第364話 幕間 宰相の胸中
テイルが駆る黒鋼の巨人が黒竜王に一矢報いた瞬間から、時は少し遡る。
ジオグラッド公国公王ジオグラルド、凶刃に倒れる。
短い公国の歴史の中で、後にも先にも訪れないだろう未曾有の危機に、政治一切を預かる宰相マクシミリアン公爵は、自ら馬上の人となって公都へ続く街道をひたすらに走っていた。
馬術の達人だった祖父の血を色濃く受け継ぐ公爵に、追随できた護衛騎士はわずか。
常ならば乱心したと糾弾されるほどの大胆な行動だが、マクシミリアン公爵は冷静そのものだった。
冷静だと、自らに言い聞かせる責務があった。
「火急である!通るぞ!」
戦勝パレードのために飾り立てた城門を、あり得ない刻限にあり得ない人物が騎馬で通過する光景を目にして絶句する騎士に一方的に断り、公都へと入っていくマクシミリアン公爵。
全ての軍列がジュートノルへ向かったところで規制が解除され祝祭で本格的に賑わい始めた大通りを、見事な手綱さばきですり抜ける。
そうして、とうとうすべての護衛騎士を引き離してしまった公爵は政庁に到着。
予定外の宰相の帰還に驚く門番に馬を預けると、玄関をくぐるなり、
「キアベル伯爵の元へ案内せよ!それとキアベル夫人を呼べ!」
突然の事態に、戦勝パレードの事務処理の最中だった大勢の役人が凍りつく玄関前広間。
だが、戦勝パレードに際して不測の事態も起こり得ると、非常時を想定していた役人たちが一斉に動き出し、その内の一人がマクシミリアン公爵の案内役を買って出た。
それから、政庁の留守を預かるキアベル伯爵が詰めている、中層に位置する宰相執務室に、さほど時をかけずに辿り着いた公爵は案内役に扉を開けさせるなり、のんびりと茶を喫していたキアベル伯爵に話しかけた。
「留守役ご苦労、キアベル伯爵」
「おや、宰相閣下ではありませんか。お早い御帰りでしたな。公王陛下も御一緒で?」
「すまないが、私の一存で夫人をここに呼んである。詳しい話はその時に」
「は、はあ」
生来の性分として鷹揚な態度をとるキアベル伯爵だったが、挨拶もせずに会話を切り上げたマクシミリアン公爵の厳しい表情にはさすがに感じるものがあったらしく、座っていた執務机を明け渡し、応接用のソファにカップごとすごすごと移動した。
そうして、会談の場を急ぎ整える役人や、ようやく追いついた護衛騎士などが執務室の中で入り乱れる様がひとしきり繰り広げられ、支度が整い人の流れが落ち着いたころを見計らうように、
「このような格好で申し訳ございません。着替えの手間を惜しむ火急の用件と見受けましたものですから」
戦勝パレードの日にふさわしい豪奢なドレスに身を包んだキアベル夫人が現れ、簡略した挨拶を述べた後で、そんな一言を添えた。
「いや、よく察してくれた。では、戦勝パレードにて起きた一部始終を話す。決して聞き漏らさぬように。そして、気をしかと持つように」
そう切り出したマクシミリアン公爵は、予想されていた刺客の襲撃と撃退、さらにジオグラルド負傷のあらましを手短に語った。
「ヒュドラの毒に侵された公王陛下の受け入れは、すでに私の側近に支度を命じているが、公国や私が抱える治癒術士だけで万全の態勢を敷いたとは言えまい。よって、公国の貴族が所有する、全ての名うての治癒術士を派遣するようにキアベル家の名で要請していただきたい」
「承知いたしました。あなたも、それでよろしいですわね?」
「……あ、ああ。お前の良いように計らってくれ」
驚きの気配を残しつつも冷静に答えるキアベル夫人と、上の空のままの伯爵。
そんな、対照的な夫妻の反応を見慣れているマクシミリアン公爵は、間髪入れずに次の問題に移った。
「では本題だ。本日をもって、ジオグラッド公国の外交活動の一切を停止する。これは決定事項だ」
これには、キアベル伯爵はもちろんのこと、アドナイ王国の社交界に影響力を持つ夫人でさえも言葉を失わざるを得なかった。
それでも、わずかな空白の後に真意を質そうと口を開こうとした夫人を、マクシミリアン公爵の右手が制した。
「夫人の言いたいことは分かっているつもりだ。だがこれは、公国樹立以前からジオグラルド第三王子殿下と取り決めていたことなのだ」
「……今の宰相閣下の言葉で疑問が大幅に増えましたけれど、まずは続きを聞かせていただきましょう」
「当時のジオグラルド殿下の提案はこうだ。『災厄』にドラゴンが加わり、かつ公王陛下が政務を執り行うことが不可能になった場合には――」
その時、微かな振動が宰相執務室を襲い、マクシミリアン公爵の話を中断させた。
地下要塞都市であるジオグラッドの中央に位置する政庁は、天を衝くほどの尖塔を有している。
優れた技術を持つドワーフの助言を受けた公都の象徴は、魔物の襲撃はもちろん多少の地震にもびくともしない設計がなされているが、それでも万が一の避難の判断と手順は厳格に決められている。
とりあえず、避難の必要の有無を確かめるために執務室を飛び出していったマクシミリアン公爵の護衛騎士を待つまでの間、しばしの休憩という雰囲気になったところで、青い顔をした護衛騎士が戻ってきた。
「お、お館様、そ、外を、ジュートノルの方角をご覧ください……」
何事もなければ平静に、政庁が危険なほどの地震なら迅速かつ簡潔に知らせを持ってくるはずの護衛騎士は、しかし、この世の終わりが訪れたような虚脱した様子で、マクシミリアン公爵に報告した。
そんな護衛騎士を問い詰めるよりも自らの目で確かめた方が早いと思った公爵は、キアベル夫妻に断る手間すら惜しんで執務室から飛び出した。
戦勝パレードに合わせて完成させた魔導昇降機に乗り込み、乗り合わせた役人が驚くのも無視しながら最上階にたどり着くと、さらに上層にある見張り台に続く階段を駆けるように登った。
そして、ついさっきまでいたジュートノル――その城壁ですら隠し切れないほどの巨大な黒竜が土煙を上げながら暴れまわっている光景を見て、絶句した。
どれくらいそうしていただろうか。
「……公王陛下の先見の明を疑うわけではないのですけれど、ここまでのことを予測していたのでしょうか?」
「キアベル夫人……」
遮るもののない強風にあおられながら、ドレス姿のキアベル夫人が公爵の横に並んだ。
「御夫君の姿が見えないようだが?」
「あの方では、これを直視することは耐えられませんもの。一足先に、貴族の方々への根回しを家臣に命じるようにお願いしてきましたわ」
「確かに、神話のごときこの景色は、伯爵には荷が勝ちすぎるな」
「それで、差し出口を承知の上で申し上げますけれど、公都の民に避難を命じなくてよろしいのですか?」
「今日の私は、戦勝パレードの参列者の一人にすぎぬのでな、助言を求められぬ限りは、留守を任せた御夫君の役目だ。無論、我が優秀な側近を数人、補佐につけてあるからこその信頼だがな」
それに、と付け加えながら、ジュートノルから視線を外さないマクシミリアン公爵は言う。
「あれがこちらに来たとして、私一人が加わったところでどうにかなると、夫人は思うか?」
「淑女として、殿方の領分である軍事に口を出すことは慎んできましたけれど……無駄では?」
「私もそう思う。だが、それでも抗わねば公国の、人族の未来はないのだ」
と、マクシミリアン公爵が決意を新たにした瞬間だった。
突如ジュートノルの街壁が爆散し、中から飛び出てきた黒竜がその金眼を公都に向けたのは。
「キアベル夫人、今すぐにでも地下に避難した方がよさそうだぞ」
「そう仰る宰相閣下は?」
「言っただろう、それでも抗わねばならぬと」
「でしたら、夫に代わってお供いたしますわ」
もはや、黒竜が公都を狙っているのは決定的、今さら逃げたところでどうにもならない。
そう覚悟を決めた二人の前に現れた三度目の衝撃は、公都を救うものだった。
「巨人……!? 宰相閣下、あれは公国軍の……」
「違う、はずだ。あのようなものは、公王陛下からも一切聞いてはいない。だが……」
「なにか、心当たりがお有りなのですね?」
「我らは、未来永劫消えぬ責務を奴に背負わせたのかもしれぬ」
その後のドラゴンと巨人の攻防の間、マクシミリアン公爵とキアベル夫人は一言も発さなかった。
ドラゴンの方はまだしも、巨人の戦い方はジョブやスキルに疎い二人には及びもつかない代物だったし、専門家を呼んだところで納得のいく説明が聞けるとは思えなかったからだ。
まさに神話の再現としか言いようのない光景を、黙って見届けることしかできなかった。
やがて、終わりの時が訪れた。
「……動きませんわね」
「動けぬと言った方が正しいであろう。遠目にも、どちらに主導権があるのか明らかだからな」
「それは、どちらの方なのでしょうか?」
と、キアベル夫人が言い終わらぬうちに、巨人が放った何かが黒竜に命中して後退させた後、しばらく睨みあっていた両者に動きが現れた。
対の翼を大きく羽ばたかせ始めた黒竜が、ゆっくりと上昇し始めたのだ。
「もしや、空高くからドラゴンブレスを放つ気なのでは?」
「それはあるまい。使う気ならば、戦いになる前に使っていたであろう」
マクシミリアン公爵の言う通り、ある程度の高さに至ったところで巨人から視線を外した黒竜は、そのまま空の向こうへと遠ざかっていった。
それを見届けるように立ち尽くしていた巨人も、片膝をつく姿勢になった後で再び動かなくなった。
「なぜ、巨人は追撃をかけなかったのでしょうか……追撃できなかったということですか?」
「さあ、先ほど言ったのはあくまで私の推測にすぎぬ。ともかく、我らも善後策を講じなければな。キアベル夫人、裏工作を頼んでもいいだろうか」
「それはもちろん、微力を尽くしますけれど……あの巨人はどうするおつもりで?」
「捨ておいてやってくれ。今頃は、自分のことで手一杯であろうからな」
はぐらかすような言葉に、それ以上問いを重ねることをやめたキアベル夫人。
そんな夫人をエスコートしながら執務室へと戻り始めたマクシミリアン公爵の胸中には、これから悲劇に向き合うことになる若者を案じる気持ちがあった。
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