第39話
あたしと光弘が頭を下げて懇願すると、咲子さんのお母さんは諦めたように前原の名刺を渡してくれた。
フルネームは前原正平(マエバラ ショウヘイ)と言い、咲子さんの1つ上みたいだ。
住所もここからそう離れてはいない。
しかし、周囲はすでに真っ暗で空には星が輝き始めていた。
「美知佳、今日のところは一旦帰ろう」
バス停まで来て充弘にそう言われても、あたしは簡単に頷くことができなかった。
せっかく手がかりをつかんだのに、このまま帰るなんてもったいない。
なにより、明日も同じことが起こるとわかっているのに、それに対しての対策はなにもできていなかった。
帰るか行くか。
決める事ができなくて立ち尽くしていた時、不意に一穂の体がグラリと揺れた。
驚いて両手を差し伸べて支えると電灯で照らされた一穂の顔はひどく青ざめている。
「一穂大丈夫!?」
「大丈夫……。ちょっと、疲れてるだけ」
一穂はそう答えるものの、自分の体重を支えていることも難しそうだ。
「一穂のためにも今日は早く帰ろう」
そう言われると、あたしは何も反論できなくなるのだった。
☆☆☆
「美知佳、大丈夫か?」
分かれ道まで差し掛かり充弘にそう声をかけられたので、あたしは頷いた。
一穂はあたしの体にもたれかかったままだ。
このまま一穂を家に送って行くつもりだった。
「大丈夫だよ。一穂の家は近所だから」
と言っても人1人支えながら歩くのは大変で、歩調はゆっくりになる。
でもそれは自宅に戻れば考えられないことを思案することができる時間になる。
あたしは咲子さんのことをじっくりと考えようと思っていた。
「気を付けて帰れよ」
充弘にそう言われ、あたしはまた歩きだした。
「ごめんね美知佳」
一穂が申し訳なさそうな声でそう言い、あたしから離れて1人で歩き出した。
「一穂大丈夫なの?」
「少し楽になった。ありがとう」
暗がりなので一穂の顔色を確認することはできなかったけれど、その声はさっきよりもしっかりしている。
「あたし、もっとしっかりしなくちゃね。美知佳たちはしっかり調べものを進めてるし、幸生も頑張ってるのに」
一穂の呟くような声に涙が込み上げて来る。
今一番辛いのはあたしじゃなくて一穂かもしれないと思えた。
好きな人がいつどうなるかわからない。
その不安と恐怖は計り知れない。
赤信号で立ちどまり、ぼんやりと星空を見上げた。
ここ数日雨が降っていないので、今日も星がきれいに見える。
このまま梅雨明けするんだろうか。
咲子さんの苦悩も、こんな星空みたいに綺麗に晴れてくれればいいけれど……。
そう思った時だった。
不意に誰かがあたしの背中を押していた。
両手で、確実に狙って、力を込めて……。
ドンッと押された次の瞬間、あたしの体は赤信号の歩道の上にあった。
え?
と、周囲を見回す暇だってなかった。
「美知佳!?」
一穂の驚いた悲鳴が聞こえて来る。
車のクラクションが聞こえて来たかと思うと、乗用車が急接近していた。
あ、このまま死ぬんだ。
そう考えるあたしはやけに冷静だった。
棒立ちになったまま動けないのに、迫って来る車のナンバーも読み取れるくらいだった。
もしかしてエレベーターの中だけじゃないのかも。
咲子さんはシビレを切らして、あたしを襲いに来たのかもしれない。
そんな考えが一瞬にして過ぎて行き……次の瞬間、ブレーキ音とゴムの焼ける匂いが周囲に立ち込めていた。
体に衝撃はないが、あまりの騒音にギュッと目を閉じた。
そして……「なにしてんだ!」
そんな怒号が聞こえてきてあたしはようやく目を開けた。
見ると、乗用車の窓から男性が顔を出してこちらを睨み付けている。
それを見て、あたしはようやく呪縛から解放された。
慌てて一穂のいる歩道へ戻り、その場にしゃがみ込む。
「美知佳大丈夫!?」
行きかう車のヘッドライトが青ざめた一穂の顔を照らし出す。
あたしは小刻みに頷いた。
もしも乗用車があのまま真っ直ぐ突っ込んできていたら……?
そう考えて強く身震いをした。
そして、そっと顔をあげて周囲を確認する。
歩道には沢山の人が立ち止まっていて、信号が変わるのを待っている。
その誰もが驚いた表情であたしを見ていた。
この中に咲子さんがいるんじゃ……?
そう思って目を皿のようにして眺めたが、結局咲子さんを見つけることはできなかったのだった。
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