第360話 最後尾で見た蹂躙


「ジオ!!」


 気づいた時には体が動いていた。

 踏み出して、駆けて、転びそうになって、踏ん張って、また駆けて。

 スピードスタイルを使うまでもない距離のはずなのに、あの日、ティアを抱えて走った王都並みに苦しい道のりで。

 それでも俺が一番早くたどり着いたのは、起きた事態にまだ誰も頭が追いついていなかったからだろう。

 そう言えるほど、腹の傷から出た血が儀典用の衣装を黒く染めていくジオの姿は、現実味がなかった。


「ジオ、ジオ、聞こえるか!!」


「……やあ、テイル。はは、斬った張ったの修羅場は潜り抜けてきたつもりだったけれど、考えてみれば刺されるのは初めての経験だよ――ぐうっ」


「返事だけしてくれれば十分だ!いいから寝ていろ!」


 ナイフで刺されて馬車の座席に座り込んだままのジオをその場に寝かせ、衣装の上から傷口を押さえる。

 もちろん痛くないはずはないけど、少しでも出血を抑えるためにはこれしかない。

 本来なら、ファーストエイドで治癒するべきところだけど、それは難しい。

 傷が深ければ完治はしないし、なにより表面上は治ったように見えても体の中で出血が続き、やがて死に至る例もあると、冒険者学校で習った記憶が残っている。

 観衆を始めとした周囲の喧騒が広がっているから、異変を察した本職の治癒術士がすぐにやってくるだろう。

 それまで持ちこたえられるかどうかが生死の境目になるだろう。


 だというのに、ジオの言葉は止まらなかった。


「参ったよ。今回は本当に参った。因果応報。他者への行いは必ず自らへと還ってくる。政治とはその真理を民に知らしめることが目的と言えるわけだけれど、まさか僕自身に降りかかるとは思ってもみなかった。認めるよ、あれ以来、君のことを思い出したことは一度もなかった。まったく、失策以外の何物でもないよ」


「だから喋るなって――」


 長口上を述べるジオを本気で叱ろうとして、その視線と意識が俺に向いていないことに気づく。

 いや、話を聞かせる意図はあったのかもしれない。


 とにかく、振り返ってジオが見ている相手――今も二人の護衛騎士に両脇を抱えられている刺客を見て、



 背筋が凍った。



 油と埃でギトギトになった薄めの髪。

 襤褸よりもボロボロなマントと服。

 真っ黒に焼けた肌。

 やせ衰えて骨が浮き出た手足。


 だけど、白のたてがみ亭で俺を奴隷のようにこき使い、ターシャさんを貴族に売り飛ばそうとして、あげくの果てにジオに断罪されてジュートノルを出ていったはずの元主人の目だけは、間違えようがなかった。


「ゴーーーーーードオオオオオオン!!」


「ヒ、ヒヒャアアアアアアアアア!!」


 ジオの傷口を押さえる手を離すわけにはいかず、それでも胸の中で燃え盛る炎を吐き出すと、まるで意味をなさない奇声になって返ってきた。

 その影響だろうか、未だにゴードンの手の中にあったナイフがぽとりと落ち、地面に落ちて甲高い音を立てた。

 その瞬間、一度だけ跳ねてはっきりと形状を見せてきた凶器に、ゴードンとの再会で怒り狂った頭から一気に血の気が引いた。


「テイルさん代わります!!」


「テイル殿、手をどけてください!!」


 テレザさんとリーゼルさんの声がしたかと思ったら、無理やりジオの体から離され、我に返る。

 間髪入れず癒しの力を使おうとするテレザさんの手をすんでのところで掴んで止め、夢であってほしいと願いながらもありのままの事実を口にした。


「ヒュドラの毒付きのナイフで刺されたかもしれないんです!!」


「テイルさん……?」


「テイル殿、なにを……?」


「そこに落ちているナイフに見覚えがあります。ガルドラ公爵家からレオンが持ち出して、紆余曲折の後にリーナが傷を負ったナイフに形がとてもよく似ています。リーゼルさん、あの時のナイフは回収されたんですか?」


「い、いいえ。戦いののち、公国軍が懸命に捜索しましたが、発見には至らなかったはずです。ですが、今は公王陛下の治癒を最優先にすべきです。そもそも、王都で失われたヒュドラの毒のナイフがよりにもよって公王陛下に向けられるという偶然が起きるはずが――」


「待って、リーゼル卿。……エルフ族から貸し出された秘宝が破られてる。他の魔道具もいくつか」


「っ……!?」


 見ると、豪華絢爛なジオの衣装に少しだけ違和感があった。

 衣装を飾る無数の装飾品の中で、一部に致命的な亀裂が入っていて、優美さを損なっていた。

 テレザさんの言う通り、あれらがジオの身を守るための魔道具だとすれば、ヒュドラの毒に抗しきれずに破壊されたということになる。


「ヒュドラの毒の治癒法は見つかっていないわ。あのミザリー大司教でさえ、蘇生の秘術以外は用いなかった。もしかしたら、治癒術が却って毒性を増大させる恐れがあるのかも」


「それではどうすると!?まさか、公王陛下をこのまま見殺しにするつもりですか!?」


 普段の余裕の態度は鳴りを潜め、なかば狂ったようにテレザさんに詰め寄るリーゼルさん。

 その騎士鎧の胴に手を当てて制したのは、二人の間で体を横たえていたジオだった。


「リーゼル、少し落ち着くんだ」


「公王陛下!ご無事ですか!?」


「無事、とは言えないけれど、傷は大したことがないみたいだ。エルフの秘宝や魔道具が不完全ながらも守ってくれたんだろう、ヒュドラの毒の影響も今のところは感じないよ」


「では、すぐに治癒術を――」


「テレザ司祭長、全てを任せる。好きにやってくれて構わない」


「では、この場で傷口を縫合させていただき、応急処置が済んでから公都に運ばせていただきます。リーゼル卿も、よろしいですね?」


「っ……衛士兵団!今すぐに天幕を用意せよ!縫合の道具一式もだ!どこでだと?ここに決まっているだろう!公王陛下の御命にかかわるのだぞ!通りの封鎖を続けろ!」


 テレザさんの要請を受けて、リーゼルさんの命令が飛ぶ。

 それによって、どうしていいか分からずにいた騎士や衛士達も一斉に動き出し、ジュートノルは再び喧騒に包まれ始めた。


「ヒヒ、ヒヒヒヒヒヒ……」


「さっさと連れていけ!宰相閣下のご判断を仰ぐのだ!」


「は、ははっ!よし、行くぞ!」


「しかしこいつ、どう見ても正気を失ってるぞ。本当に刺客なのか?」


「知らん!それも含めて宰相閣下に御判断を願うということだろう!」


 そんな中で、ゴードンを拘束していた二人の騎士も上役の命令で会話をしながら歩き出す。

 もちろん、そんなわけがない。ゴードンにあれほどの上等な演技はできないと断言できる。

 あの、まるで焦点の合っていない目は、明らかに正気を失った奴のものだった。


 ヒュドラの毒のナイフをどうやって手に入れたのか?

 どうやってジュートノルに帰ってきたのか?

 そもそもなぜジオを刺したのか?


 疑問ばかり湧いてきて、怒りや恨みよりも、あの言葉が俺の心を埋め尽くす。

 因果応報。

 刺された直後のジオの達観したような目を思い出すと、仇を討とうという気すら失せてくる。


 結局、騎士達に連行されて遠ざかっていくゴードンを、ただ見送ることしかできなかった。






 あれから。

 テレザさんによる応急処置が終わって、薬で眠らされているジオを奉じた戦勝パレードの軍列は、終着点の政庁前広場を目の前にしながら公都へと引き返すことになった。

 行きとは打って変わって、不気味なくらいに沈黙する観衆に見送られて、粛々とジュートノルを出ていく軍列。

 もちろん、公王暗殺未遂というあってはならない大事件の影響は早くも出ていて、マクシミリアン公爵を始めとした公国の重鎮たちは善後策を話し合うために、先行して公都に戻っている。

 残るテレザさんとリーゼルさんはジオの側につきっきりな中、俺はというと、軍列の最後尾の荷馬車の縁に座って、少しづつ遠ざかっていくジュートノルをぼんやりと眺めていた。

 考えているのは、パレードの合間に会いに行こうとしていた、ターシャさんたちのことだった。


 軍列の中に俺がいたこと、気づかれていただろうか?

 ヘルメットで顔は隠しているけど、黒の鎧は何度も見せているから、観衆の中にいれば分かったはずだ。


 それとも、白いうさぎ亭が忙しすぎて誰も来ていなかっただろうか?

 そっちの方がいいかもしれない。


 なにしろ、ジュートノルのあちこちで公国軍と刺客による大立ち回りが演じられていたんだ。

 なんの関係もない住人旅人の中からたくさんの怪我人が出ていてもおかしくない。

 ティアのこともあるから、ダンさんなら人出の多い日にわざわざ休みになんてしないはずだ。


 朝は宿泊客を見送りながら仕事を始めて、昼はランチ客をあしらって、夜は宿泊客を受け入れてもてなして。

 竜災でどんどん状況は厳しくなるけどみんなで頑張って毎日を笑いながら乗り切って――


「……会いたかったな」


 夜じゃないから流星どころか星一つ見えない青天の空。

 だから、どこに届くでもなく届いてほしいとも思わない、ささやかな俺の願いは、すぐに消えてつぶやいたことすら忘れるはずだった。

 一生記憶に残るはずはなかった。


 最初は、目にゴミでも入ったかと思った。

 次は、顔の前で虫が飛んでいると思った。

 それも間違いで、実際は、はるか遠くからすさまじい速度でなにかが接近してきていると気づいた。


「やめろ」


 なんでそんな言葉が口をついたのか、自分でもわからなかった。

 強いて言うなら、五感に優れるエンシェントノービスの直感だろうか。


「やめてくれ」


 なにか――上空を飛行している黒い物体がわずかに下がっていると思った瞬間、狙いはここじゃないと理解した。


「だめだ、そっちはだめだ」


 次第に黒い物体が大きくなって、金色の瞳を備えた相貌をその中心に見て、それがドラゴンだと思った瞬間、

 俺の呟きを聞いた周囲の衛士達の奇異の目を無視して馬車の縁から飛び降りて、ジュートノルへ向けて走りながら泣き叫んでいた。


「やめてくれええええええええええええええええええ!!」


 直後、人族の想像を絶する速度で飛来した黒竜は、ドラゴンブレスを使うことなく地表に降下、やや鋭角にジュートノルの街に着地し、勢いのままに進路上の人と建物を一つ残らず蹂躙した。

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