第380話 神竜大戦 下

 終わりの始まりは、戦闘を再開して丸一日経った、突然のことだった。


 避けられることを見越して放った黒の剣による斬撃。

 跳び下がったところに追撃をかけようとした俺の目論見は、ジャンプ寸前に姿勢を低くした黒竜王の前足が崩れたことで、修正を余儀なくされた。


 ――もちろん、またとない絶好のチャンスとして。


「はあっ!!」


 黒竜王を追うために力を溜めていた足に急制動をかけた、構えも何もあったものじゃない不格好な切り払い。

 二度と生まれるかどうかも分からない隙を生かすには、狙うべきは胴体じゃなく崩れた前足。

 逡巡の末に最短距離を選んで繰り出した渾身の一撃は、左前足の鱗を叩き割りながら肉を裂き、硬い硬い竜王の骨に半ばまで食い込んだところで動きを止めた。



 響き渡る黒竜王の絶叫――じゃなく、咆哮。



 深手を負わされたことによる痛みを上回る、怒りを根源としたドラゴンブレスの予兆と直感して回避――じゃなく、


「『プロメテウス』!!」


 刃を介して、斬り込んだ骨の髄に火魔法を叩き込んだ。



 グギャアアアオオオオオオオオオン!!



 これまでに聞いたことがない、黒竜王の鳴き声が辺りに響き渡る。

 初めての会心の一撃は黒竜王に膝をつかせると共に、俺に一つの確信を抱かせた。

 ――これまでの無意味に思えた戦いは、着実にダメージを蓄積させていたんだと。


「わ、我が、我がこんな馬鹿な……!?」


 動きが止まった黒竜王と、文字通り神の眼になった俺の視覚。

 この二つが合わさって初めて見えてきた、満身創痍のドラゴンの肉体。

 底知れない防御力を持つ黒竜王の鱗は、今に至るまで俺の攻撃を無効化し続けてきたけど、その内側まではそうじゃなかった。


「お、おおおおお……!!」


 黒竜王が立ち上がろうとする。

 ーー逆に言えば、すぐには立ち上がれないところまで追い詰めている。

 他でもない、俺の足掻きが。


「うおおおおおおーーぐはぁっ……!!」


 立ち上がりかけた黒竜王が、また膝から崩れ落ちる。

 機能していない左前足を使おうとしたから当然の結果なんだけど、そんなこともわからないらしい。

 どんな敵を前にしても勝利しかありえないという、竜王としての自信。

 でも、自信と傲慢は紙一重だ。

 限界を迎えた黒竜王の肉体はついに言うことを利かなくなり、俺の攻撃を甘んじて受けるしかなくなって、今この状況がある。


 といっても、真実はわからない。

 黒竜王の動きが鈍った理由は別にあるかもしれないし、俺の見立てが間違っているかもしれない。

 それでも、左前足の負傷という不利を黒竜王が背負ったのは確かで、畳みかけるなら今しかない。

 そう覚悟して、これまで保ってきた間合いを侵して、攻め偏重でさらなる与えようとした瞬間、


「凍えろ!!」


 その一言で黒竜王が引き起こしたのは、古代魔法による吹雪。

 一帯に広がった竜王の魔力は冷気と雪雲を呼び込み、あっという間に雪原を創り出す。

 肌は凍えて、視界も不良。それでも、俺の前進を止めるまでには至らない。

 焦った黒竜王が苦し紛れの魔法を放って、俺にも魔法を使わせて回復の時を稼ごうとしているなら、それに付き合う必要はない。

 そう思って駆け出そうとしたところで、――足がもつれて転んで、すぐさま起き上がろうとしてまた転んだ。


「クク、クハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」


「……な、なにをした?」


 体が自分のものじゃないみたいに動かない。

 原因はわかっている。体温が低くなって血の流れが悪くなったせいだ。

 その一方で、いくら急激に寒くなったといっても、こんなに早く行動不能になるわけがない。

 吹雪以外に、黒竜王が魔法を使った形跡はない。古代魔法がどんなに強力でも、周囲に満ちている魔力の総量まではごまかせない。

 感知している魔力が幻覚でない限り、この吹雪が俺を行動不能に追い込んだと言うしかない。

 少なくとも、哄笑する黒竜王はそう確信していた。


「クハハ、なぜ自分が倒れているのか、理解していないようだな」


「どうせ、幻覚の魔法かなんかだろう、こんなもの、すぐに治癒してやるさ」


「いいや、貴様の不調が癒えることは金輪際ない。なぜなら、貴様の肉体を蝕んでいるのは、他ならない貴様の加護だからだ」


「俺の……?」


 敵の言葉を聞いてはいけない。

 戦いにおけるそんな単純なルールを、今の俺は守れずにいた。

それほどに、黒龍王は俺の心を掴んでいた。


「加護の極致に至り、神の領域に踏み込んだことで、貴様は我に伍する力を手に入れた。それは認めよう。だが、そこに何の代償もないと本気で思っていたのか?」


「代償?」


「我ら以外の生きとし生けるものの命には、すべからく限りがある。神の加護を得ればいくらか伸ばすことも可能だが、それとて無限というわけではない。そして、肉体に見合わない加護を得れば、そのずれが大きければ大きいほど、その者の死は早まる」


「なんの話を、しているんだ……?」


「この程度の冷気に耐えられないほどに、貴様の肉体は死に近づいてしまった、ということだ」


「死ぬ? 俺が? そんなわけが――」


 黒竜王の話を否定しようと起き上がろうとして、三度目の転倒。

 さすがに、これで認められないほど愚かなつもりはないし、認めないで戦えるほどこのドラゴンの王は甘くない。


 上がらない体温に、動かない手足。

 俺の命の火が消えかけているという証拠として、これほど確かなものはないだろう。

 俺は死ぬ。その事実と向き合わなくちゃいけない。


 最初から、生きて帰れないことを覚悟していたはずだ。

 事前予想の通りなら、今頃は絶望的な戦いを続けているか、とっくに死んでいるかのどっちかだった。

 いや、後者以外の結末があったとは思えない。


 それが、思いもかけずに望外の力を手に入れて、黒竜王相手に互角の勝負まで持ち込むことができた。

 だったら、こんなもの代償でもなんでもない。

 ただ、あと少しだけ保てばいい。


 黒竜王を倒せるまで保てば、それでいい。



『プロメテウス』



 雪原に生まれた極小の太陽が、熱風に乗せて冷気を吹き飛ばすと同時に、俺の体から強張りが消えていく。

 寒さに耐えられないなら、温めればいい。

 そうすれば、まだまだ戦える。

 剣は握れる。足も動く。魔法も、治癒術も使える。

 絶望するには、敗北を認めるには早すぎる。


「貴様まさか、まだ抗うつもりか?」


「なんだ、もう勝った気になっているのか。だとしたら、気が早いと言うしかないな」


 驕りでもなく、怯えでもなく、なにか得体の知れないものを見るような、黒竜王の金眼。

 その視線に真っ向からぶつかりながら、ゆっくりと立ち上がり、黒の剣を向ける。


「さあ、戦いを続けようぜ、どっちかが続けられなくなるまで」


「神になりたての元人族がよくも吠えたな! もはや約定など知ったことか! 神としての貴様を滅した後、一匹残らず人族を借り尽くしてやる!」


「させるかよ!!」


 ぶつかり合う、視線と視線が互いを引き寄せ合い、どちらかともなく間合いが狭まる。

 そして、共に残った力と精神を振り絞るような戦いが、剣と五爪がぶつかり合う音を合図にして始まった。


 決着まで、あと少し。

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