第336話 戦後と士気


「ああ、青空がここまで清々しいものだとは、考えたこともありませんでした。まさに、神に感謝したくなるような気持ちですよ」


 翌朝。


 用心のために、土の要塞の中で一夜を過ごした後、朝日が昇るのを待って衛士達が天井を解除。

 見た目としては、半球状の土壁を廃城をぐるりと囲む第二の城壁へと変えたところで、ようやく警戒態勢が解かれた。

 ただし、連合軍にとってはここからが忙しくなる。


「でも、俺達はこんなにのんびりとしていていいんですかね?」


「よいのですよ。テイル殿はゴブリンの群れの一つを壊滅させました。本来ならば、騎士一個部隊で当たっても苦戦は免れない規模の相手です。武功としては十分すぎるほどですよ」


「そう言うリーゼルさんは?」


「私の役目は、事のあらましを公王陛下に報告することです。今頃は、同行させている文官衆が、連合軍から情報を吸い上げている頃でしょう」


「それを手伝おう、という気はないんですね」


 文官には文官の、貴族には貴族の領分ってものがあるのは分かっている。

 それでも、我関せずとのんびりしているリーゼルさんに、文官衆の代わりに文句の一つや二つを言ってやろうとして、喉元まで出かかったところでやめた。

 そんな俺の心の揺らぎを、ジオ並の読心術の心得があるリーゼルさんは見逃してくれなかった。


「こんなものでは物足りない、と思っていらっしゃいますか?エンシェントノービスの加護を十全に使えば、もっと何かできたのではないか、と」


「いや、別に……」


「確かに、テイル殿が出ていけば、あの風竜に効果的なダメージを与えることができたでしょう。ともすれば、捕らえることすら可能だったかもしれません」


 これは、リーゼルさんに戦いの一部始終を報告した衛士兵団の指揮官の話だけど。


 昨日、風竜が起こした雷を凌ぎ切った衛士兵団は、そのままタイタンの槍による反撃を開始した。

 分厚い雷雲を吹き飛ばすほどの、計十二門による一斉連射。

 だけど、雲間から姿を現した風竜が怪我を負っている様子は微塵もなかった。

 普通なら、手痛い反撃が待っているところだろう。

 それにもかかわらず、しばらくこっちを観察するように空中に留まっていた風竜は、やがて日没を追うように空の向こうへと飛び去ってしまった。


「現れたのがたった一体だったこと、攻撃がドラゴンブレスではなく雷の一撃のみだったこと。これらから、風竜の目的はただの偵察であって、こちらとの戦いを望んではいなかったと推察できます」


「でも、あの雷は危険な威力だったじゃないですか。それこそ、衛士兵団がいなかったら全滅していたかもしれない」


「風竜にとってはどちらでもよかったのでしょう。あの程度の雷で全滅するならそれまで、防いだのならその事実を報告するまで。実際には次の雷が落ちてもおかしくはありませんでしたが、殺傷力を抑えたタイタンの槍による牽制が帰還を決意させた」


「そんなことまでわかるんですか?」


「まさか。今のは、風竜がそう考えくれれば重畳だな、という私の願望です」


「そんな適当な……」


「適当程度でちょうどよいのですよ。見てください、彼らの表情を」


 そう言ったリーゼルさんの視線の先には、つい昨日にドラゴンの襲撃を受けたとは思えない光景が広がっていた。

 指示を出している騎士、瓦礫を運んでいる衛士、ゴブリンに囚われていた女性を馬車に乗せている兵士。

 その誰もが、戦いに勝利したように目を輝かせていた。


「実際は風竜の気まぐれにすぎないのに、とお思いですか?」


「そんなことは、……その通りです」


「私も同感です」


「えっ?」


「ドラゴンの目的や行動原理を知る者なら、テイル殿や私と同じ結論に落ち着くでしょう。ですが、ほとんどの騎士や兵はその事実を知らないどころか、ドラゴンを見たのも初めてのはずです。そんな彼らに、残酷な真実を伝えることに意味はあると思いますか?」


 リーゼルさんの問いかけに、俺は言葉を返せない。返す言葉もない。

 それこそが同意の証と取ったんだろう、端正な顔立ちに薄く笑みを浮かべたリーゼルさんは、


「必殺の雷撃を防がれ、空高く舞う己の鱗に届くタイタンの槍を受けた風竜は、前後不覚に陥りながら撤退した。これから巷に流す噂はおよそ実態とはかけ離れたものになりますが、それでいいのですよ」


「偽の情報なのにですか?」


「兵卒に正確な戦況など知らせませんよ。むしろ、本物の情報など上層部にとって都合の悪いものがほとんどですから。いかに兵に気持ちよく戦わせるか、軍の士気を維持する嘘こそが肝要なのです」


「ドラゴンと戦うために、ってことですか?」


「テイル殿一人を英雄にさせず、衛士一人一人が英雄となるために、ですよ」


 廃城の中庭での、リーゼルさんとの会話。

 とてもじゃないけど赤の他人には聞かせられない内容なのに、こっちに関心を寄せてくる人は誰もいない。

 きっと、それぞれがそれぞれの役割を果たしていることに精いっぱいで、他のことに気を回している余裕がない、ただそれだけのことなんだろう。

 だけど、ひょっとしたら誰も彼もが自分の分というものを弁えていて、無意識のうちに耳を塞いでいるんじゃないだろうか?

 そう思えてならなかった。






「ジオグラッド公国準男爵、リーゼル=キアベル卿はおられるか!!公都よりの火急の知らせを持って参った!!」


 その急使が廃城の中庭に乗り込んできたのは、公都帰還のための衛士兵団第一陣の列が出発しようかという時だった。


「私はここにいるぞ!どこからの知らせか!」


「ジオグラッド公国宰相、マクシミリアン公爵からです!こちらを!」


「寄越せ!」


 長い距離を一気に駆けて興奮しているんだろう、口から泡を飛ばしながら中庭をぐるぐると回り続ける馬に蹴飛ばされないように、何人も逃げ出す中で。

 流れに逆らうように進み出たリーゼルさんが、寄ってきた馬を恐れることもなく使者の手から真っ赤な封蝋が押された手紙を受け取った。


「テイル殿!!」


 懐の鞘から引き抜いたナイフで封を切り、中の手紙を取り出して、開いた文面を小刻みに目を動かしながら把握して。

 手持無沙汰を解消するために、他の衛士に混じって荷物の積み込みを手伝っていた俺の名を叫んできた。


「リーゼルさん、どうかし――」


「一度しか言いませんのでよく聞いてください。このような事態のために、公国軍には最速で公都まで帰還できる特別製の馬車を同行させてあります。今すぐに用意させますので、テイル殿にはこれに乗っていただき、一足先に公都に帰っていただきます」


「え、な、なんでそんなこと……」


「ちなみに、御自分の加護を使うのはお控えください。その理由は、先ほどの会話を思い出していただければ、ご理解いただけるはずです」


「わ、分かりました……」


 なにがなんだかわからない。

 だけど、ドラゴンの襲来の時ですら余裕の態度を崩さなかったリーゼルさんの、激情を抑え込むような眼の光を見たら、頷く以外の返事はできなかった。


 その、蛇に睨まれた蛙のような俺の態度に気づいたんだろう。

 少しだけ我に返ったリーゼルさんが、鋭い眼光はそのままに言った。


「馬車の用意には少し時がかかるでしょう。その間に、書状の中身――宰相閣下からの二つの知らせを簡単にお話しておきましょう。もっとも、テイル殿の関心は圧倒的に片方に集中するでしょうが」


 そう前置きしたリーゼルさんの話は、確かに俺が待ち望んだものだった。

 正直、もう一つの話はほとんど頭に入ってこなかった。


「リーナ様が目覚められました」

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