「えっと……何階に用事?」



そう質問した次の瞬間だった。



前原君はあたしの体を床へ押し倒していたのだ。



車いすが激しく横転し、大きな音が鳴る。



「いや……! 離して!」



前原君は無言であたしの体にまたがると、あたしの制服に手をかけた。



必死で両手で前原君の体を押し返す。



3階のボタンはもう押しているが、エレベーターはなかなか動きださない。



前原君が片手で開閉ボタンを繰り返し押しているのが見えた。



「やめてよ!」



悲鳴を上げた瞬間だった。



胸に嫌な激痛が走った。



一瞬呼吸ができなくなる。



次に全身から血の気が退いていき、息を吸い込めなくなった。



発作が起こったのだ。



ひっひっと短く呼吸をするあたしを見て前原君が驚いた表情を浮かべる。



ボソボソと小さな声で「どうした?」と聞いてくるのが聞こえて来た。



それに返事をすることもできなかった。



息ができなくて喉をかきむしる。



早く、誰かに伝えないと……!



必死の思いでエレベーターのSOSボタンに手を伸ばす。



これで外部と連絡が取れるはずだ。



大丈夫。大丈夫。



自分を落ち着けるために何度も心の中でそう唱える。



しかし……。



ボタンに手を伸ばすあたしの手を、前原君が掴んだのだ。



前原君はあたしをジッと見下ろしている。



まるで死んで行く蟻をマジマジと観察しているかのように、目を輝かせて。



「まえ……ばらくっ……」



引きつりながら必死に名前を呼ぶ。



次第に意識が遠のいていくのを感じる。



力が抜けて行き、ボタンに伸ばしていた手が落下してしまった。



もう、声をあげる元気もない。



「やっぱり、咲子ちゃんは綺麗だね」



あたしが最後に聞いたのは、前原君のうっとりするような声だった。

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