第377話 最後の選択

 不思議な光景だった。


 人族に限らず、日光を直視することは目に大きなダメージを与えかねず、最悪の場合は失明してしまうことすらある。

 だというのに、その人影を通して見た太陽は、分厚い雲がかかったように薄暗かった。


 ……いや、雲じゃなくて暗幕。

 もしくは、黒の帳と言うべきかもしれない。

 人影が発している膨大な魔力が黒い靄になって、光すらも捻じ曲げてしまっているんだ。

 それでも、唯一変わらない、太陽に匹敵する輝きを放つ金眼が、その正体を教えている。


 魔物ではありえない。

 亜人族も、ましてや人族なんて予想することすらおこがましい。

 存在するだけで世界の在り方を歪めてしまう究極の生命。

 どれほど姿形を変えたとしても、奴が黒竜王であることに疑いの余地はなかった。


「ひとつ、貴様に問うてやる」


 若いとも老いているとも、男とも女とも取れる、聞いたことのない複雑な声色。

 逆光と周囲を漂う魔力のせいで輪郭もおぼろげで、人影の年恰好は推測できない。

 もっとも、相手は五千年以上の年月を生きている重畳の存在であることは明白で、今さら俺との差を比べる必要も意味もどこにもない。

 なにより、勝敗は決まったも同然なんだから。


「なぜ、抗う」


 唐突な、疑問というよりは非難めいた投げかけを、俺は驚かない。

 声を聞くのは、言葉をもらうのは初めてでも、会話に拠らない応酬をつい昨日まで繰り返してきたから。

 何十、何百日も命を差し出し続け、命を狙い続ければ、相手の動き一つ、目線一つでなんとなく考えが読めるようになるものだ。


 もちろん、この感覚はあくまで俺だけのもので、相手がどう思っているかなんて、それこそ神のみぞ知ることだ。

 ――そのはずだったものが今、目の前で俺に問いかけていた。


「あ、抗うに決まっているだろう。そうしないと人族が滅ぶんだから」


「分かっていたはずだ、貴様には」


 口数の少ない黒竜王に、なにを、とは聞かない。

 問い返さなくても、お互いの中に同じ言葉はすでにあるからだ。


 敗北はどこから始まっていたんだろう?

 こうして黒竜王と対話している時。

 黒の巨人に乗り込んだ時。

 それとも、黒竜王と戦おうとしたこと自体が間違いだったのか。


 今なら、ジオの謝罪の意味もわかる。

 あれは、俺だけを戦いの生贄にする申し訳なさと同時に、負けが確定している戦いを強いることを予感していたのかもしれない。


「ここまで来れば愚かな人族でも理解が及ぶだろう」


 ――伏して、降れ。


 一を聞いて十を知れ、と言わんばかりに、黒い人影は金眼を向けてくる。

 竜災によって人族の国はほぼ全滅。

 黒竜王が出てきたところで、生き残った勢力は敗北を認めた。

 残ったわずかな抵抗戦力もまばらに現れては、俺との戦いのついでに一蹴されている。

 つまり、俺が負けを認めれば全ては終わり、人族は災厄に蹂躙されるがままになる。


 だが、と黒竜王は言う。


「人族が滅ぶのは貴様のせいではないだろう。それは人族全体が負うべき咎だ」


 かつての失敗を教訓とせずに、数を増やし、山野を切り開き、魔物を排除し、傍若無人の果てに再び神の怒りを買った。

 それだけじゃ飽き足らず、不可侵であるはずのドラゴンにまで手を出し、災厄を拡大させてしまった。

 そういう見方をすれば、確かに人族は救いようがないほどに愚かだ。

 神々が、ドラゴンが滅ぼすというのなら黙って受け入れるべきなのかもしれない。


「貴様はよくやった。我とここまでの戦いを演じたことを称え、竜の英雄と称することを許そう。望むなら、貴様とその眷属は見逃してやってもいい」


 がつん、と脳天を殴られたような衝撃。

 黒の巨人を駆っての戦いの中で痛みを感じる機会はなかったけど、もしもあの最中にこの言葉をかけられたら、文字通りの再起不能に陥っていただろう。

 それほどの、甘い甘い誘惑。


 ターシャさんと、リーナと、みんなとまた会える。また暮らせる。

 白いうさぎ亭を再建して、常連客相手に丁々発止やり合って、みんなで乗り切って、夕食で一日の出来事とか愚痴を言い合って、夜には……


 そんな光景が頭をよぎるたびに挫けそうになる。

 一番心を許してはいけない相手の言葉でも、いやだからこそ、ここまでダメージが大きいのかもしれない。


「さあ、そこで跪け。跪き、我に許しを乞え。そうすれば、これまでの無礼の数々を許し、英雄として後世に語り継いでやろう。勝てぬ戦いで命を落とすなど傲慢の極み。人族は人族らしく、強者に首を垂れていればいいのだ」


 ――力が抜ける。足が震える。

 あとはもう、ちょっとバランスを崩せば、体が勝手に膝をついてくれる。

 ついでに一言だけ呟けば、この戦いは終わってみんなのところに帰れる。


「眷属以外の者など気にするな。運が良ければ生き延びるだろう。運がなければ滅びるが、それはその者の宿命というものだ」


 次第に饒舌になっていく黒竜王の言葉で真っ先に思い浮かぶのは、ジオのことだ。

 あいつなら、俺がここで諦めたとしても笑って許してくれるだろう。

 お兄さんは、……鉄拳制裁は覚悟するとして、なんだかんだで尊重してくれる気がする。

 もちろん、他の貴族となれば非難轟々になること間違いなしだけど、まあ、この二人が納得すれば、俺としてはそれでいい。

 その後の難しい問題はその時に考えよう。


 そう思って、震える足から力を抜いて楽になろうとしてーー崩れ落ちることができなかった。

 俺の足は力の限りに踏みとどまって、世界に抗うように立っていた。


「何をしている、早くひれ伏せ。まさか、できないというわけでは――」


「そのまさかだ。俺はまだ負けたわけじゃない」


「……理解に苦しむな。これ以上無駄に長引かせる理由も、勝ち目もないはずだ。敗北が決定づけられていないというだけの状況で、なんの意味がある?」


「たしかに理由はないさ。お前の言う通り、勝ち目もない。だけどな、笑っていないんだよ」


「なに……?」


「俺の中にいるみんなが、お前に屈して帰ってきた俺を見たみんなが、誰も笑っていないんだよ」


 ターシャさんが、リーナが、ダンさんが、ティアが、ルミルが。

 なぜかいるジオもお兄さんも、口角を上げて取り繕っているだけで、本心からの笑みじゃなぁった。


 思い込みかもしれない。きっと気のせいだ。

 だけど、自分自身に問いかけた答えを出してしまったからには、これ以上は嘘を塗り重ねるだけになってしまう。

 それだけはできなかった。

 たとえ、その光景の中に俺がいなくても。


「そうか。ならば、覚悟せよ」


 そう言い残して、日光の中の人影は金眼を逸らして背を向け、そのまま去ってしまった。


 それが意味するのは、黒竜王の戦場への帰還と、終わりの始まり。

 勝敗のついた戦いを再開――というより、一方的な蹂躙劇が幕を開けることになるだろう。


 だとしても俺のやるべきことは一つ、黒の巨人のところに戻って、修復を手助けすることだけだった。






 日の出と共にやってきた人影と対になるように、日没の空から飛来した黒竜王。

 わかっていたこととはいえ、早すぎる戦いの再開に思わず奥歯を噛みしめる。

 手足は一本も修復できていない。できるのは、黒の巨人によって増幅が可能な四大属性魔法だけ。

 とにかく、四種すべての魔法で迎撃して、まずは黒竜王を空から落とすしか有効な手段はない。


 そんな俺の目論見は、やっぱり大甘で愚かだった。


 湖の水を盛大に巻き上げる衝撃波よりも一瞬先に訪れた竜王の巨体は、四大属性魔法によって嵐と化した湖を苦もなく突っ切り、一切の遅滞もなく黒の巨人の胴体を直撃した。


「がっっっっっっ…………!!」


 タイタンの槍の素材よりもはるかに硬いドラゴンの頭部の直撃を受けた胴体は無数のヒビを刻みながら、放射状に崩壊していく。

 そして、その中心にいた俺には、


「ははは、ゴフッ!!」


 見ると、黒の大剣によく似た鋭い破片の一つが、深々と腹に刺さっていた。

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